part06 お披露目の晩餐会
「シークレット・フォーミュラ2」は「シークレット・フォーミュラ(https://ncode.syosetu.com/n0091gc/)」の続きです。
<登場人物>
・東京: 林愛良:武道家、スポーツインストラクター、蕭師匠を尊敬している。
・東京: 坂本崇高:空手家、スポーツインストラクター、愛良と幼なじみ。
・香港: 蕭師匠:古く続く武道流派の師匠。息子たちが小さい頃に、難病の妻に先立たれている。
・香港: 蕭明龍:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。
・香港: 蕭明陽:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。
・台湾: 張忠誠:武術ライター。
「シークレット・フォーミュラ」
https://ncode.syosetu.com/n0091gc/
「古くて立派な建物ね」
師匠にエスコートされて歩きながら目だけきょろきょろさせ、小さな声で崇高に言う愛良。そうだな、天井が高くてすごく雰囲気がいいね、と崇高は答える。
「さっき師匠の記帳、見た?」師匠が立ち止まって他の客と会話をするそばで、愛良がまた崇高に言うと、忠誠が「見た見た。立って、手を浮かせたまま筆でササっと上手に書いたよね。さすが書道家」と言う。
既に着席している出席者へ通りがかりに師匠が挨拶をしたり、今日は大勢でいらっしゃっていますね、と言われて明龍が返事をしたりしながら、やがて一行は目指す円卓に到着した。
師匠は愛良を椅子にかけさせる。
「ちゃんとエスコートできてるじゃん」明陽は座りながら兄に言う。
「ああ、やっぱりさすがだな。今までしたことないはずなのに、ちゃんと出来てるよ」明龍は答える。
会の主催者は師匠のそばにやってきて、お酒は適当に始めて下さいね、と言う。
「中国酒の種類は、分からないかな?君には、弱いのがいいね」師匠は、テーブルに用意された3種類の酒の瓶を見ながら愛良に言う。
「ええ、じゃあ、あまり強くないものを、ちょっとだけ注いで下さる?」
愛良がそう答えると、師匠は上機嫌で1本選び明龍に、これがいいね?と聞いてから、それを愛良に注ぎ、続いて崇高、忠誠にも注いでやり、息子たちと自分に注ぐ。
「じゃあ、乾杯」
愛良はまず少しだけ飲んでみる。
「おいしいわ。ありがとう」愛良が師匠に微笑むと、師匠は満足そうに笑う。
「親父、頬の筋肉緩み過ぎだぞ」明陽が言う。
「だって、嬉しいじゃないか。愛良が一緒にお酒を飲んでくれて、おいしいわ、だなんて」
満面の笑みの師匠を見て、デレデレだな、みっともない、と明陽は兄に言う。
「おい、崇高」明陽は崇高に呼びかける。「お前、見張っとけ。親父の手が愛良の太ももを撫でてないか」
「両手はここに出てるだろう」師匠は息子を叱る。
「あんまり飲むなよっていう意味だよ。普段飲まない人間が飲むとろくなことがないから」特に隣に美女がいる場合はな、と明陽は言う。
「スピーチするんだから、もうこれ以上は飲まないよ」
「スピーチ?」
「お披露目のスピーチだよ。間違えたら困るからね」
「おう、間違えて私の奥さんです、って言うなよ」
愛良はくすくす笑っている。
うるさいよお前、と明龍は弟を叱る。
やがて招待客が全員揃ったことを司会者が告げ、皆さんへの報告として蕭師匠から一言挨拶があると言いマイクを持って来た。
師匠は立ってマイクを受け取る。
「今日はお集まりの皆さんにご紹介したい人物が3名いて、その方たちをここにお迎えしました。まず私の右から、林愛良。彼女は日本人の武道家です。それから同じく日本人の空手家で、林愛良の旧友、坂本崇高。そして、台湾人で武術ライターの張忠誠、もちろん彼も武道家ですよ」
ここでちょっと面白い話がありまして、と師匠は続ける。
