7
寧々が保育園へ通うことになった。
事情が事情なので、特例として受け入れてもらえたらしい。運がよかったと祖母は安堵していた。
朝は八時からなので祖母が送って行く。しかし迎えは五時だ。店が六時までの彼女は迎えに行けない。よって柚香が行かなければいけなくなった。
手芸部という少数の弛い文化部に入っていた柚香は、週に二回の部活動でさえ早退する羽目になってしまった。特段、部活に精を出していたわけではないが、活動よりもおしゃべりに夢中になって帰りが遅くなるということができなくなってしまったのは気落ちした。
高校は自転車通学で保育園の反対方向にあるため、一度家に帰ってから徒歩で迎えに行く。保育園が近かったのはよかった。
この日は着替える時間がなくて、制服のまま迎えに来た柚香に、他の園児の母親が笑顔で声を掛ける。
「あら、柚ちゃん、お疲れ様。学校忙しいの?」
「こんにちは。そんなことないですよ」
母親たちの輪の中へ入って行くことには抵抗があるので、柚香はそそくさと玄関へ向かう。
「ゆずちゃーん!」
待ち構えていた寧々が突進してきた。抱きついてから両手を伸ばしてくるので仕方なく柚香は抱き上げた。
「あら、お姉ちゃんが来たのね。よかったわね、寧々ちゃん」
保育園の先生がにこにこと笑いながら寧々と目線を合わせて言った。寧々はこくんと頷く。
「寧々ちゃん、段々と打ち解けてきましたよ。最初のころはほとんどしゃべりませんでしたけど、今は遊んでいる時なら普通にしゃべってくれるようになりました」
先生は寧々が入園したばかりだからか、園内での様子を特に細かく教えてくれる。
元気のいい男の子を怖がってしまうとか、どんな遊び、どんなおやつが好きだとか。柚香はいつも返答に困ってしまう。心配していないわけではないが、何せまだ一緒に住みはじめたばかりの柚香よりも、保育のプロである先生と過ごしている方が確実に安全と言えるのだから。
それでも寧々は数日分だけ慣れている柚香が迎えに来るのを、毎日待ちわびているから、困惑しながらも少しほっとしてしまう。
「ではまた明日」
「せんせーさよーならー」
抱っこされたまま寧々は先生に手を振る。
他の園児や母親たちとも挨拶しつつ保育園を出ると、柚香はさりげなく寧々を下ろそうとした。ところがそれを察知した寧々に両手足でがっしりとしがみつかれてしまう。
「寧々、歩いてよ……」
「やだー」
予想通りの反応が返ってくる。保育園の帰りはだいたい、いつも以上に甘えてくるのだ。慣れない人と長時間一緒に居なければいけないのだから、それもわかるのだが、こちらにも抱っこできない事情というものがあるのだ。
柚香はそれほど体力があるほうではない。四歳児というのは柚香が思っていた以上に重く、この重さをずっと抱きかかえていられる世のお母さん方を尊敬した。
今日は特に帰ってからもやることが多いので、体力を温存しておきたい。
「ダメ、降りて。歩けるでしょう。柚ちゃんは疲れているからできないの」
無理やり地面に近づけると、不満そうにいかにも渋々という態度で、寧々は地面に足をつけた。
手のひらを差し伸べると、小さな手がぎゅっと握ってくる。
「今日の夜はおばあちゃんがいないからね。ご飯は何がいい?」
「いちご……」
「苺は今の季節は売ってないよ。あとおやつじゃなくてご飯ね」
「えぇー」
ますます不満そうな顔をした寧々に苦笑が漏れる。
「パスタにしようか。それともポトフがいいかな」
「ハンバーグがいい」
「え……」
さりげなく手間の掛からないものを選んで言っていた柚香の顔が引きつった。もちろん料理の手間暇のことなど知るよしもない寧々は、聞かれたことに素直に答えただけなので、聞き入れてもらえると確信していそうな顔で柚香を見つめていた。
「わかった。ハンバーグね……」
なぜ質問などしてしまったのかと思いながら、ここで拒否するのは無責任な父親を思い起こすので踏み止まった。柚香はあんな大人にだけはならないと心に誓っている。これからは簡単にご飯は何がいいかなんて聞くのはやめよう。一つ学習した。
