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レジ横の作業テーブルでふて寝したり、手軽そうな小説を買って読んだりしていたが、夕方になって佐和からそろそろ帰れと店を追い出された。
まだ家に帰らなければいけない時間というわけではない。
しかし店を開けているはずの祖母が、どんな風に寧々の面倒を見ているのか気になった。昨日は寧々のために必要なものを買い出しに行っていたから店は休んでいて、これ以上は閉めておけないと言っていなかっただろうか。
柚香は一昨日から祖母とほとんど口を聞いていないので、話し掛けてくる内容もあまり聞いていなかった。
佐和に言われたことが頭から離れなくなっている。
距離を取っていればいいと思ったのに、それすら罪悪感が湧いてしまう。
とにかく自宅の店の前で様子を窺おうとした。そんなことをしても何もわからないだろうと思いながらも、足は勝手に家へ向かう。
ベージュのレンガ模様のパン屋を通り過ぎて、祖母のブティックまであと六軒。そこで柚香はおかしいと思った。
いつも開店時は店からはみ出ている、洋服をたくさん吊り下げたハンガーラックが見当たらない。周囲には商品が通路まで侵入している店が他にないせいで、遠くからでも目立つはずなのに。
まさかと思い近づいてみると、やはりシャッターが閉まっていた。
また何かあったのだろうか。祖母のブティックの客はほとんどが近隣住民で顔見知りが多く、更に店の奥と居間が繋がっているので、子供の面倒を見ながら店番をすることも難しくないはずだ。柚香にもそうされた経験があるのでわかる。
不安に駆られて柚香は裏手に回り、玄関の扉を引いた。
祖母の靴を確認してから居間へ行く。
そこにはなぜか寧々だけがいた。
「おばあちゃん?」
見回してみるがやはりいない。寧々はつまらなさそうな顔で椅子の上にしゃがみこんでいたが、柚香と目が合うとぱっと立ち上がった。背もたれ越しに手を伸ばしてくる。
「ゆずちゃ……」
「危ない!」
寧々が乗っていたのは軽い椅子だった。四歳児といえど背もたれに体重をかければ当然傾く。
スローモーションのようにゆっくりと倒れていく椅子の下に、柚香は考えるよりも先に回り込んでいた。
椅子を支えようとしたが、咄嗟には力が入らない。柚香は体で椅子ごと寧々を受け止めていた。
「イタ……」
膝を思いきり打ってしまった。だが幸い寧々は転がり落ちることなく、柚香の腕の中にいる。怪我はしていないだろう。ホッとした。あのまま倒れていたら頭を強く打っていたかもしれない。
寧々は大きな瞳を零れ落ちそうなくらいに見開いて固まっていたかと思うと、くしゃりと顔を歪ませた。
「ふっ……ぁあああん!」
間近で大声で泣かれた柚香はびっくりした。それまで静かに泣いている寧々の姿しか見ていなかったせいで慌てふためく。
「えっ、どっか打ったの!?」
立ち上がらせて全身に目を走らせる。しかしやはりどこも怪我などなさそうだし、痛がっている様子もない。驚いただけだろうか。
「どうしたの!」
階段を駆け下りる音がして、祖母が姿を現した。床に座り込んでいる柚香と泣いている寧々、倒れた椅子を見て目を丸くする。
「……椅子が倒れたんだよ」
何も悪いことなどしていないのに、柚香は憮然として答えた。自分が泣かせたわけじゃないと言いたかったが口にはしなかった。
「ああ、ごめんね。一人にして」
祖母はそんな疑いなど持たなかったのか、泣いている寧々を抱き寄せた。その表情が少しーーいや大分疲れているように見えた。
「何してたの?」
そんなつもりはなかったが批難混じりの口調になってしまう。
「洗濯物を取り込んでいたのよ。少しの間なら大丈夫かと思って。二階に一緒に連れて行くほうが危なそうだったし」
「危ないって何が」
「この家、階段が少し急でしょう? 落ちたら大変なことになるじゃない」
「そうだけど……後ろから付いて上がったらいいじゃない」
毎回そうしていたんじゃなかったのか。それよりも一人で居間に残すほうが、実際に危なかったんだけど。そんな思いを込めて言うと、祖母は首を振った。
「二階でじっとしてくれなさそうだったのよ。今日一日何度も大人しくしているようにって言ったせいか不満が溜まっているみたいで。昨日まではとても大人しかったのに、やっぱりこの家に少し慣れたせいなのかしら。家の中をあちこち探検しようとするのよ」
柚香は思わず寧々を見た。
元々の性質でかなり大人しい子なのだと思っていたが、どうやら知らない場所にいきなり連れて来られたせいで緊張していただけらしい。しかし二日で慣れるとは、子供というのは順応性が高い。
「店を閉めてたのは……」
「さっき閉めたのよ。店の中を走り回るし、おばあちゃんももう歳だから、捕まえるのも大変なのよ」
大きな溜め息を吐いた祖母は生気を吸いとられたかのようにくたびれていた。常に仕事に家事にと動き回っている印象があるが、それと幼い子供の相手をするのは別なのだろうか。
「やっぱり何時間も大人しくしているなんて無理よね」
泣き止んできた寧々を見ながら、祖母は独り言のように呟いた。柚香の肩がピクリと強張る。
「……わたしはしてたよ」
予防線を張る柚香に、祖母は微かに笑った。
