表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/19

part09 翌朝の明龍

「シークレット・フォーミュラ2」は「シークレット・フォーミュラ(https://ncode.syosetu.com/n0091gc/)」の続きです。


<登場人物>

・東京: 林愛良はやし あいら:武道家、スポーツインストラクター、蕭師匠を尊敬している。

・東京: 坂本崇高さかもと たかし:空手家、スポーツインストラクター、愛良と幼なじみ。


・香港: しゅう師匠:古く続く武道流派の師匠。息子たちが小さい頃に、難病の妻に先立たれている。

・香港: 蕭明龍しゅう めいりゅう:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。

・香港: 蕭明陽しゅう めいよう:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。


・台湾: 張忠誠ちょう ちゅうせい:武術ライター。


「シークレット・フォーミュラ」

https://ncode.syosetu.com/n0091gc/

 翌朝、愛良がトレーニング・ウェアを着て1階へ降りると、明龍が何をするでもなく座っていた。

「あれ、起きてきたの?」愛良の姿を見て、驚いたように明龍は言ったが、すぐに微笑んだ。

「昨日は疲れただろ、もっと遅く起きてくるかと思ってた」

「あなたこそ疲れたでしょ。私はあなたたちにしてもらってばかりだったから、疲れてないわ」

 愛良は明龍と向かい合って座った。

「そうか、俺は何となく気分が乗らないんだ。たまにそういうことがあるけど、そんな時は椅子に腰かけてぼうっとしてるよ。君はそういうことってない?」

「あるわよ。したくない時は修行はしないわ。ねえ、今日はストレッチはやめて、ちょっと話さない?」

「ああ、いいよ。外へ行こう」明龍は立ち上がり、紳士のように愛良に手を差し出した。「今日も天気がいいから気持ちいいよ」

 愛良が明龍の手の上に自分の手を乗せて立つと、明龍は愛良の手を握って外に連れ出した。

「マニキュアは昨日のままだね」

 明龍に言われて愛良は、これ綺麗でしょ、と自慢げに爪を見せた。

「こんなに綺麗にしてもらったのに、すぐに落としたりしないわ。それに、これを落とすにはお店に行かなきゃいけないんですって。これは1ヵ月くらいもつし、東京に支店があるから、アフターケアはそこでどうぞって言われたの」愛良は自分の爪を眺める。

「昨日は美容部員さんに、ずいぶんいろんな化粧品をもらったわ。女性って普通、一度にあんなに使うものなのかしら」

「まあ、君はそんなに興味はないかもしれないけど、もし気が向いたら使ってよ」

「ありがとう。高級化粧品ばかりよ。化粧する前の下準備はこうで、化粧を落とす時はこの順番でこれとこれを使って、落としたら蒸しタオルを何分顔の上に置いて、それからこれをつけたあとでこれをつけて、って。もう忘れちゃったけど、丁寧にブックレットも持たせてくれたから、それで勉強させてもらうわ。あの綺麗な販売員さん、商売だからでしょうけど、すごく熱心に教えてくれたの」

「良かったね、美容に興味が出て来たかい?」

 少しはね、と愛良は笑ってから、ねえ明龍、と歩きながら声をかけた。

「昨晩私たちが映画を観ている時に、あなたは師匠とやって来て、仕事の話が長引いたって言ってたけど、本当に仕事の話だったの?あなた師匠から何か聞いてるんじゃない?」

 木陰には木製のベンチが置いてあったので、2人はそこへ座った。

「ああ聞いたよ。師匠の部屋で何があったか」

 明龍は隣の愛良を見た。

「師匠は何て?」愛良は聞く。

「自分がしたことで、君を傷つけたんじゃないかって言ってた。でも君は師匠のこと、男性として愛してるんだろう?」

 愛良は明龍を見ながら、そう思う?と首を傾ける。

「私は師匠を、祖父と同じくらい尊敬しているわ。立派な方だし、人間としてとても魅力的な人よ。だけど、私は師匠と結婚したいとか、恋人になりたいとか、そういう気持ちは持っていないわ。師匠がすごく素敵な人で、私は師匠が大好きだから、その気持ちを時には恋をしているものと勘違いしそうになるけど、実際には、そういう感情とは違うと思うの」

