ぺんぺん草の白球
三年前の、これに関して覚えていること。
遅いコールド負け。
フェンスの錆がひどかったこと。
隣の子と交わした、気の抜けた炭酸のような会話。
虚勢を張っているのか何なのか、妙に薄っぺらな部員たちの笑顔。
それくらい。
夏休みが始まるまで二週間程のある日、校舎全体が浮足立ったように震えていた。その震えは廊下を進むごとに、教室に近づくほどに大きくなっていき、寄せては返す波のようにたぷたぷと、空間全体を包んでいた。
はて、これは何だろう。
教室に一歩足を踏み入れれば、流れるプールさながらの、やわやわとした震えに巻き込まれた。身体ごと、ふぅ、と押されているような薄気味悪い感覚。
机に荷物を預け、持ち物を全部仕舞ってしまうと、軽くなった身体がますます飛んで行ってしまいそう。そうなるともう、どこにも行ってしまわぬよう椅子の上でぎゅぅ、と背中を丸めるしかなかった。
はて、これはいったい。
夏休み前特有のものか。
いや違う。
夏の熱にでも茹で上げられたか。
いや違う。
色恋沙汰にあてられたか。
いや違う。
頭をやわやわと揺すられながら、あれかこれかと思考を捏ね繰り回していれば、震えのほうからぽん、と此方に飛び込んできた。
「勝った」
「嘘みたい」
「でも本当」
「初めてかも」
「凄いね」
「信じられない」
「でも勝った」
どうやら、一回戦敗退記録をちゃくちゃくと積み重ねてきた我が校の野球部が、二回戦へと駒を進めたらしい。そういえば昨日、教室にある筈の坊主頭がなかった。
その時、ほんのり甘い勝利の匂いを振りまきながら、小さな渦が二つ、教室に入ってきた。廊下を小刻みに進んできたそれは、教室に入った瞬間大きく広がって、中にたゆっていた震えを全部飲み込んでしまった。男の子のひそひそも、女の子のささめきも、その中に消えてしまう。渦の中心は、誇らしげに顔をほころばせている坊主頭だ。
渦が少し落ち着いてきたころ、魚が餌に群がるように、生徒のうち何人かがおずおずと彼らに近づいた。小さな渦を中心に、小さな塊ができた。それはゆったり大きくなって、つられて勝利の匂いが生徒達に感染したのか、教室に充満していく。
隣の教室でも、またその隣でも、同じようなことが起こっているのだろう。壁を挟んでいるはずなのに、どぉぉぉう、という血液に似た、渦の音が聞こえた。
渦は三年生の教室を中心に、学校のいたるところで発生している。レギュラーのいないらしい一年生の教室ではさすがに見られなかったが、渦になる一歩手前のようなゆらぎは、そこかしこに散らばっていた。
三年生の教室で、渦はますます大きくなっていく。文化祭も終わり、行事らしいものがほとんど残っていない彼らにとって、降って湧いたお祭り騒ぎは予期せぬものだったろう。それも相まって、熱を伴って渦はぐるぐると回っていく。廊下で、教室で、階段で、仄かに勝利の匂いを振りまいている。
その日は何だか、熱に浮かされたように落ち着かなかった。生徒は勿論のこと、黒板の前の教師たちも、炙られているような、ささやかな高揚感を抱えているようだった。
一日経っても、渦はちっとも小さくなっていない。それどころか、勝利の匂いと生徒たちの熱気を吸い込んでむくむくと膨らんでいた。しかし、表からはその様子を伺うことはできない。古い校舎に、いくつもの渦を抱え込んで素知らぬ顔して立っている。次の試合は三日後。それまでにこの渦はどれほど大きくなるのだろう。
渦の中で頭が揺れた。
* * *
「勝った」
「勝ったよ」
「勝ったんだ」
「勝ったらしい」
「初めてだね」
「嘘みたい」
「凄いな」
二回戦突破、したらしい。夏休み目前のお祭り騒ぎ。もう青春なんてものの後ろ姿しか見えてないような三年生たちは、燃え上がった。勝利の匂いと、薄れつつある青春の面影、夏の暑さが混ざり合って一気に走りだそうとする。狭い箱の中に、当然です、と言いたげな顔で座り、纏わりつく制服を着こみ、小さな頭に文字を詰め込むことに躍起になっていた生徒たちの、最後の悪あがきに加担するかのように、学校中の渦はぐるぐると悪戯に回り続けた。
