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二十九話【紅に満ちる】

 アークバロット。その男の偽名は【黒土真壁】。

 俺を未来の闖入者(ちんにゅうしゃ)と呼んだ、月曜日に出会ったサラリーマンを装う世界支配を目論む悪魔……。


「零。アークバロットを倒すったってさ、コイツも居場所が分からないんじゃあ倒すのなんて無理なんじゃないか?」

「……まぁな。今のアイツの居場所はオレ達なんかには、想像もつかねぇだろうさ。だが─────アイツは明日、亜矢場のある所に行くという情報をオレは掴んでいるんだなこれが」

「……?」

「亜矢場にある廃病院。あそこはなんでか知らないが、魔力が豊富に散らばっているらしくてな。どうやら明日、アークバロットはソコで魔王蘇生の為の第一段階の儀式を行うらしい」


 ─────亜矢場の廃病院?

 身に覚えのある所だが、多分関係ないはずだ。

 少しばかし動揺で高鳴った胸を抑えつけて、話を聞く。


「オレ達はそこを狙う。明日の深夜、アイツが、アークバロットが儀式を行っている最中に忍び込んで奇襲して倒すって寸法だ」

「なるほど」

「どうだ、良い案だろう? 儀式ってのは、集中しなきゃ成功するもんじゃないんだよ。……奇襲する状況としてはあまりにもベストなタイミングって事」

「─────」


 確かに、その理屈ならアークバロットを倒すのは成功するかもしれない。……多分、彼女(れい)だって魔術側の人間なのだし相当に強いのだろう。俺の腕の力を使った時も、まったくと言っていいほど焦っていなかった姿から(かんが)みても、そうだ。


 ……だが不思議と、何か引っかかっているコトがあった。

 漠然と心の中に点在するナニモノ。それが何者か。答案もない、その疑問に答えなぞ浮かんでこない。


「時刻は明日から明後日に日付が変わる直後。廃病院にてアイツは儀式を始める」

「……」

「寝坊したり、逃げたりなんかしたらただじゃおかねぇからな?」

「─────そんな事、分かってるって」


 ただ呆然と立ち尽くしながら、思考した後に。

 ただ思考を放棄した。

 ただ諦観(ていかん)する。


 そんな事、今は良い。


「それならいい。集合時間は余裕を持って明日の午後八時。或間駅前にあるカフェ【キャッス】入口付近としようじゃないか」

「……? 喫茶店の前なんだな」

「んだ? 文句あるか?」

「いや、文句ってワケじゃないが……」


 深夜十一時か。

 かなり夜が深い頃だし、ソフィアとの悪魔捜索もとっくに終わっている時間のはずだから。……問題ないだろう。

 それにしても駅前にある【キャッス】は猫喫茶だったはずだが。そんな所に集合で良いのだろうか?


「もしかして零。あんた猫が好きなの─────か」

「─────なら喋るな。文句がないなら喋らないでくれ、ムカつくから」

「急にそれは酷すぎないか⁉」


 ……ったく、やはり良く分からない人間だ。秋葉零(せんぱい)は。

 作戦会議をしようとか、猫喫茶を集合場所にするとか、喋るなとか。懐疑的な事が多々ある、……もしかしてコレも魔術教団なりの特別な作戦だったりするのだろうか?