「そうかな。だって晩餐会での君は、師匠にエスコートされて、師匠に恋する1人の女になってたよ。もう、師匠を見つめる視線がそうなってたよ」

 愛良は、そうだった?と言いながら笑うので、明龍は、そうだよ、と答える。

「君は意地でも師匠が好きだって認めないんだね」

「ねえ、師匠は男性にも人気があるでしょ。あれだけ素晴らしい人なんだから、男性でも師匠のことを、かっこよくて貫禄があるから好きだと思っている人は多いわ。そういう人は、尊敬する師匠に優しくされたり抱擁されたりすれば、嬉しくてたまらなくなるはず。だからそれと同じようなものよ。私は女だから、それを恋のようなものだと勘違いしそうになることは、もちろん認めるけど」

 そう言って愛良は、明龍の疑念を打ち消すかのようにまた笑った。

「でも君は女性だから、そういう気持ちがきっかけで、これから師匠と恋に落ちてしまう可能性もあるよね」明龍は責めるように言う。「だって、もうキスしたんだろ?愛してるからじゃないの?愛してなかったらキスはしない。それだけじゃないよ。ソファに押し倒されたんだろ?」

 詰問されるのを避けるように、愛良は明龍の肩に触れた。

 明龍はその手を取る。

「どういう気持ちだったの?師匠を好きになったんじゃないの?」

「正直な気持ちを言ってもいい?」

 愛良は明龍の目を見ながら尋ねた。

「ああ、聞きたいよ」

「師匠はまず私に、好きだと言ってくれたの。とても嬉しかったわ。それから私に体を近づけてきた時、キスされると分かったの。もちろん拒否はしないわよ。尊敬する師匠が私にキスしてくれるのなら喜んで、という気持ちだったの。それと、師匠は私を押し倒してなんかいないわ。あの時師匠はキスしながら抱きしめて、ゆっくり、優しく倒してくれたのよ。師匠のことはもちろん大好きだし、どうしたらいいのかちょっと迷ったけど、抱きしめられたままのキスが長くて、私はぼうっとしてしまったわ。両腕に抱かれていたけど、きつくではなくて、そっと抱いてくれている感じ。私がもし逃げ出したくなったら、いつでも逃げられる程度にね。紳士的で、私を優しく、大切に扱ってくれているのがとてもよく分かったわ。その時私は、愛しているという言葉だけじゃなく、態度からも伝わってくるのを感じて、とても安心したの。だから逃げる気もないし、怖くないし、不快でもなかったわ。嬉しいという気持ちしかなかった。だけどね」

 愛良は少し悲しそうな顔をした。

「私は師匠を尊敬していて、師匠に会うずっと前から、心の中で自分の師匠のようだと思っている人だったから、師匠がもし望んだとしても、男女の関係になるのはちょっと違うと思ったの。何と言ったらいいか、私はもちろん嬉しかったし、師匠が私にとても優しくしてくれるだろうことは充分に分かっていたんだけど、次に進むのは違うと思って、お断りしたのよ」

 明龍が分かってくれているか、確認するような眼で愛良は彼を見た。

「そりゃ、私だって人間だから、もし師匠に何度も何度もアプローチされたら、最後には好きになってしまうかもしれない。だけどキスされた時点では、男女の関係になるのは違うと感じたから、そこまででお断りしたほうがいいと思ったの。師匠は優しいから、その余裕を私に与えてくれたわ。私を好きでいてくれるという気持ちと、私を傷つけたくないという気持ちを同時に感じたの。強制するようなことは何もなかったし、とても優しかった。ただ、師匠の気持ちには答えられないことが私には残念だと思ったの。師匠は優しい人だから、私を傷つけたと思ってしまったみたいね。ねえ明龍、あなたは師匠を責めたの?師匠には何も悪気はなかったわ。師匠のような素晴らしい人に優しく抱きしめられて、私は本当に嬉しかったの」

 明龍は落ち着いたような顔になって、愛良の手を放した。

「あの時、私は師匠に対して、とても済まない気持ちになりながらお断りしたわ。キスまで受け入れておいて、いけなかったかしら、と思ったの。その時は抱き締められても拒否しなかったから、師匠には、私がキス以上のことまで同意したように感じたかもしれない。でも私は師匠に、ここまでしかできないから、ごめんなさいと言ったの。それを師匠は、私が自分を犠牲にして奥さんの代わりになろうとして、できなかったかのように誤解したらしくて、私に謝ってきたの。そして、師匠は混乱して泣いてしまったわ。師匠は奥さんのことで、今まで誰にも弱音を吐いたことがなかったんじゃない?私は慰めながら、もし奥さんのことで辛かったら思い切り泣いてもいいと言って、師匠の体を抱くようにして、泣かせてあげたの。それで、師匠にはやっぱり、奥さんの存在がとても大きかったんだなって思ったのよ。とても辛かったんでしょうね。奥さんについて少しお話を聞かせてもらったけど、長い間にはもっといろんな、思い通りにならないことがあったんでしょうね」