「私の息子、明陽のほうですが、彼がうちの流派の分派継承者がどうなったのか以前から非常に興味を持っていて、探偵を雇って調べたところ、彼女が分派の継承者であることを突き止めたのです。ちょうどその時期、崇高が空手振興会の招待で、香港の大会で演武を披露するため、愛良を伴ってこちらに来訪し、息子たちと出会ったのが、私たちの交流のきっかけです。その際は台湾から取材に来ていた張忠誠にも多大な協力を頂きました」いえいえそんな、と身振りで謙遜しつつ、俺も分派の継承者なんだけど師匠はもう忘れてるな、と思う忠誠。
「彼はその時の坂本崇高とのインタビューをネット上にアップしていますので、張忠誠で検索すると、皆さんも無料でその記事がご覧になれると思います。字は、忠誠を示すの忠誠ですよ」
宣伝ありがとうございます、と恐縮する忠誠。
「さて、うちからの話題であとは、今まで武館本部の館長は長男の蕭明龍が務めてまいりましたが、最近、二男の明陽のほうに交代しましたのでお知らせします。支部は今までと同じです」
明陽、立ちなさい、と師匠が言う。
ええ、何で、と反論しようとしたが、師匠がいいから立ちなさい、と言い、明龍も思わせぶりな笑顔で立て、と言うので明陽はしぶしぶ立った。
「二男の明陽です。一部の方からは、かねてからご提案頂きありがとうございます。現在となっては、我々の活動はあまり人から注目される分野ではなくなり、何か偉業を成しても以前ほどメディアに取り上げられたり他の業界から評価されたりということはありませんが、私の息子、蕭明陽は、今まで他の武道家が成し遂げていなかった、武術大会連続5回チャンピオンを半年前に達成いたしました。調べた所によると、今まで2回連続の優勝者が数人いたそうです。有志の方の有難いご提案で、親の私が皆様の前で自分の息子を称えるのも何ですが、彼の偉業を祝福したいと思います。息子よ、おめでとう。皆様に感謝致します」
出席者から温かい拍手が送られ、司会者が花とお祝い金を持って来た。
「どうもどうも」お金までくれるの?と照れくさそうに言って受け取る明陽。
「そのお祝い金はここにいる皆さん、そしてこのテーブルのみんなからだよ」
師匠はマイクを持ったまま言う。
明陽は、えっと言って愛良を見る。愛良は微笑んで拍手している。
「愛良、さっきお前に変なストールをやって済まなかった」
愛良は首を振り、おめでとう、と言う。
明陽は、ぐっと泣くのをこらえて、手を伸ばして師匠のマイクを取った。
「皆さんありがとうございます」明陽は言う。「でも俺は強くないんですよ」
拍手は止み、明陽のスピーチを聞こうと皆、静まり返った。
「俺は最初に2回、その大会に出場し優勝していますが、3回目に道場の宣伝も兼ねて、兄の明龍と出場しました。結果は兄が優勝、俺が準優勝でした。そのあと5回連続優勝したんです。兄が出場しなければ俺は8回連続チャンピオンになれたかもしれません。逆に考えると、兄は俺よりもっと多く優勝できる実力を持っていることになります。実力があっても大会に出場しない武道家もたくさんいるでしょう。俺は、出場した武道家の中で、たまたま連続優勝しただけなんです。誰が本当に強いのかは分かりません。今日ご出席頂いている皆さんの中にも、俺より強い人が何人かいるかもしれません。今紹介した林愛良、俺は以前、彼女に勝負を挑みました。彼女は俺の挑戦をしぶしぶ受けてくれました。門弟たちの見ている前で、俺は5分も持たずに後ろを取られ、彼女の温情で腕はへし折られずに済みました。彼女は兄にも勝っています。兄の場合は、接戦でしたけど。でも皆さん、彼女に挑戦しないで下さいね、彼女は強いが、人と対戦しない道を選んでいます。兄も、あえて目立たない道を選んでいます。俺も、今は大会では勝っていますが、やがて負けるでしょう。人気のない業界ですが、それでも実力ある若手で強い奴らが何人か出てきているのは喜ばしいことです。うちの道場にも有望な若手はいますよ。俺はそろそろ、大会からは引退しないとまずいかな?」
