part03 愛良と師匠対決
「シークレット・フォーミュラ2」は「シークレット・フォーミュラ(https://ncode.syosetu.com/n0091gc/)」の続きです。
<登場人物>
・東京: 林愛良:武道家、スポーツインストラクター、蕭師匠を尊敬している。
・東京: 坂本崇高:空手家、スポーツインストラクター、愛良と幼なじみ。
・香港: 蕭師匠:古く続く武道流派の師匠。息子たちが小さい頃に、難病の妻に先立たれている。
・香港: 蕭明龍:表向きには師匠の長男ということになっている。実際は師匠の甥(師匠の弟の長男)。
・香港: 蕭明陽:実際は師匠の長男だが、師匠の次男で明龍の弟ということになっている。
・台湾: 張忠誠:武術ライター。
「シークレット・フォーミュラ」
https://ncode.syosetu.com/n0091gc/
師匠は明龍と愛良に、どきなさい、というように目で合図すると、明龍はその目が本気であることを悟り、一礼してどいた。
明龍は愛良の肩に手を置く。
「あの2人は一度やらせたほうがいい。それに、師匠は加減をちゃんと分かっているから大丈夫だよ」
明陽は父親に向かっていく。
「愛良」忠誠は声をかける。「明陽は君のことしか見えていないんだね。あそこまで君に夢中だと、俺は何故か腹は立たないな」
明陽は躊躇なく父親を攻撃する。師匠は息子の攻撃の仕方を見ている様子で、最初は手を出さなかった。
心配そうに見つめる愛良に、崇高は「大丈夫、2人は親子だから、きっと色々あるんだよ。ぶつかりたい時にぶつからせてやればいいよ」と言う。
やがて師匠は反撃を始めるが、明陽のほうが動きが早いので師匠は苦戦しているようだった。
厳しい表情で息子を見る師匠。
明陽の突きがまともに入って、師匠は後退しながらよろめく。
「ねえ、何だか…」もう冗談じゃなくなってきてるみたい、と愛良が言おうとした時、明龍が止めた。「手を出すな。あの2人はあれでいいんだ」
明陽の攻撃が連続で入り、劣勢かと思われた師匠が突然、反撃の蹴りを放った。
明陽の攻撃が一瞬止まりバランスを崩した隙に、師匠はもう一度明陽に蹴りを入れた。
明陽の体が吹っ飛び、倒れこみそうになるのを抱きとめるのに一番いい位置にいた愛良が、とっさに彼をかばって抱きとめようとしたが、勢いがつきすぎて2人で地面を転がる。
止まった時、愛良は明陽の下になっていた。
「あなた、ずいぶん無茶するわね。偉大な師匠に歯向かうなんて」愛良は明陽を見上げて笑う。
「何だよお前。俺の体を抱いて守ってくれるなんて、そんなに俺が好きだったんだな。結婚するか?」
明陽は愛良を起こすと同時に自分も起き上がるが、明陽の背後から攻撃しようとした師匠に気づいた愛良は明陽をどかして師匠の拳を自分の腕で遮った。
「師匠!出しゃばってごめんなさい」
今度は明陽が、愛良の体越しに師匠を攻撃しようとしたので、愛良は明陽の胸に肘鉄を食らわせ、次に明陽を攻撃しようとする師匠の突きや蹴りを遮る。
「もういいでしょ、師匠。明陽はあなたの息子なのよ?これ以上攻撃しないで。私から言い聞かせるわ」
それはまるで明陽の母親のような、師匠の妻であるかのような発言だった。師匠は愛良を見つめながら一歩退く。
「ね、もう許してあげて」
師匠と対峙しながら、背後で一歩出ようとする明陽の体を遮る愛良。
まだ2人の体勢が近いと判断し、愛良は師匠に軽く攻撃する素振りをして2人の距離を離す。
「愛良、今のはいいね」さっきまで厳しい顔をしていた師匠は、一転して優しい笑顔になった。
「私と勝負してくれるかい?」師匠は、愛良が向かってきてくれたことを喜ばしく思っているような表情で言う。
「冗談でしょう?あなたに攻撃なんて、できないわ」
「愛良、遠慮しないで。かかって来なさい」師匠は軽く手招きする。
「だめよ、本気であなたを蹴ったりできないもの」
優しいあなたを本気で蹴ったりできないわ、とか兄貴にも言ってて、結局コテンパンにしてたくせになあ、と明陽は笑いながら兄に言う。
「どいてろよ。面白くなってきたな。お前も師匠と愛良の対決、見たいだろ」
