髪を伸ばし始めた日のこと
────気付いていたんだろうなぁ。
中学三年の夏休み。縁側でアイスキャンディーをくわえながら、足をふらふらと前後に動かす。熱い舌の上で、アイスキャンディーはみるみるうちに溶け出していく。生温かいその果汁を飲み込んで、柱にそっと頭を預けた。
保育園からの幼馴染である「彼女」のことを、恋愛対象として見たのはいつからだったのか、あまりにも遠くてもう思い出せない。
気が付けば彼女のことを目で追う回数が増え、その髪に触れたい、自分だけをその目に映して欲しい、なんて浅ましい考えを抱くようになってしまった。そんな自分に心底軽蔑し、また酷く戸惑ったことを覚えている。
ボクは、ショートカットに切ったばかりの髪を指先で弄ぶ。失恋したら髪を切るなんて、こんな短い髪じゃ出来もしないや、と自嘲する。そんな自分に、ほとほと嫌気がさす。
短い髪が好きなのは、彼女が「似合う」と言ってくれたからだった。「顔が小さくて羨ましい」と、「格好良い」と褒めて。笑って、華奢なその腕を僕の腕に絡ませた。
────あたし、アキが世界で一番好きよ。男の子よりも、他のお友達よりも、アキが一番好き
晶を縮めてアキ。10月生まれであることも、その愛称に起因しているだろう。────最も、その愛称で呼ぶのも「彼女」以外は居なかったけれど。
呪いみたいだ、なんて思いながら瞼を閉じる。好きで好きで、どうしようもなく苦しくなって。思春期特有のその熱は勝手に成長して、心の奥を食い破ってしまった。
自分の中で彼女が一番であるように。自分も、彼女の中を占める面積が多いのだろうと思っていた。同じ感情ではなくとも、同じだけの心の面積を占めているだろうと、そんな浅ましい考えを抱いていた。
────結局のところ、それは全て勘違いだったのだけれど。
中学二年生の秋だった。ちらほらと志望校を決めだす生徒が目立つ中、彼女と一緒に自室の畳に座り、パソコンで志望校について調べている最中に、彼女に呼ばれる。
────ねえ、アキ
彼女がこちらへ徐々に近付いて、小声で囁く。近付くその顔に心臓がどくどくと音を立てる。
彼女の甘いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。身体中の血が沸騰してしまったかのように、酷く熱くて苦しい。
────好きだよ。好き。ボクも世界で一番君の事が────
沸騰していく脳は、痛い位に痺れていく。甘くて苦くて、それでも何処か心地良い。
溢れ出しそうな言葉をこくりと呑み込んで、つとめて冷静に「何」と言葉を返す。彼女の冷たく白い手の側面が、耳の横に微かに触れた。
────あのね、あたし────
その後に彼女が呟いた言葉は、熱くなっていく頭を冷静にするのには十分すぎるほどで。ボクは自分の頭から、急激に体温が下がっていくのを感じていた。
────あたしね、彼氏が出来たの
彼女は、その優しい声で、表情で恋人の事を語り出す。優しい所が好きだと言われたこと。同じクラスになった四月からずっと好きで、離れてしまう前にどうしても伝えたかったと言われたこと。…………自分も、彼の事がずっと好きだったこと。
────ねえ、アキ
彼女は静かに、その澄んだ瞳でボクを見つめる。思わず目を逸らしてしまったボクに、「逸らさないで」と言い、ボクの両頬を両手で軽く挟む。彼女が近付けば、畳がシュッと微かな音を立てた。
唇が触れ合ってしまいそうな距離だった。体温は急激に上昇してゆく。息が詰まりそうなほど、甘くて痛い。
ボクのその様子を見て、満足したように彼女は微笑む。そうして、彼女はまるで飼い犬が自分に甘えてきたように、満たされた様な表情で問い掛ける。
────おめでとうって、言って頂戴?
ひゅっ、と、呼吸が音を立てる。心臓はどくどくと、騒がしく鳴り響く。
口腔が酷く渇いていた。彼女はその様子さえも愛しげな、慈愛に満ちた表情でボクを見つめる。
おめでとう、と吐き出そうとした言葉は、小さく掠れて言葉にすらならなかった。彼女はその様子を見て、ますます満足げに表情を緩める。
────ねえ、アキってば
彼女の言葉が、声が、まるで甘い毒のように脳内を支配する。頭の中が甘く痺れて、上手く呼吸が出来ない。
だって、と彼女が言葉を続ける。ボクはどうしてか、身体に上手く力が入らない。
────だってアキは、世界で一番あたしのことが好きでしょう?他の男の子よりも、女の子よりも、誰よりもあたしのことが好きでしょう?