「師匠は、君を傷つけてしまったと思って、君にしたことを悪かったと思ったようだった。これが本当に君を愛しているということになるのか、分からなくなったと言っていたよ。焦って気持ちが先立ってしまったと。君はそれほどは、そう感じていなかったんだね?」

 ええ、と愛良は言う。

「部屋に入った時は、本当にお喋りするだけだと思っていたわ。私も師匠とお喋りしたかったの。こんなことを言うのは偉そうだけど、師匠は奥さんのことで心の中にしまっているいろいろな思いがあるような気がしたから、私がそれを聞いて師匠が少しでも楽になるなら、聞いてあげたいという気持ちもあったわ。あの時、私が部屋に入って、あなたがお茶を持ってきてくれたあとで、師匠と2人きりになってしばらく奥さんの思い出を聞かせてもらったあと、愛してるって言われたわ。唐突ではあったかもしれないけど、冷静さを欠いているようには見えなかった。師匠はとても遠慮がちだったの」

「俺は師匠を責めてしまったんだよ。だって、君にキスするなんて。師匠としては尊敬しているけど、君にキスなんて、抜けがけみたいで許せないと思ったんだ。師匠は君がこっちに来る前、俺たちに、愛良を好きだという感情はあるが、告白するようなことはしないって宣言してたんだよ」

 あら、そんなことを?と愛良は恥ずかしそうに頬に手を当てた。

「そうなんだよ。師匠がそう言うから、俺は安心したんだ。だって、もし師匠が君に愛の告白なんかしたら、大騒動になると思ったんだよ。君は師匠の言うことなら何でも受け入れてしまうからね」

 そうだろ?という目で明龍が見るので、愛良はごまかすように微笑しながら、何でもってことはないわよ、と視線をそらした。

「でも、きっと我慢できなくて言ってしまったんだろうね。師匠は本当に正直な人だから。普段は静かで優しい人なんだけど、君に出会ってからは少し情熱的になったかな。しかも、あんなに簡単に前言を翻してしまうなんてね」明龍は笑いながら言う。「師匠が自分の容姿を気にするなんて、本当に今までになかったことなんだ。もちろん、身だしなみは家の中でもちゃんとしていたけど、口臭や体臭まで気にし始めるなんて。もともと清潔な人で身なりも整えていたし、お酒は飲まない、煙草は吸わない、食事もバランス良く食べてるから、体臭がするなんて思ったことはないんだよ。それに明陽も、君に会ってからはよく幼児返りして君に甘えてるし、さすが親子は似てるよね」

 君に対して感情が抑えられないんだよ、と明龍は冗談っぽく言う。

「師匠は奥さんのことが忘れられないし、明陽もお母さんのことが忘れられないのね。きっと師匠の奥さんは、本当に偉大な女性だったのね」

「伯母さんは素敵な人だったよ。俺は伯母さんが大好きだったし、今でも思い出す。病気がちで、いろんなことに耐えなくてはいけなかったけど、とても強い女性だった」

 明龍は遠くに咲いている花を見つめて、伯母のことを思い出しながら言った。

「弟は武道家のくせに、傷つくのを極端に怖がってるんだよ。伯母さんの死で傷ついたのは理解できるけど、自分が女性と深い関係になったあとで、相手に突然去られるのを心のどこかで恐れているんだ。だから、飲み屋で会ったナンパ待ちの女性とすぐにホテルに行って、そこから関係を始めようとするんだよ。あいつも馬鹿だから、眠ってる間に金取られたりしてるんだぜ。そんなことを繰り返して、だから女は信用できないとか、女はみんな俺の金目当てだとか騒いでるんだ。母親の死に傷つくなとは言わないけど、あんなに素晴らしい女性が母親だったんだから、そのことにもっと感謝しろと言いたいよ。自分だって母親から良いものを受け継いでいるんだから、もっと自分を大切にしてほしいんだ」

