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「妹? ……四歳?」
柚香がようやくこの事実に対して、自分が持つべき感情が何なのかを理解したのは、妹という言葉からではなく、四歳という数字だった。
「四歳って……ねぇ、お母さん亡くなったの、四年前だよ?」
責める口調になったのは、祖母に対して怒りが向いたからではない。それでも彼女はぎゅっと眉を寄せた。
「それって、お父さん、お母さんが亡くなる前から……その前から、浮気していたってこと?」
どんどん強張り、きつくなっていく柚香の声に、祖母の顔も俯いていく。怒りをぶつけるべき人物がここにいないことに柚香は苛立った。とっさに出てしまった浮気という言葉にも腹が立つ。何が浮気だ。そんなかわいいものではなくて、不倫だろう。
「何それ! あいつずっと家に帰って来なくて何やってたの! 仕事してるんじゃないんじゃない!」
「違うよ、単身赴任は本当なのよ。余所に家庭があったからじゃないのよ」
「どういうこと?」
祖母の言葉の意味がわからなくて、柚香は顔をしかめて尋ねた。すると祖母は口元を引き攣らせて動揺する。
「あ……だから……他に家庭があったから、帰ってこなかったんじゃあ……」
言わなくてもいいことを言ってしまったのだと、彼女が後悔したのは直後のことだった。
「何それ……」
柚香の顔がどんどん青ざめていく。
ドラマのように、家から出掛けた父親が、母親よりも若い女性と幼い子供がいるマンションの一室へ、ただいまと言って入っていく姿を想像してしまった。
そんなことが現実にもあるのだと、テレビを通して柚香は知っていた。知ってはいた。
「だから違うの。そんなことはやっていないのよ。違うのよ」
必死で祖母が宥めようとしていたが、最早それが父親のしたことなのか、そうでないのかは、別の問題になっていた。
単身赴任を疑ったわけではなかった。祖母の言葉は、そんなことを想像すらできなかった柚香に、現実というものを突き付けていたのだ。
不倫だけでも許しがたい酷い裏切りで、父親が不潔で汚ならしいものに思えて、心が拒絶反応を起こしている。それなのに柚香の考えは甘くて、大人はもっと酷い生き物なのだと言われたようだった。
「ふざけないでよ! 何逃げてるのよ!」
「柚、落ち着いて。寧々が恐がっているから」
はっとして柚香が視線を向けると、寧々と呼ばれた女の子は、今にも泣き出しそうな顔で瞳を潤ませていた。柚香はとにかく声だけは小さくした。
「……この子の母親は?」
「亡くなったよ、先月」
怒りをぶつけるために聞いたのに、返ってきた答えに、気まずさと同情と共感が混ざり合って、何を言えばいいのかわからなくなる。
しかしすぐに始めに言われたことを思い出した。
うちの子になる、と。
「もしかしてこの子の母親が亡くなったから、この子がこれからここに住むっていう、そういうこと?」
祖母は柚香の顔色を伺いながら黙って頷いた。
「冗談でしょ、あいつ」
目を見開いて唖然とする。
つまり父は、母親が亡くなって引き取ることになった、不倫の上でできた実子を、祖母と柚香に押し付けたのだ。柚香に対する説明すら、祖母にさせて、あっという間に逃げ去った。
仕事があるから。そんな言葉で全てを誤魔化して。
「冗談でしょ」
信じられない思いで繰り返す。もう罵倒すら思い浮かばない。祖母もこればかりは擁護できないと思ったのか口をつぐんだ。
先程よりももっと重い空気が漂い、しん、と沈黙が降りる。
感情が処理しきれない。そんな中で冗談ではないのだという理解だけが深まっていく。
しばらくして静けさを破ったのは、息が喉に引っ掛かったような小さな声だった。
ソファーに座っていた寧々が、俯いて大粒の涙をボロボロと流していた。堪えていたものが限界まで到達して溢れ出してしまったような泣きかたは、見ている者を慌てさせる。
祖母が急いで寧々の前へ行ってしゃがみこんだ。
「ごめんね、寧々。恐かったねぇ」
優しく声をかけて腕に抱き抱える。その行動に柚香はショックを受けた。
まるで柚香が恐がらせたせいで泣いて、それを責められているみたいだと思った。
いつだって柚香に甘くて、母と同様に一番の味方で、それは一生揺るがないことなのだと確信していた。
それが崩れ去ろうとしている。自分でも理解できないくらい衝撃的で、足元が真っ暗になったような気がした。
「柚、そんな恐い顔をしないであげて。この子も不安でしょうがないの」
嗜められて喉の奥が詰まるような感覚がした。柚香にとって今日初めて会った子を大事そうに抱いてこちらを見てくる祖母が、知らない人間のようにすら思えてくる。
反発心が沸いた。
「どうしてその子、うちに住まなくちゃいけないの?」
「え?」
「だってあの人が責任取らなくちゃいけないはずじゃない。だったらあの人が全部面倒見ればいいんじゃないの?」
「……お父さんに任せられるわけないでしょう? あんな人なのよ」
言い辛そうに目を逸らす祖母は、きっとそんな人間を育てた張本人であることが居たたまれないのだ。
「だからってわたしとおばあちゃんが代わりに面倒見ないといけないなんておかしいじゃない」
「柚……」
祖母は悲しそうに名前を呼ぶ。酷いことを言っているのだと、また責められているように感じた。
「何よ、酷いのはおばあちゃんじゃない。その子の母親は妻も子供もいる人と不倫して、子供を産んだような人でしょ。わたしとお母さんの存在を踏みにじった人じゃない。そんな人の子供と一緒に暮らして仲良くしろって言うの? おばあちゃん、それお母さんが生きてても同じことしたの?」