「きょうねぇ、つみきしたの。ねねちゃんおようふくやさんとおはなやさんとパンやさんとーあとねーえぇとおにくやさんつくったの」
「それ商店街ってこと?」
「うん、しょーてんがい」
ちゃんと理解しているのか怪しい口振りで寧々が繰り返す。
「でもねぇりょーくんがずるいって言うんだよ。りょーくんのほうがずるいのに。いっつもすきなことばっかしてるのに。ねねちゃんずるくないもん」
「え、喧嘩したの?」
言っていることはいまいちわからないが、男の子に難癖つけられたのだろうかと心配になった。
「してない。りょーくんとはおはなししたくないもん。ねねちゃんおえかきにした」
声が段々と小さくなっていく。つまり尻尾を巻いて逃げたということか。そういえば元気のいい男の子を怖がると先生が言っていたが、あれは湾曲な表現であってつまり乱暴な男の子ということなのだろう。
「ねねちゃんずるくないもん……」
そこに拘るように寧々は繰り返した。
「そうだね。寧々はずるくないよ。でも一緒に遊べばよかったんじゃないかな」
いつまでも怖がっているよりも仲良くなったほうがいい。四歳児の乱暴さなんて可愛いものだろうと思って柚香は言ったが、寧々は不満そうに口を閉ざしてしまった。
どうやら寧々にとってはもっと深刻な問題で、柚香は言葉を間違えたらしい。
なら何を言えばよかったのかと悩んでみてもわからない。こんな時に母親がいれば、口を閉ざさせることなどないのかもしれないと、時々考える。
どこからともなく子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。顔を上げるとよく遊びに来る公園の前まで来ていて、そこで四人ぐらいの寧々よりも少し年上の子供たちが歓声を上げながら走り回っていた。
横目で眺めながら通りすぎようとした時、寧々が口を開いた。
「ねねちゃん、こうえんであそぶ」
「え?」
「こうえんいこう」
繋いでいた手を引っ張って、寧々は柚香を公園へ連れて行こうとする。
「ちょっと待って、今日はダメだよ」
柚香は慌てて止める。
「どして?」
「今日は早く帰らなきゃいけないの。おばあちゃんが商店街の集会に行くからご飯作らなきゃいけないし、もうすぐ文化祭だから部活での出し物作らなきゃいけないし」
こんなことを言っても寧々には理解できないが、説明もなく駄目だと言うよりはまだ納得してくれるのだ。
文化祭が近いせいで、一年のうちで唯一手芸部が忙しい時期になっていて、柚香だってその出し物を作らなくてはいけないし、それを楽しんでもいる。部活時間内にあまりできない分、家でどうにか時間を作ってやっている状態だ。それに課題だってある。
「やだ、あそぶー!」
寧々が駄々をこね始めた。やはり説明が悪かったのか、それとも機嫌の問題なのか。
「今日は本当に無理なの。それじゃあ、ハンバーグやめる? パスタにするならちょこっとだけ遊んでいいよ」
「やだ、ハンバーグがいい!」
考えてもいなさそうな間で拒絶が返ってくる。完全に駄々っ子モードになってしまった。こうなっては説得などまるで意味がなくなるのだと、短い間で柚香は学ばさせられている。
「あそぶのー! やだ、かえらないー!」
寧々はどうにか柚香の手を振りほどこうとしながら叫ぶ。もう大人しくさせるには言うことを聞いてやるしかないのだが、無理なものは無理だ。
甲高い声の我が儘を聞いていると、柚香の心に小さな波が立った。
「ダメって言ってるでしょ!」
思わずきつく叱りつけると、寧々の体がびくりと震えて大きな瞳が潤む。
「ふ……うぇぇぇ」
ぽろぽろと涙を溢した。柚香は寧々の涙に弱かった。しかし今は精神的な疲れもあって、慌てるよりもやるせなくなった。
いくら柚香が寧々のための我慢をしていても、そんなことは寧々にはわからないのだ。保育園に迎えに行くのを毎日しなくてはいけないことも、家事が幼児一人増えるだけでかなり多くなることも、寧々にとってはやってもらって当たり前であり、感謝するようなことではない。