 愛良はうなずきながら、そうね、と言う。きっと明龍も、親子の間に立っていろいろ苦労しているのだろう。

「たまに普通の子と付き合ってるのかなと思ってると、急に自分から振られるようなことして嫌われて、自分から関係をだめにしてるんだ」

「いつか明陽も、そんな行動が無意味だと分かって、きっと素敵な女性と一緒になれると思うわ。だって、そういう所を除けば、明陽も普通の面白くて優しい男性だし、武道家としても優れてるんだから」

「それ、弟が聞いたら喜ぶよ」

 明龍に言われて、愛良は笑う。

「私は明陽のこと、好きよ。だけど、わがままで頑固なのは、やっぱりあなたたちが甘やかしてるからでしょ?」

「君は、何で師匠がちゃんと息子を叱らないのかって思ってるだろ」

「ええ、思うわ。やっぱり師匠ほどの人格者でも、息子には甘いのね」

 何か他に理由があるの?という目で愛良は明龍を見る。

「師匠と明陽って、顔がよく似てるだろ」

「ええ、だって親子だから、似てるわよ」

「だけど明陽は、伯母さんにもそっくりなんだ。ふとした瞬間に伯母さんの面影を感じることがある。弟がわがままを言うだろ?その時、伯母さんの面影を感じて、師匠は明陽を本気で叱れないんじゃないかな。俺だってそうなんだ。伯母さんは自分を抑えて生きている人だったから、明陽がわがままやたちの悪いことを言っている時、まるで亡くなった伯母さんが、抑えていたものを解放しているかのように感じてしまうことがあるんだ。このことについて、師匠と話したことはないけど、もしかしたら師匠も俺と同じことを感じているかもしれない」

「師匠の奥さん、あなたたちの心の中に生き続けているのね」

 俺たちにとって、すごく大きな存在だったんだ、と明龍は言う。

「だけど、君は本当に、不思議なほど蕭家に溶け込んでいるんだよ」

「あなたたちがみんな優しく迎えてくれるからだと思うわ」

「君はまるで蕭家の人間みたいに、自然にこの家にいるように感じることがあるんだ。門弟も使用人も、君には親しみを感じてると思うよ」

 明龍は、自分に微笑みかける愛良を見つめる。

「きっと、私たちの先祖も、あの不幸な事件があるまでは、両家は家族のように交流してたんじゃないかしら。そう思うことがあるわ」

「きっとそうだろうな。じゃあ、俺たちが仲良くなるのが、先祖の供養になるね」

 ええそうね、と言いながら愛良は立ち上がった。

「ねえ、さっきはやる気がないって言っていたけど、今はどう?」

 愛良は体を動かしながら言う。

「ああ、そうだね。君はやる気が出て来たんだろう?俺もそうだよ」

 明龍も立つ。

「ゆっくり始めない?」愛良は提案する。「ちょっとずつ体を動かしたくなってきたわ」

「そうしよう」

 愛良と明龍は少し離れてお互いに構える。

「質問いい?」明龍は聞く。

「どうぞ」

「君は構える時に、一瞬腰を落として低く構えるよね。意味はあるの?」

「あるわ。前に明陽と門弟たちの前で勝負した時に、彼に言ったこと覚えてる?明陽の方が私より背が高いから、私を立体的にとらえることができるって」 

「ああ、君は明陽を正面からしか見れないから、平面としてしか認識できない、とかいうやつ?」

「そうよ。だから私のほうが不利だって話をしたでしょ?でもその不利な条件を少しでも有利にするためには、私が低く構えて、低い位置から相手を立体的にとらえるのよ。相手を立体的に理解するには、何も上からだけじゃないわ。低い位置から斜め上にあなたを見ることによって、あなたが手を広げた場合や後ろに蹴った場合の範囲をだいたい計算できるのよ。あなたが静止している状態から、動いた場合どれだけの範囲まで届くのかを、あらかじめ頭に入れておくの」

 但し腰を落とすのは一瞬よ。ゆっくりやったり何度もやったりしたら変な見た目になっちゃうから、かっこよく一瞬でやるのよ、と愛良は言う。

「なるほど、難しいことしてるんだな」

「あなたは体格的に有利な立場だから、そんな計算は不要よ。それより戦術をどんどん練ったほうがいいわ。結局はシミュレーションでしかないけど、それが私の低く構える理由。ただ、ちょっと腰を落としただけでどれだけ計れるのか自分でも疑問に思いながらやってるわ。この計算が本当に実戦で効果があるのか、答えは出ていないの。効果がないと思ったらやめるわ」