 考えれば、考える程思考は冴えて深まっていく。

 しかし、どうやらそれは全て的外れだったようで。

 眼前に居た先輩は表情を紅潮させながら─────。


「あー! くそめんどくせぇヤツだなテメェはぁ!! もう一生、黙ってやがれ!」


 なんて叫ばれてしまった。

 ……ああ。不幸な俺よ。どうか、神様からのご慈悲を下さいませ。眼を瞑り、そんな短絡的に、希望的観測な妄想を広げて不思議と飛んできた拳を俺は直に食らった。


「うぶっ⁉」

「はっ、テメェはサンドバッグになるのがお似合いだぜ……」


 殴られた、零に。

 なんでか知らないが、どうやら俺は殴られた様だ。

 その事実は部屋で吹き飛んでもう一度立ち上がり、ひりひりとする頬に手を当てた時に気が付いた事である。


「なんで俺は殴られたんだ……」

「ふん。さぁな、それはテメェ自身の過去の行いでも考えてみれば、分かる事じゃあねーかな」

「はい? 過去の行いって……俺はそんな大罪を犯したのか」

「─────く、ああ。そうだな。テメェは大罪を犯している、殺人なんてモノをな」


 にやり。と彼女は笑いながら、予想外の方向からの言葉を指し飛ばしてきた。……俺が人殺し、だと? それは確かに大罪だが、そんなモノを犯した覚えもない。どういう事だ。


「人殺し、だって?」

「そうだよ。……分からないのか? お前が今まで消してきた悪魔の肉体の元ってのはだな、全て生きていた人間が材料なんだよ。なんせ、源種でもない限り悪魔ってのは人間の肉体に憑依する事でしか─────世界に顕現出来ないのだからな」

「─────あ」


 ……理解する。

 俺の今までしてきた事を言語化すれば。……そういうコトなのだと。今更、俺は指摘されて気が付いた。


「テメェはなんで、今までそんな事にも気がつかなかったんだ? ……いいや、気が付こうとしていないだけか? 相手が何者かって、直視出来てねー言葉飾りだけのお前には理解しがたい事実だったか?」


 ─────その言葉には、反論さえも見当たらない。

 そう。その通りだからだ。俺は彼女を守る、町のみんなを助けるというためだけに。そんなエゴの為に自分は、悪魔に取りつかれた被害者達も同時に殺してきた。


 その事実は今や、どうやっても覆せるものではない。


「そうだな……そうかもしれない。俺は確かに人殺しかもしれない。だけどさ、……悪いけど俺は正義を貫きたい訳ではないんだ。人間としての倫理観が欠陥品だとしても、俺はそのままでいい」

「ほう、そりゃどういう意味だろうな?」

「─────俺にも分からない。これだって言い訳に過ぎない。だが言わせてくれ。俺には守るべき者がある。守りたいと思う笑顔があるんだ。その為には、人の犠牲だって……」


 偏愛だと、自分でも気付いている。

 ただ一人の少女の笑顔を見るために人と殺す?

 それは悪か、善か、それとも偽善か。

 多角的に見れば、客観視すれば俺が何者かってのはきっと変わってくるはずだ。勿論、大衆から見ればこんなのはただの馬鹿げた”悪”にか過ぎない。

 だがそんなのは、本当にどうでもいい。短絡的でいいんだ。

 だって。


 ────ただ俺は約束した。彼女に協力すると。


 彼女が幸せに笑ってくれているならば。それで十分。

 ただ、それだけが俺の人を殺す行動原理なのだから。


「……ただ約束したんだよ、彼女に協力するって。だから、それだけだ。─────彼女の敵は、俺の敵。例えそれが元人間でも、俺は殺す。消す」

「ははっ、やっぱりテメェはコチラ側に来たんだし。それぐらい狂ってないと困っていたが。……呆れたぜ。ま、面白いから良いが」


 彼女はくくと笑いながら、今までずっと黙り座っていたシルファに紅茶を要求しうていた。……空気が緩和する。


「─────」


 己の右腕を視界に入れて、ただ視た。

 俺のこの選択があっているなんか、知るものか。

 ただ俺が良いと思った方に進む、それだけで良いのだ。


「じゃあ、情報提供を感謝する。俺はこれで失礼するぞ」

「ああ、好きにしてくれ。明日、遅れるじゃねーぞ? 一秒でも遅れたら、殺してやるからな。覚悟してやがれ」


 果たして俺は、なんと空返事をしたのか。

 それは覚えていない。ただ、重い気持ちでこの部屋から出た事だけは覚えている。部屋を出て、エントランスホールに向かった。


 だけどあまりにも重く苦しかったから。

「……ん、あれは悪い思考だ。ネイティブ思考とか、あまり良くないし。やめろ、志摩弥(オレ)

 独り言を吐き捨てて、その思考を放棄した。


「やめだやめ、こんな思考。柄じゃないだろう!」


 思い切って、扉を開けて外に出た。

 部屋を出る時の時刻は確か、十二時辺りだったはずである。てことは今もそれぐらいだろう。息が苦しくなる程に眩しい太陽の光は零落(れいらく)してきた。


 外の空気は良い。

 自然の木々や、庭園に咲いた花が生み出す空気ほど最高な物はないだろう。ここで息を吸って吐いてを繰り返していると、本当に現実なんてどうでもよくなるほどだった。


 だが、それじゃダメだろう。

 現実を直視するためには。


「さて、これからどうするか……」


 そういえば、今日は学校だった。そして俺は先輩に無理矢理? 秋葉邸に連れてこられて、今も制服姿。このまま普通に歩いていたら、多分補導されるか……もしかすると、他の教師やら生徒やらに見つかるかもしれない。

