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 築三十年は優に越えた木造の店舗兼家屋が並ぶ商店街が、四年前から柚香の家になった。

 それまでは正月の挨拶と、夏休みの五日間を過ごすために訪れる「おばあちゃんの家」だった。創業時から何一つ変わっていなさそうな古びた八百屋や、流行りのスイーツを看板に手書きしている小洒落たカフェや、灰色の錆び付いたシャッター。それらが入り交じり歩行者と自転車だけを受け入れているアーケード。このやんわりと閉ざされた空間に家があるというのは、幼い頃の柚香には特別なことのように思えた。

 その感覚はそれが帰る家となってからもあまり変わらなかった。柚香は祖母の家が好きだった。


 ただそう思うことに罪悪感を抱くこともある。

 母と暮らしていた家は、中学生の柚香がほとんど一人で過ごすことになるからと、亡くなってすぐに売り払ってしまった。引っ越したばかりだったからそのことに抵抗はなかったが、母ではなく祖母のいる家にまっすぐ帰るというだけの行為が、いなくなったことを簡単に受け入れているみたいで、薄情なのではないかという疑惑が胸の中で燻っていた。

 優しい祖母が見事なまでに母の代わりをしてくれたからこそ、素直に感謝できずに、理由もなく帰宅時間を少しだけ遅くしていた。


 商店街の中にある古本屋に足を踏み入れたのも、そもそものきっかけはまっすぐに帰らないための時間つぶしだった。

 商店の中でも特に古めかしい雰囲気を醸し出して、店というよりも書庫のような佇まいの古本屋は、ずっと昔からあったはずなのだが、柚香がその店の存在をはっきり認識できたのは、祖母の家に移り住んで半年程経ってからだった。

 幼い頃には全く興味が持てなかったものが、成長するにつれて魅力的に見えてくる。そんな心境の変化が原因なのだろう。

 飾り気のない外観や店内、背表紙に金属活字でタイトルを印字され、紙焼けして黄褐色になった書物がぎっしりと並んでいれば、そこだけ時代から取り残されたような印象を受けた。

 あの中にいれば、孤独を感じずに一人になれそうだった。

 だがそんな店に実際に柚香が買いたいと思える本があるとも思えない。しばらくは外から様子を窺っていたのだが、よくよく見れば、店内にある本の全ての初版発行日が昭和以前で記されているわけではなさそうだった。二割程は新作を含めた一般向けの小説や漫画や写真集や実用書などが置かれている。

 なんだ。漫画もあるんだ。

 柚香は安心してガラスの引き戸を開けた。

 その日からその古本屋は柚香の駆け込み寺となったのだった。

 今も店の奥にあるカウンターの隅で、他に客がいないのをいいことに、柚香は椅子に座ってテーブルに顔を突っ伏している。


「どうしたの、柚香」


 隣にいる店主が読んでいる小説から目を離さずに尋ねた。

 長い黒髪を一つに括って前に垂らし、楕円形の縁なし眼鏡を掛けた化粧気のない彼女が、いつもと変わらぬ様子であることに柚香はほっとしていた。

 昨日も学校をサボってここへ来た。その時に柚香はもう父の不倫と妹だという寧々のことを話している。何があっても泰然と、静かに本を読んでいそうな彼女にだけは話せた。大袈裟に同情も叱責もしない人に、ただ話を聞いてほしかったのだ。

 だから彼女は柚香が店に駆け込んで、顔を覆い隠して周囲を遮断しようとしている理由にも、見当ぐらいはついている。それでも心配も動揺もせずに、どうしたのかとだけ聞いてくれるから、柚香は荒れ狂っている頭の中が徐々に凪いでいった。


「あの子がお絵描きしようって言ったの」


 身動きしないまま柚香はくぐもった声で答えた。

 土曜日の今日、柚香は予定がなく、朝食を食べたらどこでもいいから出掛けようと考えていた。祖母は店があるから、下手をすればずっと寧々の面倒を見させられるかもしれない。まだまともな会話もしていない、その子のことを拒絶している高校生に四歳児の面倒を見させるわけがないのだが、柚香は二人きりになることを恐れていた。

 しかし極力避けていたというのに、皿洗いをしていた柚香に寧々がそろそろと近づいて、話し掛けてきたのだ。


「無視しているのに、また同じこと言って服を引っ張るから、しないって怒ったの。そしたらすごくびっくりして泣いた」


 泣かせようと思ったわけではない。柚香は四歳の女の子がどんなものなのか全然わかっていないだけだ。

 咄嗟に手を伸ばして、ごめんねと謝ろうとしていた。

 胸がぎゅっとなった。謝ろうとしてしまったことに対してか、謝ることなど許されないからなのか、それすらわからない痛みに襲われた。


「おばあちゃんが来てあの子をあやしたの。……大丈夫よ、柚もそのうち遊んでくれるようになるから、って」

「あぁ……」


 嘆くような声を彼女が漏らした。

 祖母が理解してくれなかったその時の気持ちを、彼女は察してくれた。


「おばあちゃんって時々すごく無神経……」


 なぜそんなことを言うのだろう。しかも本人の前で。

 柚香は本当のところ、寧々と一緒に暮らしたくないという自分の主張が通るだなんて、あの日の夜には既に思ってはいなかった。

 結局は自分も子供で、大人が決めた家庭の決まりごとを覆せる権利も手段も持ち合わせていないのだ。祖母が寧々を大事な孫として認識しているなら、きっと柚香がどれだけ嫌だと主張しても手放さない。柚香がどれだけ母と寧々の間で押し潰されそうになっているのか理解していないから。いつかほだされてくれると確信しているのだ。