「君はそうやって、不利な条件を少しでも克服しようと研究しているんだね」

「不利に見えても、本当に不利かどうかは分からないのよ。例えば、明陽は私に言われるまで自分が私を立体的に見れるから有利で、私は彼を平面でしか見れないから不利かどうかということを、考えたことがなかったと思うわ。最初から有利な条件にいる人は、その立場が当たり前すぎて自分が有利であると気づきにくいという点では、不利なのかもしれないのよね。そして不利な立場にいる人は、自分が何故不利で、相手が何故有利であるかにすぐ気づいて、そこからヒントを得やすいという点では有利なのかもしれない。つまり有利は不利を内包し、不利は有利を内包しているの」

 あとは本人がどれだけ考えて、実際に有効な行動を起こすかよ、と愛良は言う。

「なるほど、俺がいつも最後には君に負けるわけだよ」

 明龍は愛良を突きで攻撃する。

 愛良はそれをかわし、ゆっくりって言ったでしょ、と明龍の突きを手で戻す。

 明龍は、師匠と愛良が対戦した時、2人の息が合っていたことを思い出した。

「分かった。ゆっくり行こう」

 明龍は突きや蹴りの速度を落とした。

「ええ、そうよ」

 しばらくそうしたのち、愛良は言った。

「なんだか今日は、攻撃がとっても優しいのね。私に合わせてくれてるの?いつものような強引さがないわ」

 愛良は笑う。

「何だ、優しい俺じゃ物足りない?」ああそうか、君は俺に強引にされるほうが好きなんだな、と明龍は言う。

「馬鹿ね」

「2人で息を合わせたら、同じエゴの中に入って行けるかな?」

「あなた、戦うのが目的?それとも時空を超えるのが目的?同じエゴに入る必要なんかないでしょ」

 愛良は明龍の蹴りを止めた。

「なんで拒否するんだよ?」

「だって、修行の本質からずれてるわ」

 明龍は脚を戻した。

「君は真面目すぎるよ。ずれたっていいんじゃないかな。修行の途中で2人で寄り道するだけさ。同じエゴに入れば楽しいかもしれないし、何か面白いものが見つかるかもしれないよ」

 明龍の突きを愛良は止めた。

「君は、この間師匠と対戦した時、師匠と同じエゴの中にいただろう?俺はそれに気づいたよ」

「さすがね」

「師匠は良くて俺はだめ?」

 不満を言う明龍を、愛良は突きで後退させたが、明龍は愛良の拳を止めた。

「君と師匠は、ある次元では既に男女の関係にあるんだよ。そうだろ?」

「師匠はそれについて何か言ってた?」

「同じ場所にいたことは認めたよ。白昼夢のようだったと言っていた。あまり多くは語らなかったけど」

 明龍は、急に愛良の腕を引いて、後ろを取った。

 油断しただろ、と明龍は笑い、ゆっくりって言ってるじゃない、意地悪ね、と愛良は怒る。

「ねえ明龍、あれは男と女の関係じゃないのよ」後ろを取られたまま、愛良は言う。「確かに私はあの時、気づいたら師匠と同じエゴの中にいたわ。以前、あなたと時空を超えた時は、どちらを自分のエゴに引きずり込むかの力勝負だったけど、武道家としては私より師匠のほうが断然上だから、私には師匠を自分の場に誘い込むだけの技量はないだろうし、そういう考えにも至らなかったわ。そして、気づいたら師匠と同じ場所にいたの。こちらの次元では一瞬のことだけど、あの場所は無時間であり無限だったわ。場所という表現が正しいかどうか分からない。でもあなたには、意味は分かるわね?師匠はとても大きな存在として私を包み込んでいたわ」