 それは、最悪だろう。


 ……ならば、一直線で家に帰るのが一番の策だな。

 ……いやしかし、志摩家(いえ)にはソフィアがいるはずだ。

 今帰ったら、何学校さぼってんじゃぼけー的な事を言ってくるかもしれん。


 ぐぬぬ、これこそ選択に困る。

 どれを選ぶのが正解なのか、全く見当がつかない。


 地面を眺めながら、庭園の外へと向かって歩く。

 その直後だった。


「─────、?」


 ビュンと風を切る音が体感を駆け抜けた。

 思わず顔を上げて、目の前を正視する。

 ……緑の世界に一つ。


 有り得ない色があった。


「あ、か?」


 ─────紅色。

 そこには緑色に包まれた庭園には、あり得るはずのない紅色の影があった。鮮血にも、夕陽にも、薔薇(ばら)にも見える。

 だがそれは、言い逃れ出来ないぐらいの人影だった。


 理解不能。


「─────、え?」


 一秒。紅の影は延びた。そして、一閃を俺目掛けて飛躍させてくる。……紛れもなく、剣撃。


 空気を裂く音さえも既に聞こえない。視認する事さえも容易な鈍い一撃─────否、それは視認可能な残影さえも映し出す神速の剣撃だった。


 空気抵抗に顔が引き()る。

 覚えた感触は、もういない。

 ただ無感動に詰まる死に無抵抗。

 ─────されど、この世界に立ったからには。


 ここで死ぬワケにはいかなかった。


「う、……あっ‼」


 一歩後退し、剣撃を避ける。

 一拍置いて、視認する。


 目の前に立っていたのは、日本刀を持つ侍を想起させる男性用袴(はかま)を纏った男だった。

 赤髪に黄土の眼光。

 見知らぬその影。


「あ? 仕留め切ったと思ったんだが、無傷か」

「─────っ」


 奇襲。その言葉に目がくらむ。

 男の右手には、ぎらりと赤く輝く日本刀が一つ。

 先刻の剣撃が行われたのは、この武器だろう。


「侍姿の癖に、奇襲とは関心しないな……。わざわざ俺を殺しに来やがって─────お前、何者だ?」

「……生憎、コチラは侍の精神などとうに捨てた身でね。悪いが、泥沼に浸かってる俺からしたら嘲笑もんだ。それに、俺が何者かなんて答えるレベルにお前がいるかどうか─────」