へえ、引退するのか?という目で弟を見る明龍。
「館長の仕事が忙しいからね」と明陽は兄に言った。
「皆さん、ありがとうございました」明陽が座ろうとすると、そのお金は何に使うの?とどこかから質問が飛ぶ。
「そうだな、好きな女にストールでも買ってやるか」
明陽がそう言うと、会場内が和やかな笑いに包まれた。
「なかなか落ちない女がいるんですよ」
明陽は愛良を見てから、司会者にマイクを返して座った。
「お前、このお金で何買ってほしい?」明陽が愛良に聞く。
「あなたのために使って。おめでとう」
さすが俺の女、と明陽が泣きながら隣の兄の肩に抱きつくと、明龍は、分かった分かった、と弟を慰めてやり、それを見た師匠は、何を泣いてるんだ人前で、いい大人がみっともない、と呆れている。
やがて演奏者がステージに現れ、演奏活動の状況説明が始まると、各テーブルに食事が次々と運ばれて来た。
愛良は師匠に笑いかけながらお酒を少し注ぐと、師匠はありがとう、と言って飲み干す。
二胡の演奏が始まり、出席者たちは食事をしながら美しい音色に聴き惚れる。
「そういえば、愛良」師匠は言う。「この間の別れの時、空港で、私たちに投げキッスしてくれただろう?あれ、本当は誰に向かってキスしたんだい?」
「おい、親父、何で急にそんな話をするんだよ、いいおっさんがみっともない質問はやめろよ」いつの間にやら泣きやんだというより最初から泣いていなかったような顔の明陽が、師匠を咎める。
いいじゃないか聞きたかったんだから、と師匠は息子の抗議などお構いなしで、まるで自分にしたと言わせたいように、また笑顔で愛良を見る。
「あれは俺にしたんだよ」明陽が言う。「俺がキスしてって言ったことに対して愛良が反応したんだからな。俺はちゃんと覚えてるぞ」
「そうね。でもあれは、あなたたち3人にしたのよ」愛良は笑う。
「3人にしたの?あのあと、誰にキスしたんだって揉めたんだよね」師匠は明龍に笑いながら話しかけるが、明龍は師匠に、そうですね、と言いながら愛良に、もうお酒飲ませちゃだめ、と身振りで知らせている。
「誰にキスしたかで喧嘩になりましたね。師匠、もうお酒は飲まないで下さいよ、あなただって普段は飲まないんだから、弱いでしょ?」
明龍は師匠の腕に触れて、冷静にさせようとする。
「まるで、私だけにしてくれたみたいな気がして、嬉しかったんだよ」明龍の助言など無視して師匠が満足そうに愛良に微笑みかけている隙に、明陽と忠誠はさっと酒の瓶を遠ざけた。
明龍は、それ持って帰っていいから隠せ、と2人に言っている。
「まずいな、普段あんなこと言わないくせに、愛良が隣にいるから気分よくなっちゃったのかな」明龍が独り言のように弟に言うと、明陽は「親父、愛良は3人にしたって言ってるんだからな。自分だけとか、気味の悪い妄想はやめろよ、このエロジジイ」と抗議する。
師匠はむっとして明陽を追い払うように手を振るが、愛良を見てまた180度表情を変える。
「君はもうお酒は飲まないかい?」師匠が楽しそうに愛良に勧めようとするので、愛良は申し訳なさそうに、もう飲まないわ、と答える。
「前に言ったかもしれませんが、愛良はそんなに強くないんですよ」崇高は、師匠に失礼にならないように言う。
明陽はわざわざ崇高の所までやって来て、親父が愛良に触らないかちゃんと見張ってろ、と師匠に聞こえるように耳打ちする。
「触るわけないだろう、本当にお前は馬鹿なことを言って」師匠は息子を叱る。
「師匠、ちょっと酔ってますか」明龍は横から尋ねる。
「お前まで。酔ってないよ」怒ったように明龍を見た師匠は、またすぐに愛良のほうを見て笑顔になる。
「本当はあの時、日本に帰ってほしくなかったんだけどね」
まだ言ってら、しつこいな、と聞こえるように明陽は言う。
笑顔の師匠は、愛良が崇高と行ってしまう姿を思い出して、急に泣き顔になり、反対隣の明龍の肩に顔をうずめながら「それなのに帰っちゃうんだもんな」と泣き声で言う。