明龍は弟の肩を引っ張って脇に連れて来る。
「見たいけど、何だよ親父も。俺のことなんか忘れて、もう愛良に夢中だよ。にやけちゃって見てられねえ」なあ?と明陽は崇高と忠誠に同意を求める。
「練習だと思って、かかっておいで」
師匠は手招きしたが、愛良が首を振るので、師匠は軽く突きを入れる。
愛良は師匠の攻撃に対し、反撃する。
「そうだよ、さっきみたいに私に向かってきなさい。練習だと思ってくれていいから」
愛良は軽く師匠に蹴りを入れたあと、脚を戻して止まり、皆の方を見た。
「もう、あなたたちは本当に、しょうがないわね」
愛良は困ったふりをしながら微笑む。
「嬉しそうだな」明陽が声をかける。
「蕭氏兄弟だけかと思ったら、師匠まで、なんて強引なの。私が師匠相手に本気を出せるわけないでしょ」
それから愛良は師匠に向き直る。「それでもいいなら、お相手しますけど」
「ああ、いいよ」
師匠の突きを愛良が止めた。
師匠は微笑む。「ゆっくり行こう」「分かったわ」
師匠と愛良はゆっくりとした演武のように、腕や脚を交わし合う。
「だんだん早くしていくよ」師匠は言う。
「どうぞ」
「息が合ってるな」明龍は弟に言う。「あの2人の動き、まるで愛し合ってるみたいだ」
「兄貴は愛良を無理やり押し倒すことばっかり考えてたろ。親父と愛良はちゃんと動きが合ってるぞ」
「嬉しいよ愛良」師匠が言う。「君と勝負がしたかったんだ。勝ち負けではなくて、君の武術を知りたいと思っていた」
「ちょっと恥かしいけど、光栄だわ」
愛良は師匠の攻撃を受けるたび、熟練した武道家の技を感じ、それらがまるで祖父の技のようだと思い始めていた。
「兄貴、見ろよ」明陽が兄に言う。「愛良の目つきが兄貴の時と全然違う。兄貴の時はずっと睨んでたけど、親父のことは優しく見つめてるぜ」
「そりゃ、師匠が愛良を優しく見てるんだから、睨んだりしないだろ」
「ああそうか、兄貴はいつも愛良をなめまわすように見てるからな」
やがて師匠の技が決まり、突かれた愛良が後退した。
「今、大丈夫だった?」師匠が聞く。
「ええ。お見事よ、師匠」
「君の動きも柔らかくて美しい。動きの一つ一つに細かな表情がある。君は完璧だね。でも、もう少し待てば、息子たちの時のように、激しく力強い攻撃をしてくれるのかな」
「そういうのがお好み?」
「ああ、是非お願いしたいよ」
愛良は笑った。「いいわ。私の拳を受けて下さる?」
「さあ、おいで」
愛良はさっきとはうって変わって、スピート感のある攻撃を始めた。師匠もそのスピードに合わせる。
「お互いが自然に相手に合わせてるな」明龍が弟に言う。
「俺の時と兄貴の時では、愛良の戦い方が全然違ったけど、親父にはまた違う動作をしているな。スタイルがいくつもあるのか」
まるで、既に何度も拳を交わしたことのある武術家同士のように、2人は息を合わせて攻撃と防御、反撃を繰り返した。
愛良の動きがだんだんゆるやかになり、そのうち止まった。
「どうした、愛良?もう終わりにしたくなったのかい」師匠は優しく言った。「疲れたかな?」
「いいえ」
愛良はそう言ってから、何かを感じ取るように目を閉じ、また目を開けた。
「君の師匠は君のお爺さんだったね」師匠が愛良に聞く。
「ええ」
「君は素晴らしい師匠を持ったね」
「分かるの?」愛良は嬉しそうに聞き返す。
「ああ、五感を超えた感覚として、そう感じた」
「今、あなたの技を受けて、私は祖父のことを思い出していたの。祖父もあなたのような、とても自然な動きをしていたのよ。周りの全てと調和しながら型を表現していたわ。周りに溶け込んで決して主張はしないのに、全てのものから際立っていたの。祖父の技はまさに一つの宇宙だった。天体が常に正確に軌道を回るように、祖父の動きも正確だったの。あなたにもそれと同じものを感じたわ」
「光栄だね、君にそんなことを言ってもらえるなんて。実は私も、君と対戦しながら、会ったこともない君のお爺さんと対戦しているような気分になったんだよ」
「やっぱりそうなの?」愛良の目が輝いた。
