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「ゆずちゃん、おひめさましてー」
寧々が笑顔で駆け寄って足に抱きついてきた。
右手にはお気に入りのヘアゴムが握られている。誰にでも向けるわけではない甘えるような可愛い表情でお願いされると、柚香は面倒臭い、などという気持ちが吹き飛んでしまう。
我ながらチョロくなったものだと思う。
しかし幼い子供の笑顔というのは庇護欲を駆り立てるものなのだから仕方がない。
「いいよ、そこに座って」
寧々は最近観たアニメのDVDにかなり嵌まっている。そのアニメの中に出てくるお姫様になりたいらしく、同じ髪型にしてほしいとよく言ってくる。
柚香は崩れることなく作れるようになった編み込みで、寧々の髪を一つに結っていった。
手間のかかる髪型など今までしてこなかったのに、学校で友人相手に練習もしていたため、友人たちからはありがたがられるようになり、女らしくなったとまで言われてしまった。手芸部で、祖母がブティックを経営しているために、着るものも気を使っているというのに、今まで女らしくないと思われていたことのほうが心外だ。
「はい、できた」
「おひめさまなった?」
「なったよ。寧々お姫様。素晴らしく可愛いです」
「へへ、ゆずちゃんじょーずだもんねぇ」
「まあ、そんな。お褒めにあずかり光栄です。では寧々お姫様、お出掛けいたしましょうか」
「ゆずちゃんといっしょにいくの?」
言い方がそう捉えられるものだったのか、寧々は期待に目を輝かせて柚香を見た。
「寧々はおばあちゃんとお出掛けでしょう?」
困ったように祖母が嗜めるが、一度そう思い込んでしまえば子供は止まらないらしい。
「ねねちゃん、ゆずちゃんといくよ。ゆずちゃんいっしょにいくってゆったもん」
言ってはいないが、そう変換されてしまったようだ。
「おばあちゃん、大丈夫だよ。まだ時間あるから行って来る」
文化祭の準備があるので早めに学校へ行くつもりだったのだが、まあいいかと柚香は自分の髪も一つに括る。時間は作ろうと思えば作れるものだ。
「そう?」
遠慮がちに祖母は首を傾げる。
「うん。間に合うから。じゃあ寧々、お鞄持ってきて」
「はーい!」
元気よくリュックを取りに行く寧々に、祖母は苦笑した。
「すっかり柚になついちゃったわねぇ」
少し寂しそうな祖母に柚香も苦笑する。
「そうかな。単におばあちゃんはすぐ疲れちゃうから、出掛けたり遊んだりするのは、わたしのほうがいいだけだと思うよ」
冷静に分析しているようなふりをしながら、柚香は少しだけ嬉しさが込み上げてきていた。小さい子供が自分に特別なついているのだと、人から指摘されるのは、くすぐったい気持ちにどうしてもなってしまう。保育園に送っていくのも、苦にならないほどには。
「じゅんびできたよー」
「はい、じゃあ、行こうか」
玄関へ向かう柚香と寧々の後ろを、エプロン姿の祖母がついてくる。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「行ってきます」
「いってきまーす」
普段と違う朝の光景を楽しく感じたのか、寧々がふふっと笑って柚香の手をしがみつくように握ってきた。
「寧々、ちゃんと歩いてよ」
「あるくよー?」
何とも疑わしい返事をする。
案の定、寧々は家を出ると、柚香と手を繋いだまま、走ったり急にゆっくり歩いたりくるくる回ったりと、よくわからないはしゃぎかたをしていた。抱っこしてと言わないだけいいのだが、そのうち転けそうだ。
「寧々、お姫様くずれちゃうよ」
そう言うと効果覿面で、寧々は柚香と並んで歩き出したのだが、今度は口が饒舌になった。
「ねーねー、ゆずちゃん」
「なあに?」