手元に残った青春の残りかすから、最後にありえないほど大きな花が咲いたのだ。これを無視できるほど、彼らは無頓着でも朴念仁でもない。
記念すべき第一勝から数日、初めの頃は違和感しかなかった校舎の変化も徐々に馴染み、元々ここにいましたよ、とでも言っているかのようだ。夏休み前のうきうきとした雰囲気も相まって、校舎は心地よさそうに揺れている。
教室からまた、坊主頭が消えていた。午後からの試合に備え、もう球場へ向かっているのだろう。ぽつり、と空いた席が各教室に見受けられた。自分の席を埋めている生徒たちは、羨ましいような目でそこを見ている。
どんなに渦が沢山できても、その中心は彼らであって自分たちではない、という悲しい自覚がとろりと目から滲んでいた。そのころにはもう、自分たちから発生した渦は、彼らからかすめ取った儚いものでできているということに気づいていたのだ。それが分からぬほど、彼らは鈍感ではなかった。
しかし、それでも教室全体はふわふわと浮足立ち、心ここにあらず、といった風の生徒たちがお行儀よく授業を受けている。
授業の時ばかりは、校舎中で好き勝手回っている渦たちも、机の下やロッカーの中、本棚の隙間などで大人しくしていた。
チャイムが鳴って、教科書を片付ける頃にはもう渦たちはよちよちと這い出してくる。この数日の間に随分と数が増え、校舎の外にも少しずつ出て行っているらしい。
それに、教室や廊下など、生徒たちの生活場所を主な生息地としていた筈だが何時の間にか、教師の空間にもその地を広げているらしい。というのはお喋り好きな女子の話。
この学校出身の教師が多くいるせいだろう。なぜだか生徒たち以上に、熱気や、薄く色あせてしまった青春の思い出たちが渦巻いて職員室は今大荒れらしい。というのはよく職員室に呼び出される男子の話。
そして、
学年主任が校長に掛け合って、午後からの試合応援に行かせるよう説得している。
というのは渦の中でくるくると、心地よく回っている生徒たちの話。
「ねえ」
「学年主任が」
「知ってる」
「校長の所」
「直談判して」
「応援を」
「球場へ」
一時間目が終わって、渦は一気に広がった。元々、野球部以外の作り出した渦はせいぜい祭り気分を盛り上げる程度の勢いしかなかった。
それがどうだろう。
青春の中心に自分たちもいる、自分たちもいるのだ。今の教師が子供だった頃、思う存分に青春を味わっていた頃、決して入ることのできなかった部分に自分たちは足を踏み入れようとしている。声高に叫ぶ若い心が、ふよふよと甘い匂いをまき散らせている渦と合わさって、加速していく。
行かせろ
見たい
応援したいね
行きたいな
応援の仕方とかまだ覚えてるっけ
行きたい
前に行ったの一年の時だ
行きたい
行きたい 行きたい
行きたい 行きたい 行きたい
行きたい 行きたい 行きたい 行きたい
行きたい 行きたい 行きたい 行きたい 行きたい
行かせろ
二時間目は今までになく落ち着かない授業だった。文化祭や体育祭と違い、全くのイレギュラーなイベントを受け止め切れていないのだ。いつも背筋をぴんと伸ばしている優等生も、黒板を削るような勢いでチョークを振り下ろす教師も、背骨が抜けてしまったかのように覇気がない。それはどこの教室でも同じようだ。隣では、弾丸のような激しさでお馴染みの授業が繰り広げられているはず。それなのに、いつも聞こえるはずの鋭い声は少しばかり柔らかになっていた。
交渉はどうなったのだろう、という声。口には出さずとも、若い、薄っぺらな身体から立ち上る疑問のような要望。教科書をめくりながら、ペンを動かしながらますますそれは膨れ上がっていく。生徒たちは皆、もしかしたら、という期待に縋り付いているのだ。それは、どうせ無理なんだろう、という諦め半分の気持ちに押さえつけられるほど弱かった。しかしより合わさり、紡がれることで一種の呪いのように強くなり、大蛇のごとき形質をもって廊下を進み始める。