「私も、まるで祖父が私の体を借りてあなたと対戦しているような気持ちになったわ。祖父は決して他人に型を見せることはなかったし、誰とも対戦しなかったけど、あなたとなら対戦したかったんじゃないかと思ったの。きっと通じるものがあったんだわ」
「すごく嬉しいよ愛良。君はお爺さんを、私の所まで連れてきてくれたんだ」
「今生きている人間の中で、祖父の型を見た人間は私しかいないけど、祖父の型の片鱗でもあなたに見てもらえたのなら嬉しいわ。私は祖父には及ばないけど、あなたにその精神を少しでも伝えることはできたかしら」
「できたよ」
お互いに微笑みながら抱き合う2人。
「ありがとう、愛良」
「師匠、祖父へのいい供養になったわ。ありがとう」
師匠は自然に愛良の髪を撫でながら額の髪をどかしてそこへキスし、それから頬にキスした。
それを見た崇高は、はっとする。
愛良の祖父母も彼女が子供の頃、甘えてくる彼女を愛おしそうに抱きしめたあと、額と頬にキスしていたからだ。そしてキスされたあとで師匠を見上げる今の愛良も、子供の頃のあの時の表情と同じだった。
「親父、こら!」
愛良にキスしたことを咎めようと明陽が立ち上がった時、それを止めたのは崇高だった。
「何だよ」明陽の抗議に崇高は反応せず、愛良を見た。
「愛良、今…」
愛良は、どうしたの?という目で崇高を見る。
「いや、ちょっと思ったんだけど」崇高は言葉を選ぶようにして言った。「師匠はお前のお爺さんに似てないか?」
「お爺ちゃんに?どうして?確かに師匠の型を見て、何となくお爺ちゃんを思い出したけど、師匠とお爺ちゃんは、全然似てないじゃない」
おかしなこと言うのね、と愛良は微笑み、それからまた師匠を見た。師匠も愛良を見て微笑んでいる。
愛良ははっとした。そして崇高の肩に抱きつく。「似てるわ…」
「そうだろ?気付かなかったのか?」
崇高は優しく愛良の背中を抱く。それから師匠を見た。
「愛良は気づいていなかったようだけど、俺はあなたが、見た目ではない何かが彼女のお爺さんに似ていると思っていました。以前、空港であなたと愛良が抱き合っていた時の、愛良の安心したような表情を見た時、彼女の子供の頃の表情にそっくりだと思ったんです。彼女が小さい頃、祖父母に甘えて抱きついていた時の表情がまさにそんな風だったんです」
あら、そうだったの?と愛良は恥ずかしそうに崇高に聞く。
「そうだよ。お前がお爺さんやお婆さんに抱きついている時って、本当に、何とも言えない安心したような表情をしてたからな。その時の表情そのままだったんだよ」
つまり愛良は親父を自分の祖父母みたいに思ってるってことだよな、とわざと大きい声で言う明陽。
「光栄だよ、愛良」師匠は微笑む。「私のことは、家族のように親しく思ってほしい」
じゃあみんな、朝食にしようか?と師匠は言い、皆は屋敷の中へ入っていく。
朝食が始まると、師匠は崇高に、また今日も門弟に空手を教えてほしいんだけど、と頼んだ。
「とても好評でね。もっと学びたいんだって」
そう言ってもらえて嬉しいな、と崇高は誇らしげに愛良を見る。
「勿論、滞在中はみんなにお教えしますよ。俺もみんなから教えてもらおう」
「香港の人に空手を教えるなんて、お父さんの遺志が継げるわね」
愛良が言うと崇高は、そうだね、と答える。
「そう言えばお父さんは子供の頃の君を連れて、香港で道場を開いていたことがあったと言っていたね」
師匠は崇高に聞く。
「はい、でもうちの父は経営がうまくできなくて、結局5年も続かずに道場を畳んで帰国したんです」
「外国から来て、いきなり道場経営は大変だったろう」
「在香港の日本人の皆さんに随分助けて頂いたんですが、見通しが甘かったんです。最初は空手ブームもあって良かったんですが、ブームが去った後に長期的に経営するのは、父には無理でした」
お父さんはきっと挑戦したかったんだろうね、と師匠は理解を示す。
「父にとってどういう経験になったか分かりませんが、俺は子供の頃に5年も外国に住むことができて、良かったと思っています」
師匠はうなずいた。
崇高をうちの専属講師にしたらいいじゃん、と明陽は兄に言う。