────だから、ねえ。おめでとうって、言って頂戴?
脳は甘く痛く、解放を求めて痺れを深めていく。「おめでとう」と呟いた自分の声が、何処か遠くから聞こえている様な気がしていた。
彼女はボクの様子を見て、ますます笑みを深めていく。そうして、「ありがとう」と柔らかく微笑んでボクの頬を撫でる。
────ねえ、アキ
嗚呼、どうかもう許して欲しい。苦しくて、甘くて、痛くて、苦い。嫉妬に狂って、おかしくなってしまいそうだ。
与えられていく心臓の痛みに、生理的な涙が浮かんでゆく。彼女はボクの涙を指で掬ってから、にっこりと微笑む。
────ねえ、アキ。あたしは貴女のこと、大嫌いよ。綺麗で純粋で、誰にでも優しくて、誰にでも良い顔をして
彼女は優しく、ボクに呪詛を吐き続ける。「貴女の事が大嫌いよ」と、何度も何度も呟いて。
────あたしの後ばかりついてくる貴女が嫌い
────何でもあたしの後から始める癖に、あたしよりも上手になってしまうところが嫌い
────あたしを一番だって言う癖に、あたしを他の子と同じように扱うのが嫌い
────誰にでも優しいところが嫌い
────あたしの事が「恋愛対象として好き」なのに、いつまでもあたしに隠すところが大嫌い
頭が、まるで冷水を被った様に急激に冷えていくのを感じていた。「嫌い」と、彼女は何度も何度もボクに呪詛を吐き続ける。ぼろぼろと零れるその言葉は、まるで泣いているみたいだった。
────ごめん、と呟いたのは、どちらだっただろうか。彼女は酷く泣いていたから、ボクだったのかもしれない。
耳が痛くなる様な静寂が続く。耳鳴りが、耳の奥で反響する。
────あたし、と、彼女が静寂を破る様に呟く。その声に、いつの間にか伏せてしまった顔を上げれば、彼女は赤く泣き腫らした目で、ボクを見つめる。
────あたし、もうアキと一緒にいられない。嫌なの、アキと一緒にいるの。どんどんアキを嫌いになって、頭の中がアキの悪口でいっぱいになるの。アキのことが大好きなのに、大切にしたいのに、どうしようもなく傷付けたくなるの。傷付いたアキの顔を見ると、凄く満たされるの。あたしのことが好きなアキを見ると、凄く傷付けてやりたくなるの
彼女はそう言うと、頬を挟んでいた手に力を入れる。彼女の顔が徐々に近付き、唇に柔らかな感触が触れる。
────キスをされたのだと、理解するまでにそう時間はかからなかった。呆然とするボクを見て、彼女が涙でぐちゃぐちゃになった顔で笑う。
────ねえ、アキ
────あたし、もう、疲れたの。アキのことばかり考えて、アキを憎んで、愛して、また憎んで。こんなの、もう友達じゃないよ
彼女はポケットからハンカチを取り出すと顔におしあてる。向日葵の刺繍が施されたハンカチは、ボクが彼女の誕生日にあげたハンカチだった。
ごめん、と彼女が呟く。もう一緒にはいられないと、もう一緒にはいたくないとそう言ってまた声を震わせる。
────高校も、彼と同じ所に行くの。進学校で、制服も可愛くて。……彼が、「一緒に行きたい」って言ってくれたの。あたしと一緒に高校生活を送りたいって、そう言ってくれたの
────あたしのこんな汚いところも大好きだって、そう言ってくれたの
蝉が遠くで泣いていた。
ずっと一緒だった、大切で優しい幼馴染。自分のことを「ボク」と呼んでも、それを一度も否定をしないような女の子だった。
彼女は、「ごめんね」と呟くと玄関へ向かう。「お邪魔しました」と言う律義な声にはっと我に返り慌てて追いかけ玄関へ向かう。玄関へ着くと同時に、がちゃりと扉が閉まる。
────それから、彼女と連絡は取っていない。学校で会っても、まるで他人のように避けられてしまってからは、彼女に連絡を取る事が怖くて、そのまま疎遠になってしまった。
────高校、行く理由が無くなっちゃったなぁ