それは、校長室へと続く階段を下りて行った。
しゅるしゅるり
終業の鐘が鳴る少し前、校長室のほうから壁の崩れるような音がした。
きぃぃぃん こぉぉぉん
終業の鐘もなんだかそわそわと、いつもより上擦っている。よちよちと這い出してくるはずの渦も、今日ばかりはばたばたと飛び出してきた。
それと同時に、ぽんぽんぽん、という気の抜けた木琴の音がスピーカーから零れ落ちる。臨時放送の合図だ。生徒たちの動きが止まる。
何だ何だ。目配せし、疑問を投げ合いながらも、確信めいた予感が教室に、廊下に蔓延する。弦がきりきりと引かれていくような、うんと澄んだ氷のような緊張感がめらめらと立ち上がる。
「三年生は午後からの野球応援に参加します。担任の指示に従ってください」
一瞬、ほんの一瞬時間が止まって、わぁ、と天井を焦がすような興奮。根拠のない誇らしさ。それも瞬き一回した後には消えていて、生徒たちはうまく自分たちの中に隠してしまう。でもどうしようもない高揚感が、ぽろぽろと溢れ出ていた。
生徒たちは互いに、共犯者のような笑みを浮かべた。
バスに乗る際、窓という窓から羨望の眼差しを投げかけられた。それはぽこぽこと頭の上で跳ねる。ちょい、と振り返れば、窓に下級生の頭が並んでいる。晒し首がずらりと、こちらを見ているようで一瞬寒気がした。
バスの中ではさらさらとささめきごと。野球応援に行くのは勿論嬉しいのだけれど、それと同じくらい、授業が潰れたのが嬉しい、と言ったのは誰だったか。教師は聞こえないふりをしてくれた。
暑さを危惧していた球場では、雲が太陽を遮り思いのほか快適な状況だった。空っぽの座席に、白と、黒と、紺が広がっていく。それにつられて、渦も広がった。
唸り声のような合図が響いた。
選手たちはわぁ、と持ち場についている。夏の暑さに、彼らの熱気が加わった。応援の熱も加わった。誰も、お祭り騒ぎをここで終わらせたいなんて思っていないのだ。
向こうのスタンドで、鮮やかな衣装を纏った応援団とチアリーダーたちがくるくると、おもちゃのように踊っている。チアリーダーの女の子たちは、テレビでよく見るような、ありふれているが王道の衣装に身を包み、外へ放り出すかのような勢いで手足を弾けさせていた。
「凄い」
「初めて見た」
「珍しいねぇ」
見慣れないせいか、ぱらぱらとそんな声が上がった。相手方の攻撃のたび、自校の守りよりもそっちに目を奪われる者も多い。勿論、心の中では自校の応援をしながらだが。
見慣れないものがそれだけなら良かったろう。けど見慣れぬものは、もう一つあるのだ。チアリーダーの横にいる応援団。自校の応援団は、下駄と、地面に届くかという長い鉢巻き、そして夏にもかかわらず黒々しい学ランだった。だが向こうのスタンドで両手を大きく広げ声を張り上げている者たちは、テレビでたまに見る昔のアイドルのような服装だ。もしかしたら応援団ではなく、何かの部活かもしれない。
「向こうは随分はいからで」
「なかなか派手だね」
「こちらのスタンドは黒ばかり」
「ばんから、ということにしとこうか」
そんな言葉もぽつりぽつりと転がる。そして見た目の軟派さから、「あぁ、これ勝てるなぁ」という、見下し半分の確信が生徒たちの胸に芽生えた。渦はそれさえも飲みこんで、ごうごうと濁流を轟かす。相手方のスタンドに、応援団らしき者とチアリーダー、吹奏楽部しかいなかったことも、それに拍車をかけた。空席ばかりで、何とも寒々しい。
子供の試合では、こんな曖昧なものでさえ勝利のきっかけになりうる。結論から言えば、勝ったのだ。軽い侮蔑を伴った、子供の残酷さを滲ませた応援。数は正義、という教室内のセオリーを持ち出した雰囲気が、球場を飲み込んだ。
半世紀以上の歴史を持ちながらも、一度として勝利を味わったことのない我が校の二度目の勝利。校歌を歌う時、部員が頭を下げる時、生徒も教師も、信じられないような面持ちで、踊りだそうとする心を必死に押しとどめている。