 明龍が、後ろを取る手をゆるめたので、愛良は明龍と向かい合った。

「師匠は私がそれまで知覚していたよりも、もっと多くて広いものを見せ、私が知っているどんなに深い所よりも深い場所に私を連れて行ったわ。師匠が何も考えないようにと私に言った時、私は思考を捨てて師匠のされるままに従ってみたの。多分それが、あなたには男女の関係に見えたんでしょうね。私も、ある意味ではそういう情景を見たような感覚があるわ。師匠が私の中に入って来るような、私が師匠の中に入っていくような、私と師匠の体が重なって、混ざり合って1つになったような感覚があったわ。喜びのような、快楽のような感情があったかもしれない。師匠が私に思考を捨てるように言ったのは、師匠が私に何かを教えるか、与えるかするためよ。表層意識で何かを考えようとすることは、師匠のいる深層レベルで何かを与えようとするのを妨げることだから。今、私の意識はここにあってあなたと話していて、表層意識が優勢になっているから、あの時師匠から何を受け取ったのか思い出すことはできないけど、私があの場所で師匠から何かを与えられている時、それが何なのか理解して受け取っていたと思うわ。その、師匠が与え、私が受け取っている行為が、あなたには男女が愛し合う情景のように見えたのね。師匠から与えられたものは多分修行の精神や技、あとは個人的な愛情のようなものだと思う。この次元のそれではなく、もっと深い意味でのものよ」

 愛良が話していくうち、明龍は納得したような顔つきになっていった。

「確かに、私は師匠が大好きだし、師匠も私を好いてくれていると思うから、あなたにはそれが男女の関係のように見えたとしても否定しないわ」

「俺は師匠と戦っても、時空を超えたことは一度もないよ。俺は愛弟子のはずなんだけどな。何故だろう。君が女だからかな?」

 愛良は少し考えた。

「私だって、戦っている最中にそんなことが起こるなんて、あなたが始めてよ。祖父でも、そんなことはなかったわ。もちろん、祖父と私ではレベルが違いすぎたんでしょうけど」

「君が師匠のレベルに近づいたってこと?」

「いいえ、私のレベルは変わってないわ。私がエゴを捨てて師匠の言う通りにすれば、師匠が私に与えたい何かを託すことができると、師匠が気づいたんだと思う。きっと、いつもそれができるんじゃなくて、たまたまそういうタイミングが来たことを師匠が見極めたんじゃないかしら。それに、以前あなたと戦って、あの体験をしていたから、師匠と戦った時にうまく流れに乗れたような気がするわ。だから、図らずもあなたと師匠の連携プレーになったのね」

 そうか、と明龍はうなずいた。

「そんなことって本当にあるんだね」

 明龍は向かい合ったまま、愛良から少し離れて構え、目を閉じたが、また目を開けた。

「修行中に、常識では考えられない超自然現象が起こるのは、武道家の間でもよく言われることだけど、戦っている間にお互いにそんなことが起こるなんてね。やっぱり夢じゃなかったんだ」

「でも、そういう体験をした、ということに惑わされたくないわ。これは修行の過程で起こった一つの現象であって、そういう体験自体が修行の目的ではないもの。そうでしょ?」

 明龍は構えたままうなずき、愛良に来るよう手招きする。

 愛良は明龍を攻撃する。

 愛良が優勢の突きがしばらく繰り返されたが、明龍が急に反撃した。

「隙あり!」

 愛良の手首が明龍の両腕に挟まれ、ひるんだ隙に手首を取られて引き寄せられる。

「愛良、君をエゴに引き込むよりは、普通に君と恋愛したほうが早いんじゃないかな。君もそう思ってるんじゃない?」

 明龍は笑いながら、ふざけて愛良に唇を近づける。

「そうかもしれないけど、ねえ明龍、待って」

 愛良は待ってと言いながらもふふふ、と笑い、大して抵抗する様子はなかった。

 愛良はもう片方の手で、迫ってくる明龍の胸を押す。

「もしね、もしもの話よ。ちょっと待って」愛良は恥ずかしそうに笑いながら顔をそらす。

「私、こう考えたことがあるの。もし私とあなたが恋人同士になったとするじゃない?そうしたら、あなたとの初めてのキスは、とてもロマンチックな場所がいいなって思ったことがあるの」

 例えば時間は夕暮れとかね、と愛良は言う。

 明龍は静かに笑い始めた。そして周囲を見渡し、ここの庭は綺麗だけど、君の思ってるようなロマンチックな場所ではないな、今は朝だし、とつぶやいた。

「君って人は本当に、男あしらいがうまいよ」

 明龍は愛良を離した。

「そんなこと言われたら、うかつに君に手を出せなくなってしまうじゃないか。ずるいよ。ロマンチックな場所ってどこ?今から連れてってあげる。夕日が見える時間までデートしよう。キスしたあとはカフェにでも入る?もちろんホテルでもいいけどさ。もう本当に恋人同士になっちゃおうよ。何でそうやってじらすんだよ」