「泣かないで下さいよ、師匠。まだ全然食べてないじゃないですか」
明龍は師匠をなぐさめながら、愛良、何か勧めて、と身振りで愛良に伝えると、忠誠は回転テーブルをさっと回してエビ料理が乗った大皿を愛良の前で止める。
「師匠、何がお好き?ご馳走がいっぱいあるんだから、もっと食べましょうよ。さあ、何を取ってあげようかしら」
愛しい愛良の声に反応して、師匠がまた笑顔で愛良のほうに向き直る。何だ、泣いてないのね、と思う愛良。
「ああ、じゃあそのエビ、私はそれが大好きなんだよ」
「はい、どうぞ」
愛良はエビの料理を大皿から取ってやる。
「私もさっき食べたんだけど、おいしかったわ。あなたもたくさん食べて」
「ありがとう」
皿を差し出そうとする愛良の手の上に師匠が自分の手を重ねたので、明陽は「触るなよ変態!」と怒っている。
「あなたも大きな声出さないで」愛良は明陽を叱る。
師匠は愛良に取ってもらった料理をおいしそうに食べる。
「私は本当に幸せだよ。息子たちは手がかからない、いい子たちだし。あ、勿論君たちも私の息子のように思っているよ」師匠は崇高と忠誠にも言う。「君たちは私の息子だからね、困ったことがあったら何でも言いなさい。何でもしてあげるから」崇高と忠誠は恐縮して、いえいえ、困ったことなどありません、と答える。
「そして、君は綺麗で優しい。今日は本当に嬉しいな。何が飲みたい?」師匠はまた愛良に笑顔で尋ねる。
「お茶がいいわ」
師匠は茶碗を取って、お茶を注いでやる。
「どうぞ、私の可愛い愛良」
言われて愛良は嬉しそうに微笑む。
私の可愛い愛良だってよ、と明陽が怒りながら言う。
「ありがとう。あなたもそろそろお酒はやめてお茶を飲みましょうね、師匠?」愛良は師匠にお茶を注いで勧める。
「そうだね」
「お料理を食べましょうよ。いっぱい来てるから」
あなたもね、と愛良は崇高を気遣う。
師匠から遠ざけた酒を注ぎ合って乾杯する明陽と忠誠。
「師匠、愛良にいろいろしてもらってすごく嬉しそうだな。ずっとにこにこしてるよ」忠誠は言う。
「親父は、お袋しか女を知らないような奥手だから、何かしでかさないか心配で仕方ないよ。愛良にお酒をついでもらって気が大きくなってやがる。愛良も今日はやたらと色っぽいしな。親父にとっては目の毒だ」
そういう自分だって、目をぎらつかせて愛良を見てるくせに、と思う忠誠。
兄貴飲まないの?と明陽は勧めるが明龍は、いらないけどお前たち飲みすぎるなよ、もうしまっとけ、と持ち帰り用の手提げを弟に渡す。
「親父、崇高や忠誠を息子たちみたいに思ってるってことは、愛良も娘のように思ってるってことだよな?」
愛良にスープを取ってやろうとする師匠の手が一瞬止まる。
「娘?」師匠はとりあえず愛良の前にスープを置く。
「違うのか?」
「娘でもあるけど、そんなふうに限定しなくてもいいだろう」そして愛良を見て、「私は君を、家族のように思っているからね」と言う。
「そう言えば、女中さんたちもお弟子さんたちも言ってたわ。師匠はいつも家族のように接してくれるって」
師匠は、そうだよ、と笑い、さあ、ここのフカヒレスープはおいしいんだよ、と言いながら、自分の分を飲んでみせる。
「だから、当然私の家も、君の家みたいに使ってくれていいんだからね。いつ来てもいいし、いつまでいてもいいんだよ。何かしてほしいことがあったら、うちの使用人にやってもらってもいいし」
もちろん、君たちもね、と崇高と忠誠に付け足す師匠。
良かったな愛良、うちの財産も全部お前のもんにしていいらしいぞ、と明陽が言う。
「あなた食べてる?」愛良は明陽を無視して崇高に聞く。
「ああ、いっぱい食べてるよ。どれもおいしいね。お酒飲んでたら味が分からなくなるから、あとで帰ったら、あの2人にちょっと飲ませてもらうよ。今は食べるほうに専念してる」