バスでは皆、死んだように静かだった。
沈むように眠っている者もいたし、何処かずっと遠くに視点を向けている者もいた。いつもは小さくぱちぱちと弾ける女の子のささやきも、とろりと微睡んでいる。
球場では、あんなにも我が物顔で回っていた渦たちも、この中では穏やかに浮かんでいるだけだった。
* * *
終業式。
校長が重々しく野球部の事に触れれば、ゆらり、と拒絶が立ち上る。接点のあまりない校長は、生徒たちにとっては部外者に近かった。そんな人に触られたくない、という子供じみた独占欲が、無意識のうちに沸き起こる。幸か不幸か、それは生徒達にしか感じられず、校長の声は薄っぺらいその壁を容易くすり抜けた。
明日から夏休み。
例年にはない興奮が、ゆらゆらと揺れている。
* * *
夏休みといっても、校舎から人が消えることはない。通常よりも密度は低いが、課外や部活などで廊下には足音が響いている。
課外も、普段の授業とあまり変わらずチャイムに始まりチャイムに終わる。違うことと言えば、授業に自習場所を奪われた生徒たちが所在なさげに、廊下を徘徊していること。出席確認の名簿が回されること。そのくらいだろう。
その名簿には「野」と書かれている欄が二つ、野球部員の欠席を示している。
各教室の黒板に、短冊のような名簿一枚、ぺろりと張られていた。野球応援に参加したい生徒は、そこに丸を付けるのだ。空欄がほとんどだが、各クラス一定の割合で丸がついている。
最初の頃よりだいぶ落ち着いた渦は、穏やかにふよふよと校舎を漂っている。時たま生徒の群れに加わって、ぎゅん、と速度を速める以外は大人しいばかりだった。
いくらお祭り騒ぎの真っ最中といえど、三年生は受験生。浮かれてばかりではいられない。おすまし顔で教室に収まっている。
少ぅしばかり浮かれるのは廊下だけでいい。そういった共通意識が何時の間にか生まれた。
それが崩れたのは昼休みだった。誰かが携帯電話で野球実況を覗いたのだ。気づいた時には、大人しく漂っていただけの渦が勢い良く回り始める。小窓を中心に、わぁ、と生徒が集まった。
顔も知らない誰かが誰かの隣にいて、それがどうでもいいように、喜々として小さな画面に視線を向ける。誰か野球に詳しくない子がいたのだろう。「これはどういうこと」と呟けば、何処からともなく「こういうこと」と解説が飛んでくる。たった一つのテレビに群がる様子は、昭和のテレビ事情を模しているかのようだ。
試合が進むにつれて、何処かの教室からも叫び声が上がる。学校のいたるところで、この小窓は開かれているのだろう。
ぱたぱたと、軽い足音数人分。廊下側の窓をがらりと開けた。
「ねえ、どう」
廊下の人影が聞く。
「まだ同点」
誰かが答える。
ちなみにその人影が教師だった場合、さっと携帯電話を皆で隠す。校則違反という意識はきちんと残っているのだ。教師も見て見ぬふりをしてくれているのか、その様子を見ては曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。
しかしそんな意識も、時間がたつにつれて薄れていく。しまいには「もう取り上げることはしないだろう」と皆揃って堂々とし始めた。その頃には、廊下にいるのは生徒ばかりだった。何でも、職員室のテレビでも野球実況を見ているらしい。
どぉぉう、という血液に似た音。
渦の音。
あっちでもこっちでも聞こえる。
「あぁ、また止まった」
小窓は時たま、悪戯にその景色を止める。
はぁ、と悩ましい溜息が漏れた。けれどすぐに動き出す。携帯電話は少しばかり意地悪だ。
景色を止める以外にもまだ一つ。何故だか、教室一つ分の間にも時差が発生するのだ。向こうのほうは今を映しているのに、こっちは十秒前を映したりする。勿論、棟が違えばそれも大きい。
「うをぉぉぉぉぉぉ」
「あぁぁぁぁぁぁぁ」
あちこちから聞こえる叫び声、歓声。
「ああ、何だよもうッ」
気になる、気になる。何があったの?どうして叫んでいるの?