「いやいや、師匠のもとで本格的に武術を学んでるお弟子さんたちに、俺なんかが講師として教えるのは恐れ多いよ。俺は空手流派の代表でも何でもないし」崇高は言う。「でも、もしみんながちょっと学んでみたいなら、ボランティア空手家として、香港に来た時は交流させてもらえると嬉しいな」
「定期的に来てくれるかい?」師匠は崇高に聞く。
「勿論ですよ、朝からこんなにおいしい野菜ジュースが飲めるんですから」と崇高が冗談っぽく言うと、愛良も忠誠も「本当においしいよね」と口々に言う。
「お前、親父と結婚したらこういうのが毎日飲めるぞ。どうする?」明陽は愛良に言って、無視されている。
「これを作っている女中にあとでレシピを聞くといい」師匠は言う。グレープフルーツジュースをベースに、人参、バナナ、セロリ、あとは何だったかな、と明龍に聞く。「俺も前に女中に聞いたことがあったんですが、普通の野菜と果物を組み合わせてるだけだったと思いますよ」明龍は答える。
「親父はもし、愛良と結婚したらどういう生活がしたいわけ?何か思い描いてる情景とかあるの?」
明陽は唐突に父親に聞く。
お前、何を聞いてくるんだよ、と師匠は面白そうに笑いながら言う。
「想像だぞ?想像の世界で、親父は愛良とどんな生活がしたいんだって聞いてるんだよ」
「そんなこと、愛良のいる前で、想像の結婚生活の話をしてどうするんだ」
お前たちも聞きたいよな?と明陽は周りに聞いてから「どんなふうにしたいの?」ともう一度聞く。
「そうだなあ、でもこれは、想像の話だよ?」師匠は微笑みながら愛良に念を押す。
「うーん、例えばの話だからね。私が朝目覚めると、愛良が隣で眠っている。こっちを向いていようと、背中を向けていようと、とにかく愛良が眠っているから、私は起こさないようにして自分だけベッドを出て、お茶を入れに行く。それから寝室に戻って、愛良、お茶を入れたから一緒に飲もうよ、と言って起こしてあげるんだ。それで2人でお茶を飲みながら、今日も幸せな一日にしようね、なんて話し合うんだよ」
愛良は恥ずかしそうに師匠を見ながら微笑む。そして小さな声で、素敵ね、と言った。
「親父、朝の話はどうでもいいんだって。夜はどうなるんだよ」
「夜か?夜は寝る前に私がお茶を入れてあげるだろ?2人で香りを楽しみながら、今日の明陽は門弟たちに一生懸命教えていたよ、とか明龍は私の代わりに定例会に出席してくれて、あとで私に報告してくれたんだ、みたいに子供たちのことや、今日一日起こったことについて話し合う。それからもう寝ようか、と2人でベッドに入り、今日も一日幸せだったね、ありがとう、と愛良の肩を抱いて、私が明りを消し、2人で眠るんだ」
「愛良の肩を抱いて眠るんじゃ、口が臭かったら最悪だな」明陽が言う。
「歯はちゃんと磨くから大丈夫だ」
それから師匠は愛良を見て「今のは想像の話だからね。ごめんね、君の前で勝手なことを言って」と言う。
愛良は、いいえ、とても素敵ね、と答える。
「愛良は誰とどんなデートがしたい?」
明陽は聞く。
「別に、そんなこと考えたことないわ」
「何で、いいじゃん、教えろよ」
「私はみんなとこうして交流して、いろいろ学べたら満足よ」
いい回答でしょ?と愛良は笑い、前回の明龍と私の戦いについて、あとでちょっとお尋ねしたいことがあるんです、と師匠に言う。
朝食後に師匠は、前回愛良と戦った時に起きた出来事について明龍からも尋ねられていて、それに答えるから、と愛良と明龍を外の庭園へ伴う。
「まず明龍。お前は愛良と戦っている時、愛良と愛し合っているような気分になったと言ったね」
歩きながら、師匠は聞く。
「はい」明龍は答え、少し恥ずかしそうに愛良に笑いかける。
「愛良はその時、明龍に嫌悪感のような気持ちを抱いたんだね?」
「はい。その時だけは」愛良は答えた。「勿論、普段はそう思っていませんよ。とても優しくていい人だと思っていますから」
「嫌悪感だけだったのかな?」
「強い自己陶酔の感覚にも浸りました。自分が一つの魂だけでなく、個人としての肉体も持っていることの喜びと、自分を抱きしめたくなるような感覚。快楽と言ってもいいくらいのものです」