「もしもの話よ」

「分かった、覚えておくよ。ロマンチックな場所だね。絶対に連れていくからな。ホテルのスイートルームで夜景を眺めながらっていうのは?」

 明龍は笑いながら提案する。

「それは素敵ね、キスだけのためにスイートルームまでとってくれるの?さすがお金持ちだわ」

「恋人同士なんだろ?キスだけで終わるわけないよ。キスのあとのことも考えなきゃね。いいかい?俺たちは大人なんだから、キスのあとは愛し合うだろ?」

 俺にそう言わせたかったんだろ、と明龍は言う。

「私は、もしもっていう意味で言ったのよ。私たちは恋人同士じゃないわ」

「俺が君のことを好きなのは知ってるくせに。もしもでそんなことを俺に向かって言うなんて、ひどいよ。君は悪い女だな。男心をもてあそんで楽しんでるよ」

 明龍が技を仕掛けてくるので愛良はそれをかわす。

 だってあなたがそうやって迫ってくるんですもの、と愛良は嬉しそうに言いながら反撃したりしてふざける。

「やっぱり君はひどい女だ。思わせぶりな態度を取るだけ取っておいて、迫ったら逃げるんだから。しかも本気で逃げていないじゃないか。そんな風に男をからかうなんて、許さないぞ」

 愛良は笑いながら、逃げようとして走り出す。しかし、師匠がこっちにやって来るのに気づいて立ち止まった。明龍はすぐに愛良に追いつく。

 愛良が、師匠おはようございます、と言うと、師匠も微笑みながら、おはよう、と返す。

 もうすぐ他のみんなが稽古しに出て来るよ、と師匠が明龍に伝えると、明龍が遠慮して行こうとしたので、師匠はここにとどまるように手で合図した。

 師匠は、愛良と明龍に座るように言い、自分も座った。

「愛良、昨日はごめんね。その…私の部屋で」

「どうして?何も嫌なことはなかったわ。明龍にも昨日の話を聞いてもらっていたの」

 師匠は明龍に、ありがとう、と言う。

「私は武術家として、あなたが大好きで尊敬しているわ」愛良は言う。「私はもっと修行して、1人でこの流派を極めたいと思っているけど、助言が必要だと感じた時は、あなたに尋ねたいの」

「そうしてくれ」師匠は嬉しそうに言う。「うちに入門する気はないかい?」

「ありがとう。いずれお願いするかもしれないけど、まだ入門する気はないわ。私は、祖父から受け継いだものを自分の中で発展させたいと思っているの。だから独自に開発した修行方法で武術を極めるわ。ただ、明陽や明龍と戦うことで、いろんなやり方があるということを学んだのも事実よ。本当にちょっとしたことでも、あなたたちと戦うことで学ぶことがあったわ。だから、私は自分の道をこれからも研究していくけど、たまにはあなたたちに相手をしてもらいたいと思っているわ。あなたたちと交流することで、もっと成長できると思うの」

 愛良は明龍のほうを見た。

「ストレッチもね」愛良は言う。「私はインストラクターだからお客さんに教える立場だけど、あなたのちょっとしたやり方を見て、教わることがあったのよ」

「俺もさっそく君のやり方を取り入れてるよ」

 愛良は明龍に、それは良かったわ、と言ってからまた師匠を見る。

「あなたにお手合わせ頂いて、本当に光栄だったわ。素晴らしい体験だった。また少し、武道家としてのあなたを理解できたような気がするの」

「私だって本当は、まだまだなんだよ」師匠は言う。「でも君にそうやって目標のように思ってもらえるのは嬉しいよ。だから私ももっと向上しようと思っているんだ」

 明陽、崇高、忠誠が外に出て来た。こちらに向かって手を振るので、愛良と明龍は立ち上がった。

「こっちへおいで。君たちの稽古の様子を見せてくれるかい」師匠は座ったまま、出て来た3人に言う。

「みんなと好きなように始めてごらん」

 師匠の言葉に愛良と明龍は、はい、と答えて、やって来た3人と合流する。

「シークレット・フォーミュラ2」は「シークレット・フォーミュラ」の続きです。


「シークレット・フォーミュラ」

https://ncode.syosetu.com/n0091gc/


更新頻度:

なるべく1ヶ月に1度を目標に連載投稿していく予定です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