「そんなことないわよ。柚もじっとなんかしていなかった。おばあちゃんもあの頃はまだ若かったし、それに遊びに来た時の一日か二日くらいでしょう。寧々を土日の度にこんな窮屈な思いにさせるのは可哀想よ。平日は保育園に行かせるからいいとしても」
無理なら引き取るのなんかやめればいいじゃない。そんな言葉が頭に浮かんだが、既に誰からも拒絶されているかもしれない子にそれを言うほど、柚香は非情にはなれなかった。
「柚、せめて土日のどちらかだけでもいいから寧々を見ていてあげて。四歳だとまだ家の中でも目を離せないみたいだし、おばあちゃんはお店をやめるわけにはいかないし」
思った通り、祖母は柚香に寧々の相手をしろと言う。
「やめるわけにはいかないって何で。あの人そんなに収入少ないの?」
いいとも嫌だとも言えず、苦しい抵抗をする。
「そうではないけど、お父さん一人の収入に頼るのは不安なのよ。何かあった時のために」
「まだ何かあるの?!」
父がこれからまだ何かをやらかすかのような言い方に、柚香は声を荒げた。祖母は慌てて首を振る。
「違うわよ。何もないけれど、これからずっとないとは限らないでしょう」
つまり祖母は父のことを全く信用できなくなってしまったということか。それについては柚香も同意見だ。あの人に責任感など欠片も期待してはいけない。
生活の全てを父に頼らなくてはいけない状況というのも気に食わない。祖母が店をやめてしまうのは、柚香にとっても痛手だった。
しかしそれは柚香が寧々の面倒を見なくてはいけないということに繋がる。究極の選択だ。
「まだ四歳なのよ。いつ怪我をするかわからないってわかったでしょう? どの道おばあちゃんだけじゃあ寧々の面倒は見きれないのよ」
柚香は俯いて唇を噛んだ。
どうなってもいい。放っておけばいいなんて、言えるわけもない。柚香の胸の中にある母の存在や、父への憤りや、そういったものと天秤にかけるのが不自然なくらい、祖母にしがみついて涙で顔を濡らしている寧々は、誰かの手を必要としている小さな子供だった。抱き止めた時の体温は、ここにはいない二人とは比べものにならないくらいの存在感を持っていた。
「柚、日曜だけでいいから」
重ねて懇願された柚香は押し切られるように小さく頷いてしまった。
仕方がない。あんな父に頼りきって生活することに比べれば、まだ寧々の面倒を見ることのほうがマシなはずだ、きっと。
自分を納得させるための言い訳を用意して、柚香はそれ以上のことを考えるのをやめた。
祖母は肩の荷が降りたように力を抜く。
「よかったね、寧々。明日はお姉ちゃんが遊んでくれるって」
「……お姉ちゃんって言わないで」
そんなことまで許容していないと弱々しく反抗する。寧々はよくわかっていないような顔を柚香に向けていた。
「じゃあ、今日は疲れてしまったし、お外でご飯食べましょうか。寧々、何が食べたい?」
「ごはん?」
「そうよ。何が食べたい?」
今までは柚香の希望ばかりを聞いてくれていた祖母が、寧々に真っ先に尋ねた。そんな二人を見て、柚香は自分だけが薄い壁を隔てた向こう側にいるような気分になる。
「ぱん!」
「あら、寧々はパンが好きねぇ。でも夕飯だから……いえ、パスタ屋さんならパンがあるわね。そこにしましょうか。柚も好きだものね」
「ねねもパスタすきだよ! いちばんはね、ぱんなの。にばんめーじゃなくて、うーん、じゅうにばんめくらいかなー」
急にませた言い方をした寧々に祖母が吹き出した。
「そう、十二番目に好きなのね」
「うん」
さっきまで泣いていたことなど忘れたのか、寧々はご機嫌に頷いた。
「じゃあ、もう出掛けましょうか。ちょっと早いけど川口の工具屋さんのところに寄らなきゃいけないし。今度、階段の前に柵を作ってもらわなきゃね」
「柵……」
あまりに予想外な単語に柚香は少しぎょっとした。
犬じゃないんだからと思ったが、他に良い対策があるのかと問われても何もない。それが普通のことなのかもしれなかった。
「おでかけ? ポシェットいる? うささんいる?」
「そうね。寒いかもしれないからうささんもいるわね。寧々、自分で持って来れる?」
「できるよ!」
寧々は居間の隅に置いている収納棚からポシェットと上着を取り出してきた。うささんと寒いことに何の関係があるのかと思っていたが、祖母に手渡して着させられた上着はパーカーになっていて、そこにうさぎの耳がついていた。
寧々にとても似合っている。
「じゃあ、行きましょうか」
「はーい」
余程外へ出たかったのか、寧々は玄関まで走って行くと、自分で靴を拾い上げて履き出した。後を追う祖母の後ろを、柚香も黙って付いていく。
隣に座った祖母を、ふと気がついたというように寧々が見上げた。
「ねぇ、ママは?」
祖母の体がピタリと止まった。上辺だけでも穏やかだった空気が霧散した。
困惑と哀れみの混ざった眼差しが、無邪気な寧々に向けられた。
「ここにはいないのよ」
悲しげながらもさらりと答えた祖母に、柚香はこの質問が二度目ですらないことをさとった。
「……ふぅん」
納得したのかしていないのかわからない返事をして、寧々はもう片方の靴を拾う。
「……可哀想に。まだ理解していないのね。こんなに小さいもの」
声を落として呟いた祖母は、恐らく柚香にだけ向けて言っていた。