「日本に帰ってから、修行中にそういう気分にはなった?」
「いいえ。あの時だけです。あの時の感覚は私には理解不能だったので、日本に帰ってからはあまりそのことについて考えないようにしていました」
「他には?」
「前にもお話しましたが、彼に勝ちたいと強く思いました。絶対に負けたくないという思いで戦いました。勝敗に関してこだわったことが、自分にとっての驚きです」
庭園の奥のあずま屋に来ると、師匠は2人に座るように勧めた。
「まず私の解釈を言おう」師匠は言った。
「明龍。お前は愛良を深く愛していて、結ばれたいと思っている」
師匠はそれから、愛良を見て言った。
「愛良。君も彼の気持ちに気付いている。そして君も彼が好きだ。だけど君は、その気持ちを押し殺している。明龍を嫌いではないのに、彼に対して嫌悪感を持ったのがそれだよ。本当は明龍を嫌っているのではなく、君が自分の気持ちから、明龍を好きだと言う感情を追い出そうとしているんだ。何故そうしようとしているのか私には分からないが、おそらく君には、崇高がいるからかな?それとも、今は修行の途中だから、男性に恋愛感情を持つべきではないと考えているのかもしれない。それから君は、明龍を何としても負かしたいという気持ちと同時に自己陶酔に襲われる感覚を体験している。君が自己陶酔と解釈しているものは本当は違って、君を抱きしめているのは君自身ではなく、明龍だ。明龍が君を抱きしめ、君がそれに対してあらがえない快楽を感じている。しかし、君はまだそれを認めるわけにはいかないと思っているんだ。明龍を好きだという気持ちに勝とうとしている」
愛良は視線を下とす。
「いいかい愛良、今のが私のできる解釈だ。だけどこれは、その時、君の意識下にあった感情のいくつかが表面に現れて来そうになっただけだ。だから、今の解釈が君の本心で、君はそれを隠しているという意味ではないんだよ。私が以前会ったことがある古式武術の高僧も言っているが、この世はすべての現実が重なり合って存在している。表面に出てきては沈み、見えたようで見えなくなり、感じたようで何ともなくなる。そんなことを海の波のように永遠に繰り返しているんだ。どれを選び、どれを捨て、どこへ進んで行くのかは君次第だ。あの時のことは忘れて新しい気分になりたかったら、そうしていいんだよ。もう過ぎ去ったことだからね」
「私の隠されたそういう感情が、戦っている時に出たと解釈されるんですか?」愛良は聞いた。
「そうだよ。普段、こんなことは起こらないだろう?戦っている時にしか起こらなかった。そしてこれは2人の間にしか起こり得ない特殊なことで、君たちがとても似ているから起こったことなんだ。同じ流派で、同じレベル。しかも、君たちがこうして出会ったのも、国も性別も違う他人ではあるが非常に近い者同士、強く引き付け合ったのだろう。ただ同じ武術を学ぶ、同じレベルの修行者ではない。もっと近いんだ。ひょっとすると、恋人や夫婦、双子の兄弟よりも近い関係かもしれない」
明龍はそれを聞いて嬉しそうに微笑む。
「愛良、君は明龍を、例えば武術仲間としては、どう思っている?」師匠が聞く。
「はい。私はそれまで1人で修行してきましたが、今の状態からさらに飛躍するのには彼が不可欠で、彼が私の相手として完璧な人物であると思いましたし、私も彼の修行に協力できると思いました。初めて彼と戦った時、私が自分で特殊だと感じている部分が、彼と非常に似ているのを知って驚きました」
そこまで思ってくれてるならデートしようよ、と明龍は言い、愛良はそれに首を振って答える。
「私は修行の話をしてるのよ?」
「愛良」師匠は言う。「君の修行への情熱や態度は立派だと思う。だけど、バランスが大切なんだ。明龍は過去にそのバランスを失ってしまったことがあった。修行中だからといって気にせずに、明龍とデートしてもいいんだし、デートした上でやっぱり今は恋人になりたくないと思ったのなら、友人のままでいればいい。明龍は、1度や2度食事をしたからって自分の恋人になれなんて迫ったりする男じゃないよ。それに、君の相手が他の誰でもない、明龍なのだから、デートだって立派な修行かもしれない。彼との会話の中で、何か得るものがあるかもしれないんだから」