ついこの間まで志望していた進学校を頭に思い浮かべると、口にアイスキャンディをくわえたままごろりと縁側に寝転ぶ。行儀が悪いって怒られちゃうな、なんて、彼女の怒った表情を思い出す。もうそんなこと、考えたって意味が無いのだけれど。
ぼんやりと天井の梁を見つめていると、不意に頭にごつりと何かが当たる。視線だけを動かせば、掃除機を持った兄が呆れたように立っていた。下から見上げているせいか、やけに大きく見える。
「晶、お前また縁側でごろごろして。もう中学生だろ、勉強しろ勉強。…………あーあーもう、ごみくらい捨てろよ」
五つ年上の兄はぶつぶつと文句を言いながら、アイスキャンディの包装を捨てる。「ありがとう」と言えば、短く「おう」とだけ返す。
兄は再び掃除機のスイッチを入れ、少しの間掃除機を掛けてから、ふと驚いたようにこちらを振り返る。
「────お前、甘いもの食べれたの?」
目を丸くする兄に、小さく笑って縁側をあとにする。なんだよ、と呟いた兄は、再び掃除機をかけ始めていた。
────昔から甘いものが嫌いだった。そもそも砂糖をあまり受け付けない体質のようで、口に含んだ瞬間からえづいてしまうなんてことは日常茶飯事で。だからなのか、甘いものは意識的に避けて過ごしてきた。それが普通だったし、それでいいと思っていた。もともと食事自体を一人では三食まともに摂れない人間だったし、特別「お腹が空いた」と感じることも無かったからだ。
家族はそんな自分を酷く心配していたものの、何度手助けをしてもろくに食事を摂らない自分に、半ば諦めの境地で居た。兄だけは「食え」と言って作業中でもお構いなしに、食事の時間になると強引に食卓まで連れて行ったのだが。
嗚呼、それでも────彼女と話した日から、食事自体を一切摂らなくなってしまった時期は、初めて兄に抵抗をした。兄が何度声を掛けても、母や父が何度尋ねても、頑なに食事を摂らなかった。いらない、食べたくないと駄々をこねる子供のように。
朝が来たら制服に着替え、家族にあいさつをしてから家を出て。夜は入浴と排泄以外は部屋に引きこもった。
すると、三日目の夜。兄がバン、と扉を開け、無言で部屋からボクを引きずり出す。そうして、食卓に座らせてから、嫌に低い声で言った。
────お前さ、人に食事を準備して貰える事がどれだけ有り難いことか考えたことあんのか
そう言って眉間に皺を寄せた兄の表情が酷く恐ろしかったことを覚えている。その表情を見て、「嗚呼、そう言えばこの人は昔から怒ったら怖かったなあ」なんて、頭の片隅でぼんやりと考えていた。
────全部食わなくても良いから、とりあえず食卓にはつけ。食えそうなものがあれば、それだけでも良いから。まずは食べ物に箸をつけろ。身体壊してからじゃ遅ぇんだぞ
そう言った兄が、本当に心配そうな表情をしてそう言って。何と無く両親の顔を見れば、二人も心配そうな表情をしていて。その表情を見てやっと、自分が三人に酷く心配を掛けてしまっていた事に気が付く。
────────ごめん、なさい
そう答えると、「謝る事じゃねぇ」と兄が呟く。母は、そんな私達を見てそっと口を開く。
────ご飯、冷めちゃうよ?ゆっくりでもいいから、少しずつ食べなさい
母の優しく微笑む顔に、ほっと息を吐いて少しずつ食事に箸を伸ばす。すると、トンという音がして、机にホットミルクが置かれる。思わず見上げれば、父は不器用に笑い
────胃を痛めない様に、ホットミルクを飲むのが良いってインターネットで見たから。まずはそれを飲んで、それからゆっくり食べなさい
砂糖は入れて無いから、と言う父を見て、彼らにどれ程の心配をかけさせてしまったんだろうと思う。一口ずつ飲んだホットミルクは、牛乳の優しい甘さがして。味があるもの自体を嫌っていたのに、それだけはやけに美味しくて。ぼろぼろと涙を零しながら飲んだのだ。
「お前、高校どうするの?」
