5
翌日の日曜日、朝食を済ませた柚香は寧々を連れて外に出た。
祖母の目の届かない場所で四歳の子供の面倒を見ることに不安はあったものの、昨日もずっと遊び道具の少ない家に閉じ込められていた寧々が外に出たがったのだ。
柚香は近場の公園くらいなら問題ないだろうという祖母の言葉を信じた。しつこいくらいに何度も、目だけは離さないようにと言い聞かせられたが。
祖母のブティックはちょうど商店街の真ん中くらいにある。なので公園へ行くのにも知り合いである店主たちが店先に立っている、という状況の中を歩いて行かなくてはいけない。
それにとてつもない抵抗を感じたが、ずっと避けて通れる道でもないから、柚香はこの苦行をさっさと終わらせることにした。一度経験してしまえば、後はもう何とでもなるはずだ。
商店街の住民に対する寧々の説明を、祖母は柚香が心配していたような形ではしていなかったので、この抵抗は乗り越えられない程ではない。祖母は昨日、夕食を食べに行く途中、寧々のことを事情があってうちで暮らすことになった子供とだけ言っていた。
それを聞いた相手は小さな子供に不幸なことがあったのだと察して、誰も深くは聞き出そうとはしてこなかった。だから柚香も知り合いに寧々を連れていることについて尋ねられても、同じように対応すればいいだけだ。
「おはなー」
隣を歩く寧々が接骨院の前のコスモスのプランターを指差して言った。
「そうだね。お花だね」
「きいろー」
「そうだね。黄色だね」
四歳児との会話のたねが何も思い浮かばない柚香は、ただ相槌を打つしかできない。
「あっ、おはないっぱい!」
「そうだね。ここはお花屋さんだからね」
「……ふーん」
柚香から感情のあまり籠っていない平坦な返事しか返って来ないからなのか、寧々の声もつまらなさそうなものになっていった。
これではいけないような気もするが、やはりどうすればいいのかわからない。
「あら、おはよう、柚ちゃん。二人でお散歩?」
運良くなのか、悪くなのか、ちょうど店先に出てきた花屋の奥さんに話しかけられた。
「おはようございます。公園にでも行こうかと思って」
「あら、よかったわね、寧々ちゃん。お姉ちゃんと遊んでもらえて」
屈み込んで寧々に話しかけた彼女の言葉に、柚香はぎくりと体を強ばらせた。しかしその呼び掛けに意味などないはずだと思い直す。ただ寧々よりも年上だから、柚香がお姉ちゃん、それだけのことだ。
気楽な明るさで笑っている彼女が、詳細な事情など知りはしないだろう。
「そうだ、ちょうどよかった。康子さんに話そうと思っていたんだけど、柚ちゃんでもいいわね。うち、下の子ももう小学校へ上がったでしょう。だから使わなくなった玩具とか結構あるのよ。下の子は年が離れているし、周りにあげられる子もいなくてどうしようかと思ってたの。寧々ちゃんが使ってくれないかしら。同じ女の子だし、まだキレイなものだってあるのよ」
「それは……」
柚香は返事に困った。
いくらもう使わないものだからといって、人様から気軽に物を貰うわけにはいかない。だがこの提案はとてもありがたいものだった。寧々は元からなのか、あの家に来る前に処分してしまったのかはわからないが、あまり玩具を持っていないのだ。
祖母は今の子供にどんなものを買えばいいかわからないと困っていたが、柚香だって四歳児の流行なんてわからない。
「引き取ってくれるとこっちも助かるのよ」
気安く言ってくれる彼女の言葉は本当だろう。商店街の人たちは皆が客商売をしているからか、親しみやすくはあるものの、押し付けがましくない。
「ありがとうございます。おばあちゃんに一度聞いてみます」
「そうね。でも本当にいらないものだから、気にせずもらってちょうだいね。使わなかったら捨ててくれればいいし」
「はい。ありがとうございます」
「そうだ。公園に行くのよね。ちょっと待っててちょうだい」
彼女は店に引っ込んで奥の階段を上がっていった。
邪魔にならないように柚香が店の隅に寄ろうとすると、寧々が興味深そうにガーベラに手を伸ばそうとしていた。