親でもないのに、どうしてここまで自分の時間を潰さなくてはいけないのだろうという思いは、ふとした瞬間に出てくる。こんな、疲れている時に我が儘を言われた場合は特に。
柚香は泣いて動かない寧々を抱き上げた。腕の中で暴れているが、そのまま帰り道を歩く。この公園で酷い泣かせかたをして以来、柚香は寧々に甘くなってしまっていたが、甘やかすばかりなのもよくない。たまには怒らなければいけないし、それが今であっておかしいことはないはずだ。
「泣かないの」
それでも柚香はなるべく優しい声を出して、ぽんぽんと背中を叩いた。
諦めたのか寧々の泣き声が小さくなっていく。
「ゆず、ちゃん……」
喉を詰まらせながら耳元で呟いた。
「ねぇ、ママは?」
柚香は足を止めそうになった。胸がぎゅっと締めつけられる。
この言葉を、寧々が言わなくなっていく、ということはなかった。
柚香や祖母のことを受け入れてはいても、寧々はずっと母親を探している。それも楽しくて仕方がない時や、不安で仕方がない時に必ず同じセリフで聞くのだ。
祖母はいつも困惑したような哀れむような顔で、ここにはいないと言った。「もういない」と言うことで寧々に現実を突きつけるのを恐れるように。そうして寧々が現実を理解していないことに同情する。幼いからわからないと決めつけるのだ。
でも柚香はそうは思えなかった。きっと寧々がこの言葉を繰り返すのは、理解していないからではない。
寧々は幼いからこそ、人の感情を心の形そのままに受け止めることができる。祖母の表情や空気、そしてずっと母親がいないという事実。たとえ明確な言葉で説明はできなくとも、それらが意味するところを感じ取っているはずだ。
寧々は母親が亡くなったことを理解していないのではない。納得できないのだ。
ある日突然、母親ともう会えないのだと言われても、そんなことを受け入れられるわけがない。事実に抗うように何度も母がどこにいるのかと尋ねる寧々の気持ちが、柚香には痛いほどに理解できた。もし、あの頃の柚香がもっと幼かったなら、寧々と同じように、誰かに尋ね続けていただろう。
だから柚香は祖母と同じことを言いたくはなかった。
「ママは寧々のすぐ近くにいるよ」
寧々が驚いたように顔を上げた。大きな目を更に見開いてから、きょろきょろと辺りを見回す。
「どこ? どこにいるの?」
「近くにいるけど、寧々には見えないんだよ」
途端に寧々はくしゃりと顔を歪めた。
「どして?」
「どうしてか柚ちゃんにはわからない。でも大丈夫だよ。ママにはね、寧々がちゃんと見えているから」
寧々は真剣な表情になった。一生懸命、柚香の言葉を理解しようとしているようだった。
「寧々には見えなくても、ママにはちゃんと見えているから、寧々が元気ないなぁ、泣いちゃって悲しいな、って心配しているよ、きっと。ママはちゃんと近くにいて、寧々を見守っているの。だから大丈夫なんだよ」
理解できるだろうかと不安になりながら寧々の顔を覗き込むと、寧々はどちらとも取れない、不思議そうな表情をしていた。
「……ほんとに?」
「うん、ほんとだよ」
「……ふーん」
どう捉えたかわからない返事をして、寧々は大人しくなった。
子供騙しだと言われるかもしれないような説明だ。でもこれが寧々にとっては必要なことで、少しでも安心できたらいいと思う。四年前の柚香が、誰かに言ってほしかったことだから。
降ろすタイミングを失って、抱き上げたまま寧々の体重が重くなったような気がした。
見れば寧々は目を閉じて寝息を立てている。温かな体温が心地よくて、いつの間にか余裕のなかった心が凪いでいる。
しょうがないな、と柚香は苦笑した。
柚香には長い間寧々を抱き上げていられる体力などないというのに、こんな所で寝られるなんて。
家まで保つだろうかと不安になりながら、手離すわけにはいかない重みに、柚香はそっと力を込めた。