師匠がいいこと言ってくれてる、と明龍は喜ぶ。
しかし愛良は首を振る。
「明龍が私と対戦してくれるのなら喜んで戦うけど、デートは性質が違うわ。デートってどこへ行くつもり?」
愛良は明龍に聞く。
「眺めがいい高級ホテルのレストラン」
「男性と2人だけで食事なんか行かないわ。まあ崇高とは、お昼ならたまにあったけど」
職場が同じだからよ、と愛良は付け加える。
「嘘だ、だって弟が崇高を人質に取って俺が君を迎えに行った時、忠誠とは一緒にお昼を食べてただろ?あの中華料理店で」
「ああ、そうだったわね、あれは成り行き上そうなっただけなのよ」
「忠誠はいいのかい?」
愛良は少し考えてから、笑った。
「忠誠って不思議な人ね。空手大会で初めて会った時、私は彼のことなんか無視してたのにいつの間にか隣に座って、崇高の演武を見ながら私と一緒に拍手してるし、帰りもどういうわけか車に乗せて私たちを逃がしてくれて、断ったはずの崇高のインタビューを結局は実行してたし、私が警戒して名乗らなかったのに、すぐに崇高に私の名前を聞き出して、私を名前で呼んでたわ。それにあなたのお友達だったから、私たちの仲を取りなそうとしてくれた。しかも決闘の日は、嵐の中、師匠を武館まで連れ戻してくれて私に引き合わせてくれたわ」
「どういう訳か空港では君にキスしてるしね。嫌だな。いつの間にか彼と結婚したりするなよ?」
あれはキスじゃないわよ、と愛良は言う。「結婚はしないわ。誰ともする気ないもの」
「まあとにかく、強要はできないし、愛良は今回勉強のために来てくれたんだから、明龍、そのあたりをよく考えてから誘いなさい。それと愛良、君は女性で明龍は男性だ。2人とも同年代で、すごく魅力的なんだよ」
「ええ、明龍が素敵な男性であることは、誰に言われなくてもよく分かっています」愛良は微笑みながら師匠を見、それから明龍を見た。
「あなたは本当に素敵な男性よ。あなたのことは好きだけど、あなたに食事に誘われると、高級ホテルの本格的なレストランに連れて行かれて、食事のあとは私の気分がいいうちに部屋に連れて行かれそうな気がするから、ちょっと警戒するわ」
「俺もちょうどそういうデートの仕方を思い描いてたんだ。君とは本当に気が合うね。警戒することないよ。君の気分が良くなることしかしないんだから」
「気分が良くなりすぎて、あなたに溺れちゃうといけないじゃない?」
そうしたら修行そっちのけになっちゃうかもしれないじゃない、と愛良は言う。
「溺れる経験をしてみたっていいじゃないか。俺たちは普通の恋人同士じゃないよ?同じ流派を探求する武術家の、恋人同士になれるんだ」
愛良は少し考えてから、明龍を見た。「そうね」
「2人で、もっと深い所まで探求しようよ」
「深い所?どこまで?」
「誘ってるの?君次第だよ」
いつの間にか愛良と明龍が視線をからませているので、師匠は咳払いをした。
「まあ、仲良くなるのはいいことだからね」
2人ともいい歳をした大人なんだから、私はこれ以上何も言わないよ、と師匠は言う。
庭ではちょうど、明陽や崇高、忠誠がウォーミングアップを始めているところだった。
師匠はしばらく彼らの様子を見ていたが、やがて愛良を振り返った。
「愛良、君と対戦したいんだが、いいかい?」
「ええ」愛良は言い、少しうつむいてからまた顔を上げた。
「師匠、私は祖父が死んでからは1人で修行を続けてきたけど、動画で初めてあなたを見た時から、あなたを自分の師匠のように思っていたの。だからもしよければ、これから対戦してあなたが何か気づいたことを、私に教えて下さる?」
「ああいいよ」師匠は笑った。
「私を君の師匠のように思ってくれるなんて光栄だ。私も君を、愛弟子のように思ってもいいかな?」
「ええ。どうぞ」
2人は向かい合って立つ。
男たちもそれに気付いて体を動かすのをやめた。
「何だよ。結局、親父と愛良はお互いに対戦したいんじゃないか」明陽は言う。
2人は戦い始めた。
「でも、朝食前とは違って、あんまり優しくない戦い方だね」忠誠は言う。