そんな気持ちを含み苛立っていた声は一瞬で、歓声に塗り込められた。小窓が、向こうの景色に追いついたからだ。
「成る程ね、こういうこと」
いらいらと棘をはらんでいた声は、うきうきと歌うような一人声へ変わる。小さな画面の中で、自校が点を入れた。
学校中で渦が回る。
「もうすぐ課外です」
誰かが言った。
「とりあえずくたばれ」
参考書の準備をしながら、憎らし気な目が浮かび上がった。。
「あぁ、試合が見られない」
溜息と同時に吐き出された、煙みたいに弱々しい声。小さな窓を取り囲んでいたうちの数人が、名残惜しげに離れていく。渦も一瞬萎びたように小さくなった。
その時、ぱたぱたっと軽い足音。頬に額に薄っすらと汗を浮かべて、阿呆のように晴れ晴れとした笑顔で言い切った。
「午後の課外は、試合が終わるまでお預けです」
それだけ言うと、また隣の教室にでも伝えに行くのかぱたぱたと駆けていった。
離れていた数人がすぅ、と戻る。違和感のない自然な流れだった。
「先生たちも見たいのね」
と言ったのは誰であったか。
「また、止まったっ」
小窓はふつりと動きを止めて、スタンドの景色を映してばかりだ。女の子の可愛らしい応援の一場面を切り取り、ぴくりとも動かない。
じりじりと焦る気持ちで画面を見ていると、向こうの棟、書道室あたりからずん、と重い渦の流れが響いてきた。見ると、窓から身を乗り出し女の子たちが指を一本立てている。ぴょんぴょんと跳ねているものだから、髪がきらきら揺れる。どうやら一点取ったらしい。
そうしてる間に、ようやく画面が動き出した。女の子から場面が移る。ランナーが三塁から、叩き付けるように走る。電光掲示板の数字が一つ、大きくなった。こちらの棟でも、次々に歓声が沸き起こる。廊下に、「一点」と叫ぶ声が響いた。
守れ守れ。点差は一点。これを守ればベスト十六だ。
湧き上がるような応援が、ゆらゆらと立ち上り校舎を包んでいく。空気はきりきりと澄み、緊張感が張り詰める。
あぁけど、かん、と打たれた白球が綺麗な放物線を描いて、守備の後ろへ飛んで行った。そしてランナーが一人、点を取る。掲示板の数字がぴょこりと動いて、同点を伝えた。
「延長だ」
馬鹿騒ぎがまだ続くと、嬉しそうな声が何処からともなく聞こえた。
「明日行こうか」
「延長試合明日だよね」
「うん、休みの日」
「課外ないよね」
「どうせなら」
短冊の名簿の前で、魚の群れ。と思いきや、生徒の塊。延長試合は課外のない日なのだから、わざわざ丸を付ける必要もないのに。
教室の渦が熱を持つ。小窓の中の、球場の暑さを吸い込んだみたいに。
「今回の試合の審判、今年の大会で引退のようですね」
黒板の前で、教師がぽろりと零した。背景には力の分解の図が描いてある。
「神様が、彼の仕事を伸ばそうとしてるんですかねぇ」
そう言って、また黒板に図を描き始める。
もしそうなら、私たちが気づいてなかっただけで渦は何処にでもあるのかもしれない。熱をはらんで、轟音を響かせているのかもしれない。
そんなことに、今気づいた。
* * *
全校応援のお知らせ。
八時までに自分の教室に集合。
弁当、水筒、帽子を持ってくること。
延長試合に勝ったから、遂に全校応援にまでなった。何だか皆、行けるとこまで行くんじゃないかと、無責任な期待に瞳を輝かせている。
教室はざわざわしていた。
プールの底に沈んだように揺れている。
渦が大きくなって、全部、校舎全部包んでいるのだ。
お祭り騒ぎの浮世離れな雰囲気のせいか、生徒たちの声は皆、小さな泡のようにぴちぴちと弾けていた。
ぼう、と視線を燻らせていれば既視感。何処だったろうと記憶を探ってみれば、何てことはない。ほんの一週間前、二回戦進出時の雰囲気とよく似ているのだ。生徒たちのじりじりとした熱気や、お祭り前の愉快な予感、そんなものをはらんでぐるぐると回っている。
ばすに乗り込むとき、校舎は空っぽだった。がらんどうの箱が、生徒たちを見下ろしている。学校の敷地全部が、甘やかな青春の匂いに包まれている。それは学年が上がるにつれて強くなり、三年生の間では、腐り落ちる前の桃のような、寂しい匂いを纏っていた。