「寧々、触っちゃダメ」
慌てて手を引くと、なぜ怒られたのかがわからないのか、寧々は不思議そうな顔をして見上げてくる。
「売り物なんだから触っちゃダメ。うちのベランダにあるお花とは違うのよ」
やっぱりわからないのか、首を傾げる。
「ここのお花は触っちゃダメ」
「はぁい」
素直な返事が返ってくる。ようやく理解してくれた。子供と会話をするというのは、思ったよりも大変なのかもしれないと今更ながらに思う。
「おまたせ。これ持っていってちょうだい」
声がしてから姿を現した花屋の奥さんが持っていたのは、テニスボールに似たものと、マジックテープがついた平たい円盤状のグローブのようなものだった。
見たことはある。ラケットでボールを打ち返すのではなくて、ただマジックテープでキャッチすればいいだけのごく簡単なボール遊びの玩具だ。これなら小さな子供でも遊べる。
「うちの子はもうラケットじゃないとつまらないと言っているけど、寧々ちゃんにはちょうどいいんじゃない? 小さな公園でも遊べるわよ」
「えっと、借りていいんですか?」
「ええ、気に入ったらそのまま持って帰っていいわよ」
それから彼女は柚香に顔を近づけてこっそりと囁いた。
「こういうものがないと子供と遊ぶのも大変よ。結構飽きっぽいんだから」
「……そうですね」
柚香はありがたく受け取りながら、少し恥ずかしくなっていた。
きっと彼女には柚香と寧々の距離感がしっかり見えていたのだろう。公園という遊技場へ行ったところで、柚香がちゃんと寧々と遊べるのだろうかと心配したのではないかと思えた。
「あら、寧々ちゃんその上着可愛いわね。うさぎさんなのね」
花屋の奥さんは柚香と話していた時とは声のトーンを変えて、大げさな口調で寧々に向かって言った。
「うん、うささんなの。かわいいのー」
つまらなそうにゆらゆらと体を揺らしていた寧々の顔がパッと明るくなって、嬉しそうにくねくねと踊る。
「そのお帽子被ってみせてちょうだい。あら、似合うわねぇ。本当に可愛いわ」
「えへへー。あのね、ママね、うささんとねね好きなんだよ。いっつもかわいーって言うの」
得意気に話す寧々の言葉に、柚香は心臓がシンと冷えたような気がした。
「あら、ママのお気に入りなのね。いいわね」
「うん!」
ご機嫌に笑う寧々は、道行く人を微笑ませるくらいに可愛らしい。
「ありがとうございます。ではもう行きますね」
仕事の邪魔になることを気にするふりをして、柚香はこの場を離れようとした。
「ええ、今度うちの子たちとも遊んであげてね」
気遣いに溢れた声に送られて柚香と寧々は商店街を出た。
路地裏を歩いて十分もしないうちに公園に到着する。砂場と滑り台がついたジャングルジムと鉄棒しかない小さな公園は、小学校に上がったばかりに見える少年が二人で遊んでいるだけだった。
彼らと離れた砂場へ行くと、柚香は寧々を立ち止まらせて、屈んで目を合わせた。
顔を強張らせている柚香に、機嫌のよかった寧々が戸惑う。
「寧々、これからはもうママの話はしちゃダメ」
厳しい声で言うと、目を丸くした寧々が不安そうに眉を下げた。
「どして?」
「どうしてもだよ。ママのことは話しちゃダメなの。言うこと聞かないなら遊ばないからね」
腕を掴んで脅すように叱る柚香は、何かに追い立てられているような、そんな気持ちだった。
家の事情を人に知られたくないというのはあった。しかし何よりも、自分が寧々から母親の話を聞いてしまうのが、とてつもなく嫌だった。
寧々にとって母親が良い母親だったというのは、もう充分にわかっている。
だから嫌なのだ。
寧々のことはもう拒絶しない。一緒に生活することも、もう仕方がないと諦めている。でも母親のことは絶対に受け入れられないのだ。さっきの、花屋の奥さんのように、寧々が母親に褒められたことを「いいわね」なんて言えない。それだけは柚香にとって譲れない一線だった。
もう既にいろんなことを譲った。一緒に暮らすことも、面倒を見ることも。柚香は亡くなった母が知れば傷つくであろうことを、受け入れさせられたのだ。