中学三年の夏の初め。偏差値で何となく決めた私立高校の勉強をしながら、その片手間に進学したい公立高校を探す日々だった。とは言え、「今まで彼女と一緒に高校へ行く」と言う言葉で目隠しをしてしまっていたからか、自分がどこへ行きたいのかなかなかわからない日々が続いていた。
兄とともに分担された場所の大掃除の休憩中に、兄がぽつりと零す。「えぇ?」と言えば、「茶化すな」と叱られる。
「何がやりたいとか、そう言うの無ぇの?」
怪訝そうに呟いた兄を見て、そう言えばこの人は工業系高校に行ったなあとぼんやりと思いながら「うーん」と返す。
言葉に詰まったボクを見て、兄が小さく呆れた様な溜息を吐く。そうして、「ちょっと来て」とボクを連れてパソコンが置かれた書斎へと向かう。兄は、ボクの分の椅子を傍に置くと、パソコンを立ち上げる。
「本当は余計なお世話かと思って、黙ってたんだけど」
そう言いながら、自分のアカウントを選択しパスワードを解除すると、ある高校のホームページを「お気に入り」と書かれた場所から選択し、画面いっぱいに写し出す。
「私立星花女子学園……?」
その学校は、中高一貫型の私立学校のようだった。校舎の写真は綺麗で、部活動の種類も豊富だ。
「ここならお前のやりたいことも見つかるんじゃないかと思ったんだ」
兄はそう言うと、カチカチと「部活動・生徒会」と言う項目にカーソルを合わせ、クリックする。
「写真部……?」
ぽつりと呟くと、「そう」と兄は呟く。
「お前さ、写真とか映像とか作るの好きだろ。ここなら同じ趣味を持つ友達とか出来るんじゃないかと思って。電車は乗り換え合わせて一時間半くらいだけど、通えない距離じゃないし」
兄はそう言うと、小さく笑って、掃除機を持って席を立つ。
「お前はさ、自由なんだよ。自分の好きに行動して良いんだ。────そこでなら、もしかしたらお前のやりたいことが見つかるかもしれないよ」
そう言って、兄は部屋を出る。「塾に遅れんなよ」と釘をさすことも忘れずに。
ボクは何の気なしにホームページをかちかちとクリックする。すると、あっという間に学校紹介にのめり込んでしまう。
────すごい、こんな学校があったんだ
それからは星花女子学園について調べながら、勉強をひたすらに送る日々だったと思う。両親に志望校として相談すれば、見学日に一度見学に行こうと言われた。髪を伸ばし始めたのは、ちょうど同時期だ。
彼女が似合うと言ったショートカットをやめて髪を伸ばしたのは、一種の自戒のようなものだった。もう二度と、彼女のように誰かを傷つけないための、そして、もう二度と誰も好きにならないための、自分で自分にかけた一種の呪いだった。
中学三年生の夏休みに入ってからの学校見学は、その気持ちを強くするには十分で。両親や兄も賛成を示してくれた。
夏休み後の二者面談だった。二つ前の生徒の面談が終わり、廊下に設置された椅子に座る自分の身体をひとつ左へとずらす。徐々に近付いてくる順番に、眩暈がしそうなほどの緊張を覚える。
「────次の人、どうぞ」
自分に向けて呼び掛けられたその声に、小さく返事をしてから教室の扉をノックした。コンコンコンと言う乾いた音がやけに鼓膜に響く。
失礼します、と言う声に、「はい」と担任の教師が答える。勧められた席に座ると、彼女から質問が飛んで来る。
「────それじゃあ、今考えている志望校があったら教えてくれる?」
その言葉に、「はい」と返事をしてから、小さく深呼吸をする。
兄が自分の為に調べてくれた大切な高校名を。両親が応援してくれた大切な高校名を。
そして────初めて自分で、「行きたい」と選んだ高校名を。
「────────私立星花女子学園です」
開け放された窓からふきこんできた生温かい夏の風が、まるでボクの言葉に反応するかのように伸び始めた髪を揺らしてゆく。
この髪をいつか切る頃には、君の事なんて忘れてしまえているのかな。窓を青く染める空を見ながら小さく呟けば、何処か泣きだしたい様な感情を残したまま、感情は青空に融けて消えていった。