崇高は師匠にも、すごくおいしいですよ、日本でこんなにおいしい中華は食べたことがないです、と言う。
良かった、と愛良は笑い、明龍に「あなたはいいの?」と聞く。「お肉食べてないんじゃない?」
「兄貴はあんまり塊を食べないんだよな」明陽は言う。
「そうなんだ。そこの生ハムとかなら食べるよ。塊はいつも明陽にやるんだ」
「お酒は飲まない?」
「乾杯以外はいつも飲まないよ。師匠の仕事に付き添う時は、俺は大抵運転するから絶対に飲まないし」
「うちでよく飲むのは明陽だけだね」師匠が言う。
「俺も最近はあまり飲みすぎないように注意してるよ」明陽が言う。「腹が出てきたらみっともないからな」
「それがいいわ」
ね?と微笑みながら師匠を見る愛良。
師匠も愛良を見つめる。
愛良、愛良、と小声で崇高が呼ぶので、何よ?と愛良は崇高を見る。
「お前さっきからずっと靴脱いだまま足をブラブラしてるだろ。みっともないからやめろよ」
「あら、見てたの?大丈夫よ。靴が無くなったりしないから」
「馬鹿。後ろを通る人から丸見えなんだからな。恥ずかしいだろ。マナーがなってないぞ。それに、帰る時に足がむくんで靴が入らなくなったらどうするんだ」
「1、2時間で足のサイズが変わるわけないでしょ」後ろを通る人なんて殆どいないし、いても足もとなんか見てないわよ、と愛良は反論する。
おいおい、仲が良すぎてまた喧嘩か?と明陽が愛良と崇高に言う。
「どうしたんだい?」
師匠が愛良に聞く。
「何でもないの」愛良は自分の足もとを確認しながら、足で靴を揃える。
「師匠がとても素敵な靴を買って下さったから、傷がつかないように今から気をつけてるの」いつもウォーキングシューズばかりで、踵の高い靴はあまり履いたことがないから、と愛良は言う。
「素敵な靴とドレスをありがとう。今日、こうして皆と食事したことも、とてもいい思い出になると思うわ」
そう言って師匠に微笑む愛良。そしてまた無意識にまぶたの辺りに手をやって、「あ!」と言うと崇高も「あ!」と言いながら立って愛良のそばに寄る。
「お前今、目、こすろうとした?」崇高は、目の辺りに手を当てたままの愛良に聞く。愛良が小さくうなずくと、「おい、動くなよ」と愛良の手に自分の手を添える。何で毎回自分の顔にさわったりするんだよ、と呆れる崇高に、だってまぶたの上に何か乗っているような違和感があったんだもの、と言い訳する愛良。
「マスカラは乾いてるから大丈夫だと思う」愛良は言う。
すいません、彼女、普段化粧しないもんだから、簡単に顔にさわっちゃうんですよ、と崇高は師匠に言う。
崇高が注意深く愛良の手をどけてやると、アイシャドウなどは崩れていなかった。
「お前、良かったな。大丈夫だよ。少し薄くなってるだけだ」
愛良のどかした手には薄いラメしか付いていなかった。
「すごい。結構強くこすろうとしたのに、全然取れてないわ」さすが高級化粧品ね、と皆に向かって笑ってごまかす愛良。
気をつけろよ、と釘を刺す崇高。
「愛良、慣れないことをさせてしまって…」と師匠が言いかけるが、愛良は首を振る。
「慣れてないけど、私も楽しんでるのよ。それにこんなに素敵な高級ドレスにノーメイクはおかしいじゃない?」
ステージでは司会者から、二胡の演奏がこれで最後の曲であることと、今夜は特別に抽選で選ばれた客からのリクエストを演奏することが告げられる。拍手が止み、演奏が始まる。
「師匠のリクエストした曲?」愛良が聞くと師匠は、いや違うよ、私もリクエストしたんだけど外れてしまったね、と微笑む。
最後のお茶とデザートですっかり満腹になってしまった招待客たちを、心地よい二胡の音色が包む。
「愛良」師匠が遠慮するような声で、愛良に声をかけた。「愛良、あの…」
他の男たちは、師匠が何を言い出すのかと一瞬緊張してその様子にう注目した。
「愛良、幸せかい?」
師匠は急に真剣な顔をして愛良に聞いた。愛良は少し驚いたが、すぐに落ち着いて師匠に優しい微笑みを返す。