だからこれくらいの要求をしたっていいはずだ。柚香だけが我慢させられるなんておかしいのだから。たったこれだけの要求、いいはずだろう。
しかし寧々は口をへの字に曲げて泣きそうな顔で首を振った。
「やだ。どして?」
「どうしても!」
「やだ!」
「寧々!」
叱咤する柚香に寧々はびくりと体を震わせたが、引かなかった。
「やだ、ゆずちゃんもうしらない!」
大声で叫ぶと背を向けて走り出してしまう。公園を囲っている生垣の間をすり抜けて、フェンスと木の間に体を挟み込んで踞った。
我を通す寧々に、柚香は苛立ちを覚えた。なぜ小さいからといって、何でもこの子に合わせなければいけないのだろう。
この子が笑顔で母親の話をする度に、胸が苦しくなるのに。あなたの母親は本当は酷い人間なんだって言いたくなってしまうのに。そんなのお互いにいいことじゃない。だから話をするなと言っただけ。それくらい聞いてくれたっていいじゃないの。
柚香はゆっくりと寧々に近づいた。隠れているつもりなのかもしれないが、葉っぱの間からしっかりとうさぎのパーカーが見えている。
また駄々をこねているだけだと思った。初めのうちこそ大人しかった寧々だが、既にもう、四歳児らしく我が儘を言って、祖母を困らせている姿は見たことがある。歯ブラシの色が気に入らないとかそんな理由でだ。
だから今回もそれと同じなのだと思ってしまった。
譲らないつもりで柚香は声をかけようとした。だが泣き声が耳に届いて動きを止める。
初日に聞いた静かな嗚咽よりも、もっと悲しい、何かに見放されたような、訴えるためではなく、他にどうしようもないから泣いている、そんな苦しい声だった。
あまりにも感情が顕になった泣き声に衝撃を受けて、柚香は固まった。
ここまで自分の言葉が人を傷つけているのを目の当たりにしたのは初めてだった。
どうして。泣きたいのはこっちのほう。
そう思いながらも柚香は寧々が泣いた理由が、もうわかっていた。
もし柚香が、母親の話は今後するなと、身近な人に言われたら。
そんなの柚香だって辛い。母親が大切でもう会えないのなら尚更だ。本当にいない人のような扱いなんてされたくない。ちょっと考えればわかることだった。
柚香はこれ以上何も耐えたくなかった。でも寧々がまだ四歳で、世界の大部分が母親で埋められている時期に、その大きくて大切な存在を亡くしてしまったのだと、そんな当たり前なことに気がついた。
まだたったの四歳だったのだ、この子は。丸まった体は柚香の半分もないくらいに小さい。
「……寧々」
呼び掛けると寧々はぎゅっと体を縮ませた。
「寧々、ごめん。……もう言わないから。ママの話したっていいから」
背中を撫でると寧々は顔を上げないまま、短い腕を振って払おうとする。
「ごめんね……」
もう母親のことを言われたってちゃんと聞くから。たとえ「いいわね」なんて言えなくても、ちゃんと聞く。
「ごめんね」
いつの間にか声に涙が滲んでいた。色々なことが悲しかった。何が悲しくて、何がそうでないのかわからないくらいに。胸の中に降り積もっていく。
気がつくと、寧々が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
しばらく二人とも微動だにせず見つめ合った。この子はもしかしたら、柚香の感情を、柚香が思っている以上に感じ取っているのかもしれない。
佐和が言っていた。
ーー子供はわかるんだね。
誰が傷ついているのか。
柚香は借りた玩具のボールを差し出す。
「遊ぼう?」
寧々は黙ってこくりと頷いた。
手を引いて生垣の中から連れ出すと、素直に付いてくる。
マジックテープのついたグローブを寧々の手に嵌めて、ボールをくっつけて遊び方を教えると真面目に聞いていた。
手が届きそうなくらい近くからぎこちなく投げた柚香のボールが、寧々のグローブにきちんとキャッチされる。寧々の瞳が少しだけ輝いたような気がした。
それを何度も繰り返して、段々と距離を開けて、寧々にも投げさせてみる。
上手だと褒めると、寧々は笑顔で歓声を上げた。