俺と戦ってる時みたいに厳しいな、と明陽は兄に言う。明龍は、厳しく戦わないと愛良に失礼だと思ってるのかもよ、と答える。
最初は師匠のほうが圧倒的に優勢だったが、ある時から愛良の攻撃のほうが優勢になってきた。
「お?あいつ結構やるじゃん」明陽が愛良を誉めるが、明龍は「しっ」と黙らせる。
やがて愛良の攻撃が師匠を追い詰め、最後に確実に師匠をとらえたと思ったその時、師匠と愛良が同時に倒れた。
「おい、愛良が尊敬しているはずの親父の腹にまたがってるぞ」
愛良が師匠の上に覆いかぶさり、その手は師匠の喉もとを攻撃する直前で止まっていた。
「見事だ、愛良。参った」師匠は両手を上に上げた。
「師匠、あなたが突然退くから…」
師匠にまたがった状態で膝をついている愛良のそばに明龍がやって来た。
「愛良、師匠はたまにこういうことをするんだよ」
明龍は愛良に手を差し出したので、愛良はその手を借りて立ち上がった。
「こちらが攻撃している最中に、急に退くんだ。そして、攻撃が命中する直前までを見る」
さあ師匠を起こしてあげて、と明龍が言うので、愛良は師匠に手を貸し、立ちあがるのを手伝う。
「ありがとう」
「でも、危険だわ。もし間違って命中してしまったら」
「愛良。私だって達人だよ」師匠は優しく笑う。「君が直前で止めてくれるのを私は読んでいた。そういう瞬間でなければ退いたりしない。でももし、君が直前で止めなかったとしても、私は充分自分で回避できるだけの間合いは取っているから大丈夫だ」
「びっくりしたわ」
「初めてだから、そうだろうね」明龍は言った。
「俺もたまに師匠にやられるよ。忘れた頃にね。本当に攻撃しそうになる」
「愛良、一瞬の隙もない見事な攻撃だったよ。あの一撃で敵は確実に倒せる。でも、驚かせて悪かったね。私はどうだった?」
「お見事だったわ。でも、何だか納得できないわ。だって、師匠にわざと負けてもらったみたい」
でも、師匠は私の技を見たかったのよね、と無理に納得しようとする。
「愛良、何も私との勝負は今の1回だけで終わらないよ。また今度私に挑戦してくれたらいい」
崇高は愛良に、師匠が本気を出したらどんな戦いになるか見てみたいな、と言う。
「そうね、師匠が真剣に相手して下さったら、多分私はすぐ負けると思うけど、勉強のために師匠にまた挑戦してみたいわ」
そう思うんだったら今からだっていいんだよ、と師匠は笑う。「今、あんな終わり方をしてしまって、君はちょっと不満なんだろう?」
「実を言うと、そうなの」
「遠慮せずかかって来なさい」師匠が手招きするので、愛良はいいの?と言いたげに首をかしげると、師匠はうなずいた。
「じゃあお願いします」愛良は言い、お互いに敬意を表するポーズを取る。
え?まだやるの?という顔の男たちを脇に、愛良は師匠と戦い始めた。
最初はまるで舞踏のように合っていた2人の動きから、だんだん師匠の攻めが優勢になり始める。
「どうした愛良、もっと君の技を見せてごらん。遠慮はいらないよ」
愛良は反撃する。
しかし、実力はやはり、師匠の方が上だった。
一旦退く2人。
「続けるかい?」構えたまま、師匠は聞く。
「ええ」師匠を見据えたまま、愛良は答える。
「本当に?少し休まなくていい?」
「休まなくていいわ」
「じゃ君から、かかって来なさい」
愛良は師匠に攻撃を仕掛けた。再び激しい戦いが繰り広げられる。
愛良の攻めは冷静にかわされ、師匠は再び反撃に出る。
「姿勢をすぐに整えて!相手の出方を恐れてはだめだ」師匠は言う。
「君は余計なことまで考えている。考えてはだめだ。続けてどんどん来なさい」
「考えてはだめ?考えないでどうするの?」
「君は分かっているはずだよ。分かったら、来なさい」
そして師匠は先に攻撃する。
分かったわ、身を委ねるのね。
愛良は防御しつつ、流れに乗ろうとした。
「そう、そのままおいで。自分のパターンも崩すんだ」
明龍にも明陽にも見せたことのない動きで反撃する師匠。
「自我を極限まで削って!」
愛良ははっとした。前に体験した、明龍との戦いに似ている。ただ一つ、違う点を除いては。
もしかして私たちは、同じエゴの中にいる?