「ええ。幸せよ。こんなに綺麗なドレスを着て、あなたの隣に座って、上等の中華料理を味わえるんですもの」
ありがとう、師匠、と愛良は言う。
明陽がトイレに立って用を足していると、師匠が入ってきて洗面台で歯磨きを始めた。
「歯磨き?!」
明陽がトイレ前に立ちながら大声を出す。
「おい親父、愛良とキスでもするつもりか?」
「馬鹿を言いなさい、食べた後で口臭がしたらいけないと思って磨いてるんだよ。エチケットだろう?」
明陽はトイレを終えて師匠の隣にやって来る。
「そんなに口臭が心配なら、帰りの車は俺がさっきの親父の席に座るから」
明陽は手を洗いながら言う。
「何でお前が決めるんだ。お前は愛良にちょっかいを出すから、隣にはさせんぞ」
師匠は歯磨きを終えてうがいをすると、出て行った。
明陽は手に、はあっと息を吹きかけて、臭いをかいで確かめると、一応口を水でゆすいでから席に戻る。
会もお開きになり、客同士で挨拶をしている所に明陽が戻ってきた。
「皆さんにお礼を言いなさい」
師匠に言われ、明陽は帰る客たちに、このたびはどうも、と頭を下げて挨拶する。
明龍は忘れ物がないか席を点検し、酒瓶が1本ずつ入った手提げ袋を忠誠、崇高、明陽に持たせる。
「ちゃんとお客さんに挨拶できて、偉いじゃない?」愛良は明陽に言う。
「何でお前がそんな偉そうな言い方するんだよ。お前は蕭師匠の奥さんか?」
やめなさい、と師匠が言い、立ち上がろうとする愛良に腕を貸す。
愛良が師匠の腕を借りて歩き出そうとした時、まだちゃんと履いていなかった片方のパンプスが脱げてそのまま前方に飛んでいってしまった。あまりのことに固まったまま絶句する愛良。
「馬鹿」崇高が言う。
「お前は何やってんだよ、え?」脱げたパンプスを取りに行く師匠を見ながら、明陽が面白そうに、愛良に言う。
「ごめんなさい」愛良は消え入りそうな声で師匠に謝りながら、赤くなった頬を両手で覆う。
「足にもマニキュアしてたんだ?」明龍が愛良のストッキング越しの足先を見て言う。
忠誠は、色っぽいな、と明龍に言い、笑う。
「あなたに靴を拾わせるなんて、本当に失礼なことをさせてごめんなさい」
師匠は、いいんだよ、と言いながら足首に手を添えてパンプスを履かせてやる。
「最後まで気をつけて歩くわ。ごめんなさいね」
師匠は首を振り、微笑んで愛良に腕を貸す。
「お前、本当は俺たちに、足にもマニキュアを塗ったのを見せたかったんだろ。計算高い女だな」
何よ!と愛良がむきになるので師匠は、愛良、気をつけてお歩き、と声をかける。
「お前、ドレスを選んでる時は手のマニキュアでさえ興味ないみたいな言い方してたくせに、結局足にもやったのかよ」
「だって美容部員さんがマニキュアしてくれたあと、足もいかがですか?爪だけでもお切りしますって言って、いきなり足元にひざまずいたから、私も何だか気分が良くなって、そうね、じゃあお願いってつい言っちゃったのよ」
「何が、そうね、じゃあお願いだよ」
愛良に食ってかかる弟を手で遮る明龍。
「愛良、いいんだよ。こっちはせっかく来てくれた君に楽しんでもらいたいんだし、サロンにはもともとフルコースで頼んでいて、スタッフには何でもしてあげてと伝えていたからね」
愛良が色気づくならいいことじゃん、なあ?と忠誠は崇高に言うが、崇高のほうは少し不満げな顔をしていた。元彼氏としては、あまり愛良が他の男の前で色っぽくなるのは歓迎しないらしい。
お前まだ酔ってるだろ、と明龍は弟を叱っている。
「兄貴も親父もよく考えろよ、愛良は勉強のために来たんだろ?堕落させてどうするよ。エステで気分良くさせて日本に帰すのが目的なのか?」
「せっかく来てくれたんだから、歓待してるんだよ。サロンだって今日1日だけだ。今日は特別な集まりなんだから。忠誠も崇高も招いているのに、愛良にだけ特別贅沢させようっていうわけじゃないよ」