「あのね、ひなちゃんがね、ねねちゃんのおひめさまいーなってゆってたの。ママにやってもらったのって。ゆずちゃんだよっておしえてあげたらね、ねねちゃんのおねえちゃん?ってきくからね、そーだよってゆったの。いーなーだって。あのねひなちゃんねぇ、おねえちゃんほしいんだって」
「そうなんだ。ひなちゃんはひとりっ子なの? 妹と弟もいないの?」
「んー、いないよ」
「じゃあ、お姉ちゃんほしくなっちゃうねぇ」
「でもママにおねがいしてもくれないっておこってたよ」
「う、うん。それは無理だと思うな」
かなり返答に窮する話題になった。姉というのは普通は後からできないものだが、寧々からしたら柚香は後からできた姉といえるので、その説明は通用しない。その子もせめて妹と言えばいいのにと思うが、いや母親は余計に困るかと、頭の中でつらつら考える。
柚香はそっとおしゃべりを続ける寧々を伺い見た。
今まで考えたこともなかったが、保育園の子供が口にする話題には、母親が頻繁に出てくるはずだった。そんな中で寧々はいつもどんな反応をしているのだろう。
周りの子供たちはまだ配慮などできない年頃だ。柚香の友人のように気を使ってはくれない。他の子供にとって当たり前に存在する、寧々にとっても数ヶ月前までは同様だった、ママという言葉をこの子はどんな気持ちで聞いているのだろう。
柚香はこの甘えたい盛りの小さな子が、四歳の女の子にとって、酷く不安定でグラグラと揺れる地面の上を、必死で踏ん張って立っているのではないかと思った。
「おはよう、寧々ちゃん。今日はお姉ちゃんと一緒に来たのね」
保育園に着くと先生からそう言って挨拶された。
「うん、きょうはゆずちゃんなの」
なぜか自慢気に寧々が言う。
「じゃーねー、ゆずちゃん。おむかえはやくしてねー」
大きく手を振って、大袈裟に別れを惜しむ寧々に、柚香はできるだけ早く来るよと答えて、手を振り返した。
一度家へ帰る道すがら、柚香はぼんやりと考えていた。
お姉ちゃん。その言葉はいつの間にか浸透している。
保育園の先生は園児の家族を名前で呼ぶわけにはいかないからこそ、柚香をお姉ちゃんと呼んでいる。
花屋の奥さんと同じで、寧々よりも年上の寧々の家族だから、お姉ちゃん。それだけの意味で、たとえ家族でなくてもお姉ちゃんとは呼ばれていただろう。
でもきっと寧々の中では、柚香のような存在が「お姉ちゃん」ということになっている。そして近いうちに、それが「姉」を意味することを理解して、柚香は寧々にとって姉になるのだろう。
時間は残酷だ。
あれほど拒否していたのに、もうそれもいいかと思えてきている。
寧々と過ごしている日々が、柚香にとっての今を取り巻く環境で、母はもう過去にしか存在しない。柚香の心を変化させられるのは寧々のほうだ。
何の罪もない存在がずっと傍にいて、可愛く笑って抱きついてこられて、拒絶し続けられるわけがなかった。柚香はそこまで意思が強くない。
でも、どうしても胸が痛くなる時がある。
母を裏切ってしまった罪悪感。それを感じながら、母は小さな子に冷たく接することを望みはしない、そんな人じゃないはずだと言い訳をする。それが言い訳にすぎないことに気づくと、更に罪悪感は強くなった。
一日のどこかでそんな思いはふいにやって来て、寧々の顔をまともに見れなくなった。
きっとずっと柚香はこの、寧々から逃げたくなるような気持ちを抱え続けることになる。
いくら心の距離が近くなっても、柚香と寧々の間には、当事者にしか見えない壁があった。それは祖母まで巻き込んで、少し前まではそこにあった、心休まる家族の姿がなくなってしまった。
この中の誰もが原因を作ったわけではないというのに。
すっきり収まった形のようでいて、歪な形のまま収まっている。これがずっと続くのは辛った。
しかしまだ十六歳の柚香に、この状況を打開できる方法など、欠片も思い浮かぶことができない。