今だよ、私に入っておいで、愛良!
師匠の攻撃をかわすが、これ以上よけられないと愛良が思った時、とうとう最後の突きが、避けきれなかった愛良の喉の下に真っ直ぐに入る。師匠は直前で動きを止め、そのまま愛良の背中を支えながら、ゆっくりと彼女の体を地面に倒していった。
愛良は、今自分が師匠と同じエゴの中にいたような気がして、その気持ちを確かめるように師匠を見つめていた。
「負けたわ、師匠」背中が地面に着いた時、愛良は言った。「お見事よ」愛良は微笑む。
師匠も愛良を見降ろしながら優しく微笑んでいた。
明龍が近づいて来るのが分かったので、師匠は、来なくていい、と手で制する。
「ゆっくり呼吸して、愛良。息を整えて」穏やかな口調で師匠が言う。
愛良はそのまま深呼吸した。
「君は本当に素晴らしかったよ。綺麗な動きに見とれてしまった。繊細な技だね。女性的な美しさがある」師匠は戦闘の疲れをいたわるように愛良の髪を撫でる。「私は?どうだった?」
「素敵だったわ。力強いのね」
愛良は満足そうに微笑んだ。師匠も嬉しそうに笑う。
「体は大丈夫?」
「ええ」腕を撫でかけた師匠に愛良は体を起こそうとしながら、大丈夫よ、というように遠慮するしぐさをした。「どこも痛くないわ」
師匠は、無理させたことを詫びるように、愛良の体を起こしてそっと抱きしめるようにしてからすぐ離した。
「君に無理をさせてしまったかもしれない。もう休憩しようね」
「ええ」
愛良は師匠の手を借りて立った。
「汗をかいてしまっただろうから、着替えてからまた戻っておいで。みんなの練習を見ているといい」師匠は愛良に言う。
「崇高、忠誠、明陽、練習を続けてくれ」
それから師匠は明龍を見た。
「明龍。ちょっといいかな」
「はい」
愛良が不思議そうに明龍を見たので、明龍は、行っておいで、と声をかける。
師匠は彼らが遠ざかるのを待って、明龍に言った。
「今の戦い方で、何か気づいたことはあったかい」
「ありました。師匠、あなたにも俺と同じことが起こったんですね」
やはり、お前もそう思ったか、という顔で師匠は明龍を見た。
「戦いながら白昼夢を見ているような感じだったよ」
「あなたも彼女を愛しているからじゃないですか?」
明龍は言った。愛良ももしかして、師匠を。
「一種の瞑想状態なのかな?極限まで集中した時に起きるような」
2人は歩き始める。
「分かりません。俺も一度しか経験がないので」
「夢にしては、まるで現実が同時に2つ存在しているかのような、はっきりとした感覚だった」
師匠は明龍に、皆の練習に加わるように言い、自分はあずま屋の椅子に腰掛けてもの思いにふけりながら、彼らの様子を遠くから眺めていた。
「シークレット・フォーミュラ2」は「シークレット・フォーミュラ(https://ncode.syosetu.com/n0091gc/)」の続きです。
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なるべく1ヶ月に1度を目標に連載投稿していく予定です。