 このままずっと寧々があの家に居るのなら、どうなってしまうのだろう。自分がグレそうで嫌だ。


「どうしてあの家なのよ。母親の親戚とかいるでしょう」

「……出自が複雑な子だからね」


 暗に拒絶されたのかもしれないと言われて、柚香はまた胸が痛くなった。


「でも……あの子だって、なんでわたしに話し掛けてくるのよ。わたしずっと不機嫌な顔してんのよ。普通、そんな顔してる人間に小さい子は近づいたりしないでしょう」

「恐がられてないの?」

「ない……。向こうから遠ざかってくれると思ってたのに」

「ああ、子供はわかるんだね」


 彼女は納得したようにポツリと呟いた。


「佐和さん? どういう意味?」


 顔を上げて柚香は訝しげに口を尖らせる。


「いや、何でもない。それより父親とは連絡が取れたの?」


 当たり前に放たれた疑問に、柚香は思わず顔を逸らした。


「柚香?」

「取ってない」


 拗ねたように答える柚香に、彼女は小説から柚香へと視線を移した。


「どうして」

「だって! どうせ電話しても出るわけないし、万が一出たとしても責任転嫁するようなことしか言わないに決まってる。こっちがどんだけ怒ってもどうせ伝わらなくて、余計に腹立たせられるだけなら、話さないほうがマシじゃない!」


 柚香は確信があった。父は今回のことを、柚香が感じている半分程も大したことではないと思っている。そんな相手にまともに怒りをぶつけては、こちらが傷つくだけなのだ。話しなどしたくない。

 佐和は文庫本をテーブルへ置いた。


「でも康子さんには怒っただろう?」


 しっかり柚香の目を見て、彼女は祖母の名前を出した。


「だって……おばあちゃんは目の前にいるし、わかってくれるかもしれなかったから」


 はぁ、と大きな溜め息を吐かれた。

 どうしてそんな態度を取られるのかわからない。柚香はもうこれ以上傷つきたくなかったし、祖母に対する怒りは正当なものだ。言ったことを後悔もしていない。


「そりゃあ、ちゃんと傷ついてくれる人に怒ったほうが楽だよね」

「違っ、そんなつもりで怒ったわけじゃ……!」


 ない、とは言い切れなかった。自分は怒る権利があったはずだ。でも父にはそうしなかったくせに、間違ったことをしていないなんて言い切れるのだろうか。自信がなくなってきた。


「柚香、あんたは怒っていい立場だよ。何も悪くないし、康子さんにだって責められる理由はある。父親と関わりたくないならそれでもいいと思う」


 いつになく真剣な表情で彼女は口を開いた。


「でもね、間違えちゃいけない。誰が一番悪かったのかということは。康子さんじゃないだろう?」


 何が言いたいのかわかってしまった。佐和は怒りの矛先を全て祖母に向けて、父親の身代わりにはするなと言っている。


「そんなつもりじゃ……」

「わかってるよ。でも今の状態をずっと続けるならそうなってしまう。それは柚香が周りの大人たちと同じ、理不尽な人間になってしまうってことだよ」


 佐和は叱るでもなく淡々と一歩引いて、柚香の行動を顧みさせる。


「誰と誰が悪いのかだってはっきり理解していなくちゃいけない」

「そんなのわかってるよ……」

「そうだね。あの子じゃない」


 柚香は言葉を失った。

 わかっている。そんなことは、最初から。寧々は何も悪くない。

 指摘されるまでもなく、わかっているのだ。


「でも、じゃあ……どうしろっていうのよ」


 佐和の言うことは正論だ。第三者だからこそわかる冷静な目で、正しいことを諭している。

 しかしそれが何だというのだろう。間違ったことだけを教えてくれたって意味がないじゃないか。この身動きできない状態から、どうすればいいのかを教えてほしいのに。

 寧々に冷たくしたいわけじゃない。でも急に存在を知らされた父と不倫相手との子供と、どうして仲良くできると、皆は思うの。

 父のことは絶対に許せない。母を裏切りたくもない。


「柚香はがんばってるよ」


 さっきまでの平坦な口調ではなく、そこには優しい響きがあった。

 がんばってるって何よ。

 心の中で反抗しているのに、なぜか柚香は涙が出てきた。


「だからこんなことは言うべきじゃないのかもしれないけどね。柚香が一番あの子の気持ちを理解してあげられるんじゃないかな。無理に寄り添えっていうことじゃないよ。でもあの子の気持ちも柚香と同じくらい、置き去りにされてそうな気がする」


 佐和の言葉には思惑など何もなく、ただ幼い子供を案じる色だけがあった。


「何よ……結局、佐和さんもあの子と仲良くしろって言うんじゃない」

「まあ、そうなってしまうね。でも柚香の好きにしたらいいよ」

「……無責任」


 柚香の呟きに佐和は苦笑を漏らした。




 

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