明龍が運転手と連絡を取り、皆がエントランス近くの車寄せで待っていると車がやってきた。
明龍は後部座席のドアを開けてやり、師匠が乗り込んで奥へ移動し、愛良も乗った所で、明陽が続けて乗り込んできた。
「こら、何してんだよ!」兄が怒鳴るのも聞かず、明陽は強引に愛良の隣に座ってくる。
「行きは親父に譲っただろ、何で親父がまた愛良の隣なんだよ!」
師匠は愛良の肩を抱くようにして愛良を守る。
「ちょっと、何言ってんのよ」愛良が明陽を押し出そうとする。
「お前ももうちょっと詰めろよ、何なら俺の膝の上に来るか?遠慮するな」
明陽が愛良を抱き寄せようとして、親子の間で愛良の取り合いになる。
「やめて。明龍、助けて」明龍は弟を引っ張り出す。
愛良は体が当たっている師匠を振り向いて、ごめんなさい、と謝る。
「親父、愛良に尻押しつけられて何、にやついてんだよ」
「羨ましいか」
師匠も何てこと言うのよ!と叱るように言って愛良は車を降りる。
愛良は明陽と向き合って立つ。
「後ろの座席がいいならどうぞ。私は崇高の隣に座るから」
明陽は黙ってしまったので、明龍は弟の頭を軽く叩いた。
「愛良、騒がせて悪かった」明龍が言う。
「座席は行きと同じ位置だ。嫌だっていうなら、俺とお前が入れ替わる。どうする?」
「行きと同じでいいよ」
明龍は溜息をつき、崇高と忠誠に、ごめんな、と謝る。そして愛良には後部座席を手で示して、どうぞ、というしぐさをする。
「ありがとう。あなたいつもこんな交通整理してるの?大変ね」
「いつもはしてないよ。今回は、ある素敵な女性を巡って、あの親子の間に争いがあるみたいだね」
明龍は済まなそうに笑い、さあどうぞ、と愛良の手を取って後部座席に乗り込ませる。
「師匠、さっきは大きな声を出してごめんなさい」
「いや、私のほうこそ」
師匠は愛良に謝罪するように肩を撫でたが、彼女になれなれしく触ってしまったことに気づいて手を引っ込める。
全員が車に乗り込み、発車した。
愛良は隣の師匠を見ると、師匠はうなだれたように向こうを見ていた。「愛良、済まないな。変な親子だろう?」
「そんなこと言わないで。明陽は、あなたの立派な子よ。みんな彼の偉業を称えてたでしょ。誰もが認める素晴らしい武道家だわ」
師匠は愛良のほうを見た。
「ああ、そうだね」
「師匠、このドレス、ありがとう。とっても着心地がいいし、素材も素敵だから何だか高級なマダムになれたみたい」愛良は嬉しそうに言う。
「うん、ちょっと今、肩に触ってしまったけど、確かにいい生地だね。上等のシルクだ」
「それに、お食事もおいしかったし、楽しかったわ。サロンでは爪を整えてマニキュアも綺麗に仕上げてもらったし、髪もつやつやにしてもらっている間に手足のマッサージをしてくれたり、こんな経験初めてだから、本当に夢見心地だったの」
「サロンのことは私は全然分からないんだけど、君が満足なら私も嬉しいよ、愛良」師匠は安心したように言う。
明陽が、また愛良のほうを振り向いたが、無言だった。
「ねえ明陽、今日はとても楽しかったでしょ、最後まで楽しみましょうよ」
不貞腐れているような表情の明陽を見て、愛良は笑う。
「今日はおめでとう。良かったわね、みんなにお祝いしてもらって。お金、大事に使って」
みんないい人たちなんだから、武道馬鹿とかジジババとか言っちゃだめよ、と諭す愛良を見て、師匠は彼女と家族のような関係になりたいと強く思った。
「ありがとう」明陽は素直に言う。「あの、そのストール、返してくれよ、捨てとくから」
「え?くれたんじゃないの?」愛良は座席の隅に置いたままのストールを手に取った。「私が持っててもいいでしょ。こんなに綺麗なのに捨てたらもったいないわ。これ、ブランド物じゃないの?」
そう言って笑いかけると、明陽は泣きそうな表情をした。崇高がそれに気づいて、明陽の頭を抱きかかえて引っ込ませた。
「ああ、彼は少し酔ってるんだ。さっき飲みすぎてたみたいだから。愛良、そのエステサロンで、具体的にどんなことしてもらったんだ?」