「……っ」


 蒼天にすら見えるその袴姿。

 持つは赤き妖刀。正真正銘の武士、侍。……にしか見えないが、どうやら違うとの答えだ。木枯らしの突風が舞って、場を一瞬だけ制止させた。

 時に静寂。


 俺と相手(アイツ)双眸(そうぼう)はそれぞれ交錯する。

 侍は日本刀を既に中段に構えている。


「この一撃で、確かめさせてもらおうッ─────!」


 空気が溶ける。


 鮮血。目の前から大地を断ち、大地を蹴る音が聞こえてきた。そして火竜が飛び込んできたかの様な熱風を錯覚しながらも、男が飛翔してきた事を目視する。

 あまりにも(はや)い。


 逃げる暇などない。敵はもう眼前へと迫っている。

 ならばコチラも応戦するまで、─────だったのだが。ふと思う。

 俺には、武器がないと。


「……っくそ⁉」


 縦に振り翳される一撃。

 音速すらも凌駕する、世界断絶の警鐘と共に風が鳴った。


 ……まずい。その一撃を食らえば、己は優に死に至る。

 だから、本能が先に動いた。


「う、ぁっ……っ!!!」


 避ける。縦に落ち込む一閃を。

 一手目。体を横へと移動させて、死から俺は回避する。コイツが何者かは分からない、だが─────全力で対峙しなければ死ぬと確信するほどの相手だ。

 ならば。


 二手目。

 男は更に日本刀を振り翳し、横に延ばした。



「っっ! ─────ああっ!」


 男の姿を認知すると同時に、無我夢中で蹴り飛ばす。

 故に刀の軌道はズレて、俺を断つ事は起きない。

 旋風が立ち込めるかの様な一蹴。

 ─────だがそれは、外れた。


 まるで知っていたかの様なその一瞬。


 蹴る体制に移行した為にその剣撃は当たらなかったが。

 男は止まらない。


「はッ、これで終わりだ!」


 男は剣線を紡ぎ上段で、真上からの剣撃を落とす。

 だがそれさえも避ける─────ああ、それは不可能だ。

 上を見上げると、少しばかしだけ剣影(けんえい)が映った。


 あまりにも速い速度。


 既に避ける事は不可能な、必中的で必殺的な一撃。

 豪速のその速度を捉えるには、俺はあまりにも遅すぎる。

 微かに笑いさえも生まれてくる。避けれない。



 ─────されど、俺にはまだ手が残っている。



 右袖をたくし上げて、急速に告げた。

 始動する力に、呪う対象を定める。

 天に輝く刀身を目視しながらも、赤い電撃の海に包まれて─────。


 目睹。


「”略奪構築(ロスト・マギア)”─────!!!」


 魔術発動(マギアクエスト)成功(クリア)

 俺は一つ奪い、飛翔して後退する。

 肉体的限界なんて無視して、ただ飛んだ。


 無意識に間合いから外れる。


 ─────振り(かざ)されるはずだった攻撃は、俺には到達しない。

 何故か。理由は単純である。

 男は一秒停滞し呼吸した後に、先に立つ俺を見据えた。


「俺の妖刀を武器と扱うか、この盗っ人が─────ッ!」

「悪いな、これが俺の戦闘技術(スタイル)だ」


 己の左手には、先刻まで男が持っていたはずの赤色の刀身をした日本刀。

 男は蔑み、憫笑するように、激怒するように、コチラを見てそう叫んだ。

 成程と理解する。


「お前が何者かは知らないが、俺はこんな所で死ぬほど暇じゃない」


 左手に持った日本刀に力を込めて、言いたいことを告げた。

 俺に勝負を仕掛けてくるというならば─────コチラも、それに応じるまでだ。盗っ人などと叫ばれても問題はない。

 それは敗者の、負け犬の遠吠えだ。


「……ふん、どうやらお前は、俺が思うより以上に随分と豪胆な賊らしい」

「はっ、ならば奇襲してくる侍は、なんだ? 暗殺者(アサシン)……ってか?」

「─────テメェ」


 男の鬼気が指数関数的に増幅する。

 これを殺気と言わずして何と呼ぶか。それは不明だ。

 全くもって吐き気がしてくる衝突する殺気。


「ああ。いいだろう……お前には心底失望したぞ、ワタル。教えてやる、俺の名前は【逢瀬継信(おうせつぐのぶ)】。生憎様、これは偽名だが。今のお前には、その程度で十分だ」