球場は、植物園のように熱かった。
空はかーん、と開けている。けれど生徒たちの湿った息や、あっちでもこっちでも発生している渦のせいで、どろりと熱をため込んだ。
向こう側のスタンドが、水色と濃緑に侵食されていく。こちら側も、洋墨を水に垂らした時の速度で、とろとろと黒、白、紺が広がっているのだろう。
ベンチに隙間の生まれぬよう、お行儀よくしていると何時の間にか試合開始。
向こうが表、こっちは裏。
獣の唸り声みたいなサイレンが鳴った。
応援団が顔を真っ赤にしながら腕を、足を大きく動かしている。その上を、水が隆々と飛んでいた。OBの人たちが大きな桶から、これでもかという勢いで水を振りまいているのだ。丸太のように黒くて太い腕から、光の帯がわさりと伸びる。学ランについた水がからから光り、蜘蛛の巣でも羽織ったようになった。
視界の端で、吹奏楽部の楽器が光りを跳ね返す。魚の鱗をまき散らしたように、光の粒が飛び散った。朝顔が蔦を伸ばすときの、凛とした雰囲気で軽快に音を吐き出す。
向こうのスタンドも、こっちのスタンドも人がうごうごしている。刺すように光が降り注ぐから、熱を直接流し込まれたような感覚になった。
黒だらけの一群が、裂けそうなほど声を張り上げる。生徒たちの群れが、それに合わせて蠢いた。右へ、左へ、元の位置へ戻っては腕を突き上げ空をかき回す。応援団の一年生らしき生徒が、選手の名前が張ってある板を持って走り回った。
生徒たちはその名前を、顔も知らない、学年さえも分からない少年の名前を、無責任な明るさを持って熱唱した。
森の成長を早送りで見た時のように、声の枝がめきめきと空を目指し、葉を茂らせ空気を振るわせる。
「「「「カットバセ ― ―― ― ――」」」」」」」」
半ば悲鳴のような声援が、球場を突き刺した。
そんな時、てんでばらばらだった渦が、大きな塊となって生徒たちに覆い被さった。
そのせいだろうか。
小さな魚の、大きな群れではなく、一匹の大きな魚にでもなったような連帯感が生まれたのは。
彼方から此方から降ってくる声に溶けて、個というものが無くなったような心地よさが湧き出たのは。
それは不気味な静けさを持って、乗り移ったかのような自然さで存在した。
どぉぉぉう、という幾つもの渦を飲み込んだ大きな魚は生徒たちの上で、ゆったりとたゆっている。
けれど結局、この回で点は得られなかった。
対岸で、おもちゃのように小さく動いているのは応援団。橙のシャツに身を包んだ集団が、規則的に腕を伸ばし足を曲げる。その後ろで、硝子破片のように小さく、吹奏楽部の楽器が光った。
からから からから
向こう側で、青のメガホンが揺れる。流れに合わせて、少しずつばらばらに動くその様子は、縁日に並ぶ風車を思い出させる。青い青い、風車の川。
人口密度の低いグラウンドで、球が投げ出されるのを皆して見下ろしている。あっちでも、こっちでも。
じりじりと体内に熱を溜め込みながら、その様子を睨みつけるように見ていれば、
「あ」
と、いう声がぽんと飛び出した。そしてすぐ
「「あぁぁぁぁ」」」」」」」」」」
という溜息と絶叫の入り混じった音が、わぁと広がる。頭上でくゆっていた魚は、慌てたようにびちびちと、尾ひれを振り回した。
視線の端に引っかかっている電光掲示板が、みょこりと動いて向こう側に点数を入れた。一点。
そこからの応援は何だか、皆して箍が外れたようになった。
右に左に揃って揺れて、大きく大きく手を伸ばす。阿呆のように叫んでみれば、青春終わりの匂いがくゆる。
もっともっと。
明日死んだっていいような。
だってもう、青春の終わりだ。
普段はつんと澄ました顔で、汗なんぞかきかくない、とゆっくり動く生徒たちが、この瞬間だけ生きている、とでも言いたげに、後先考えずに汗を垂らす。
自分たちの声が何処に行くのかなんて考えず、祭り騒ぎの馬鹿ばかり。
ここではこれが正義だと、声高に叫ぶ阿呆ばかり。