「俺も興味あるなあ」忠誠も振り返って聞きたそうな顔をしている。
「私は最初、ドレスを着せてくれて化粧するだけだと思ったのね、そうしたら個室に案内されたの」
あのサロンって、有名人とか政治家の奥さんが利用するような所よね?と愛良が助手席の明龍に聞くと、明龍は、多分そうだよ、と返事をする。
「サロンはビルの10階くらいなんだけど、個室は外に面した壁がガラス張りで明るかったわ。そこで着替えるのかと思ったら、まず美容院みたいに髪を洗われたの。一瞬、私、間違えて美容院に連れて来られたの?って思ったけど、とにかくとってもいい香りのシャンプーをされて、それから髪がつやつやになるっていうコンディショナーをつけてもらって、洗い流して頭皮マッサージもしてくれて、そのあと髪にいろいろつけられたんだけど、3人がかりでブローしてもらったらすぐ乾いたわ。それから服を脱いで下さいって言われて脱いでるそばから1人の人が、とても丁寧に畳んで袋に入れてくれたの。それで、私はドレスなんか自分で着られると思ったんだけど、ちゃんと専門の人が着せてくれたのよ。体のラインにちゃんと合うように、おかしい所があったらすぐ縫製し直すからですって。それで、着てみたらぴったりだったからそれは合格で、それから服の感じに合ったお化粧をしますって言われて、鏡の前に座らされたのね。私は特に要望はないけど、あまり派手でないお化粧をお願いしますって言ったの。まず顔は化粧水やらオイルやらで軽くマッサージしてくれて、眉毛もそれらしくカットしてくれて、何かお肌の引き締め効果があるとかいう低温スチームみたいなものを当てられて、そのあといろんな説明をしながら化粧をしてくれたわ。お化粧の悩みはありませんか?とかね。ばっちりお化粧した美容部員さんの前では恥ずかしくて、普段化粧していませんなんて言えなかったから、特にないですって答えたわ。お化粧している間、両側から女性が、私の腕や手に何か塗りながらマッサージしてくれてたの、血色がよくなりますとか、肌のキメが何とかと言ってたわ。それでマニキュアはどのデザインがいいですかって、ずらっと爪の見本を持って来られたんだけど、あまりに多すぎて、じっくり選ぶというよりは目についたものをこれ、と言ったら、すぐに爪にやすりをかけてくれて、爪用のオイルみたいなものを塗ったりしてから両手の指を両側から2人がかりで塗ってくれたわ。そうしている間も数人の人たちが同時にお化粧してくれたり、髪を整えてくれたり、首元をマッサージしてくれたりしたの。もう気持ち良くって、私はいつの間に女王様になったのかしら、って思っちゃうくらい。そうやって気持ちよくなった所でいつの間にか脚まで両側の女性にマッサージされてて、足の爪はどうされますか?って聞かれたらそりゃあ、じゃあお願いねって言っちゃうわよ」
「さすがあそこは商売がうまいな」明龍は笑っている。
「帰りに高級化粧品と試供品をいっぱい持たされたわ。使いきれるかしら」
しばらくして、明陽はまた後ろを振り返って、さっきのお祝いで貰った花束を愛良に見せた。
「愛良、この花、いるか?ほしいならやるけど」
「そのお花すごく綺麗ね。リビングに飾りましょう」愛良が手を伸ばしたので、明陽は花束を愛良に渡した。
愛良は師匠に気を遣いながら「リビングに飾ってもいいでしょ?」と聞くと、師匠は「ああいいよ」と答える。
「そう言えば、さっき私は酔っぱらって君に変なことを言ったかな?」師匠は愛良に尋ねる。
「いいえ、言ってないわ」
愛良は微笑む。
「楽しかったわ、師匠。本当にありがとう」
「シークレット・フォーミュラ2」は「シークレット・フォーミュラ」の続きです。
「シークレット・フォーミュラ」
https://ncode.syosetu.com/n0091gc/
更新頻度:
なるべく1ヶ月に1度を目標に連載投稿していく予定です。