「─────……はっ、失望したとか、奇襲を仕掛けてくる侍に言われてもな。全く、響かねえよ」

「ふん。それは、お互い様だろう?」

「あ?」


 こいつの言葉はそれで途切れた。

 なんでコイツが俺の名前を知っているのか、今はそんな事を思考する事は出来なかった。


 刹那に継信が大地を蹴り上げる。

 神速さえも凌駕する光の影。視認する事さえ許さない一撃に、俺は啞然する暇さえも思い浮かばない。

 だが案ずるな、今現在、相手は武器を持っていない。

 ならば、案ずるな。


 己の身を信じろ。


「─────ゥ」


 吸って吐いて。俺は剣を振るい上げた。

 それと同時に、気が付けば俺の懐まで男は迫り切っていて。驚愕。……だが、声は上げない。何故ならば、まだ視えている。

 まだ、追えている。


 厳かに天へ伸ばした鉄塊(かたな)を地面へと叩きつけた。


「─────っァ!!!」

(とろ)い!」


 違う。その振り落とした刀は地面へ自由落下する直後に、男の右肘によって横へとずらし、弾き飛ばされていた。

 ……故に、体も同期するように左へとズレる。

 重心が(ほころ)ぶ。


「賊相手には、これで十分だっ!」

「ぐ、あ……」


 侍なんて姿は想起出来ない。

 継信は瞬時に俺の腹目掛けて、脚で殴った。

 体は軽々と軽快に、払われた(ちり)の様に吹き飛ぶ。


 草と地面と体が摩擦し、俺は左手に持っていた刀を手放しながらも空中浮遊の後に転げ飛んだ。刀だけが遠くに落ちる。

 十メートル近く吹き飛んだのだろうか。


「な、んだ。そりゃ……」

「いくら落ちぶれた侍とて、ガキに負ける程零落しちゃいねぇんだよ」


 吹き飛んだ先で見上げて、男を見た。

 男は遠くに吹き飛んだ刀を拾い上げる。

 腹が痛くて、体は思うように動かない。

 力みとて、体力を浪費するだけ。


 ─────動かない。


 ─────だが、まだ。


「……ぁ」


 立ち上がる。

 こんな所で死ぬワケにはいかないだろうと、さっき言ったばっかりだ。虚ろに揺れる視界の中で、再び焦点を目の前に立つ侍へと合わした。

 泥酔したかの様な心境。

 だが、まだ。


「……なぁ、あ。お前、なんで俺なんかを殺そうとするんだ……?」

 聞きたい事がある。

 だから、気絶するワケにも。死ぬワケにも。立ち止まるワケにも、いかない。


 その黄土色の男の瞳は真っ直ぐだ。

 泥沼に落ちた侍……か。過去に聞いた男の言葉を思い出す。

 その赤を纏う男の髪は、ぞわぞわと逆立っている。

 殺気は心なしか、少し減少した気した。


「─────そうだな。遠回しに言うならば、俺が『魔術教団の模索者(シーカー)、魔王蘇生派』って話だろうな」


 継信は答えた。

 己の正体を開示する。


 魔術教団の模索者(シーカー)、魔王蘇生派。俺がこれからしようとしていることは魔王蘇生の阻止……である。つまり、これが意味する事は─────。


「邪魔者の、排除ってか?」


 吐血しながら。もう一度聞いた。

 しかし。男はもう口を開かなかった。

 つまるところ、それがコタエ。


 目が潤む。目が濁る。目が沈む。

 ─────例えその目的を理解しようとも、俺にはどうすることもできない。何故ならば、相手は見るからに格上の存在だからだ。

 今からもう一度仕切り直して戦った所で、無駄死にするだけである。


 だが、それを理解しても。これより先の手順が浮かばなかった。


「……ふん。ああ、お前はそう思うか。─────いいや確かに、そう思うだろう。当たり前、か」

 だが、いくら待っても男からの次の攻撃は来なくて、それどころか侍は喋り始める。


「……? お前、何を言ってるんだ─────」

「………………。良い、今回はお前を逃がしてやる。今死んでもらっては俺が困るからな、今のはちょっとした腕試しって話だ」

「……あ? なんだよ、それ」

 地面に剣先を突き立てて、眼前に立つ敵は笑う。……いいや、この状況。目の前に立つその何者が、何者なのかは分からない。


 唐突に告げられた、終わり。

 戦闘終了の合図に、意味すら考察不可。

 急にソイツは一人合点して、納得して、急に戦いを終わらせてしまった。……奇襲してきた癖に、どういう了見だ。


「だが、次会う時はきっとお前の役目は終わってるだろう。……その時こそ、俺はテメェを殺す」

「─────っ、上等だ」

「それで良い。それが威勢の良い在り方だ。お前らしいぞ志摩弥」

 更に。


「俺も少しばかし予定より早い来日だ。今から彼女たちを来訪しよう思ったが……それでは狂う。日本観光は今からだからな……その間にうんと生きているといい」

「─────」


 俺が何かを言う訳でもなく。気が付けば眼前に立っていたはずだった男は、視界から消えていた。音すらない消失。

 一瞬の激戦の収束に、俺はやっとこさ呼吸を取り戻す。


「は、ぁ……あ」


 疲れた。

 相手は、一体何が目的だったのか。

 良く分からない。


 だが、俺は今こうして生きている。

 ならば、約束を破る訳にはいかないのだ。だから、俺は重い体を動かして。……家へと歩き始めた。


 もう、学校をサボったからとソフィアに怒らせる云々は気にしていられない状態になってしまったのだから。

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