応援しているのか叫んでいるのか、分からないような喧騒がわぁんと広がる。
回が進むごとにそれは勢いを増た。
進む進む。
電光掲示板は零ばかり刻んだ。向こう側に一を与えたきり、空っぽな楕円を映し続けている。
空欄はあと二つ。上下に真っ直ぐ並んでいる。
向こう側で、風車の川が流れていた。
こちら側では
「勝ってほしいね」
「勝てよ」
「勝って」
というささめきごとが、岩から這い出して来る蛇のように止めどなく溢れた。ベンチに腰掛け、どろりと熱に浮かされた眼球で見下ろしている。
負けるかもしれない、という考えは、どこか遠くへ放り投げた。
守れ守れ、という視線がグラウンドに注がれた。あんまりに強い思いは呪いになると、この生徒たちは知っている。廊下を這いまわる大蛇を見ているのだ。祈りにも似た思いは、若く薄っぺらな身体から湯気のように立ち上った。
ぴょこり。
空っぽな楕円が板に現れる。
表は終わった。
さあ、裏だ。
一点でいいから取ってくれ。
半ば意地の境地に達した、我儘な願望。
自分たちが叫ぶほど、呪いのように膨れ上がった願いはその効力を発揮するのではないか。そんな阿呆な妄想がめきめきと育っていく。
右に右に左へ左へ。音に合わせて揺られてみれば、声がわぁと広がった。視界の端で飛んでいる水も、光を細かく反射する楽器も、何だかもう終わりのような雰囲気で、不完全燃焼を許さない気迫に満ちている。このまんま自殺でもしてしまいそうな自暴自棄を、彼らは纏っていた。
生徒たちの上で悠然と泳いでいた魚は、高度を落としとぷん、と彼らを飲み込んだ。
また、一体感。
初めの時とは違い、ここで終わったら終わりなのだという寂しさが、それにより拍車をかける。けれど寂しさは麻痺したように、生徒たちの奥底に沈んでいた。代わりに、終わりなんて存在しないような陽気さで叫び声をあげる。反り返るみたいに高らかな歓声が、空を擦った。
グラウンドでは、白球がミットに吸い込まれる。聞こえるはずなんてないのに、買ったばかりの曹達水を開けた時のような、ぱしゅ、と突き刺す音が響いた。
もう誰も、真っすぐにグラウンドを見てはいなかった。視界の端にちらりと留め、音に合わせてわらわら動いている。
何のために応援しているのか、すっかり抜け落ちてしまったようだ。
きちんと見ているようで、何にも見てない。何時この青春が終わってしまうのか誰にも分からない。そんな綱渡りに似た危うさを、子供特有の考えなしで、ただただ楽しんでいる。
負けてしまうかもしれない、という悲しい予感が胸中に横たわっていた。けれど、負けるはずない、というある種楽観的な予も確かにあったのだ。
馬鹿が騒いでお祭り騒ぎ。半狂乱な浮かれよう。それが永遠だと思えども、明けない夢は無いわいな。
終わりというのは意外とあっさりしている。それは向こう側にしてもこちら側にしても、同じことだったろう。向こうは守り続けて、こちらは攻め続けて、変わらぬ光景がずっと続いたって違和感がないのだから。それがすぱん、と終わってしまった。
結局向こうに一点取られたまま、逃げられてしまった。電光掲示板の下の段は、奇麗に空っぽな楕円が並んでいる。
誰も何も言わない。いや、言っていたのかもしれないが、それは絡み合って溶けあって、夏の雰囲気に馴染んでしまった。馴染んでしまった音は、拾いようがない。
わぁぁぁぁ
サイレンが広がった。
互いの校歌を交互に歌う。馴染みのない音が連なって、流れて、溶けていった。
向こう側で、風車が勢い良く回る。青く青く、からから回る。
こちら側で、魚の鱗がしゃらしゃら剥がれる。それは、ふぃ、と空に昇って消えた。
それを見れば、寂しい、という感情がふんわり広がった。心地よい重さで、生徒たちの肩にのしかかった。
野球部員たちが、観客席側を向いて奇麗に並ぶ。負けたはずなのに、何だか満足気だ。
それを見ていれば、少ぅし悔しい。
結局、こちら側でどんなに応援しても中心は彼らだったのだ。
あぁ、妬ましい。
清々しい嫉妬が心地よかった。