柚香は父ではなく、はっきり祖母へと怒りを向けた。
裏切りだと思った。二人は義母と嫁でも良好な関係だったはずだ。父が不在でも夏になれば母と二人で祖母の家へ行き、三人で遊びに出掛けていたくらい。それなのに母が生きていたら、とてつもなく傷付いたに違いないことをするなんて信じられない。
「お母さんが生きていたら……そしたらおばあちゃんが一人で引き取って育てていたよ」
母に父の不倫相手の子供を育てろなどという要求はしないと、言いたかったのかもしれない。だがそれは柚香の怒りを煽った。
「何それ……。おばあちゃんはそうやってあの人がしたこと全部許すんだね」
突き刺すような言い方に、祖母は息を飲んだ。
「あの人が全部悪いのに、責任も取らせないで逃げるの許して、わたしには一緒に住めって言うんだ。わたしもお母さんも何も悪いことしてないのに、悪いことしたあの人のせいで辛い思いしなくちゃいけないの? あの人は逃げたら全部おばあちゃんが何とかしてくれるのに?」
悔しくて涙が出てきた。
不安で悲しくて腹が立って悔しい。
どうして祖母はそんなに簡単に、もう起きてしまった仕方のないことのように対応しているのだろう。これは現在進行形での裏切りなのに。
父が母を裏切って、その結果を祖母が庇うなら、祖母だって母を裏切っている。もう母が亡くなっているから、柚香と寧々を姉妹として一緒に暮らさせるというのなら酷すぎる。
だってもう母は文句を言うことすらできないのだから。それなら、柚香は絶対に母の味方でいなくてはいけない。でないとおかしい。
「柚香、おばあちゃんが全部悪いの。ごめんね。おばあちゃんが悪いのよ」
「自分が謝ればいいんだと思わないでよ!」
嵐が過ぎ去るのを待つように、ただ謝ることで柚香の怒りが鎮まることを願っているようで、癇癪を起こしそうになる。言葉が全然伝わっていない。
「でも今回だけは許して。この子はまだ四歳なの。何も悪くないのよ。お父さんに任せるわけにはいかないの」
柚香は咄嗟に否定しようとしてその言葉を飲み込んだ。
小柄な祖母の腕の中にすっぽりと収まっている女の子は、しゃっくりを上げて静かに泣いている。声を上げてはいけないという言いつけを必死に守っているかのように。
ぐるりと熱く捻れたものがお腹の中で渦巻いた。
わかっている。この子が悪くないことくらい、柚香にだって。この子とこの子の母親は違う人間だ。でもそれは柚香が彼女と仲良くしていい理由にはならないのだ。
祖母のように、この理不尽な状況を簡単に受け入れるのだって絶対に嫌だ。
「……わたしは嫌だからね」
涙の滲む目で睨んだ。
祖母の反応を確める前に、柚香は背を向ける。鞄を掴んで階段を駆け上がった。
「柚!」
呼ぶ声を無視して自分の部屋に入る。鍵のついていない扉を開けられないようにするために、小さなチェストを移動させて塞いだ。
鞄の中からスマホを取り出す。父の電話番号を表示してしばらく睨んでから発信ボタンを押した。
きっと出ない。確信しながらコール音を聞き、五回目が鳴りやんでから留守番電話に切り替わった。
柚香は思い切り振りかぶってスマホをベッドに向かって投げつけた。布団でバウンドして壁にぶつかり鈍い音を立てる。
最低だ。最低だ。
頭の中で何度も罵った。
制服のままベッドに倒れ込んで、腕に顔を埋めた。涙がどんどん溢れ出てくる。
「……お母さん」
助けを求める声は自分でも情けなくなるくらい弱々しかった。
四年前に交通事故で突然いなくなってしまってから、もう何度も傍にいてくれたらと思っていた。
でも今日、この時ほど強く思ったことはない。
夕食を告げる祖母の声が何度か聞こえてきていた。
それをずっと無視していると、一度だけ部屋の前まで来て呼び掛けられたがそれも無視した。お腹は減っていたが我慢できない程ではない。今日はもう顔を合わせるつもりも話をするつもりもなかった。
何もせず、ただひたすらベッドの上で丸くなっていた。
時間だけが過ぎていく。状況は何も変わらない。階下にはきっとまだ柚香の腹違いの妹だという女の子がいる。
追い返さなければ。どこへ。父親のところへ。あんな小さな子をあんなどうしようもない人間のところへ? 仕方がないじゃない。ここに居てもらうわけにはいかないのだから。じゃあ、あの子はどんな目に遭ってもいいのだろうか。違う、そうじゃない。でもお母さんは。
ぐるぐると思考が同じところを巡っていく。
どうしても行き着いてしまいそうになる結論の前に立ちはだかって、無理やり違う方向へ向かわせて、そのせいで堂々巡りになっているのだ。
これが無力な人間の抵抗なのかもしれないという思いが段々と芽生えてくる。
抵抗ですらないのかもしれない。柚香はとにかく一人になりたかっただけだ。少なくとも今日のうちは。
このまま眠ってしまおうかと思ったが、お風呂にだけは入りたかった。祖母が寝支度をするために寧々と共に二階の和室へ入ったことが物音でわかったから、柚香はそっと部屋を出た。
廊下を挟んで斜め向かいにある障子が、二人分の影を作っていた。
少しだけ冷静になってみれば、声を出すことを必死で堪えながら泣いていた寧々の顔が脳裏をよぎり、罪悪感がチクリと胸を刺す。
何の罪もない小さな子供を傷つけたかったわけではない。あまりのことに感情が押さえきれなかったのだとしても、まだ四歳の母親を亡くしたばかりの子を、あんな風に泣かせていい理由にはならない。
柚香は気づかれないようにそっと和室に近づく。
「ゆずちゃん、ねちゃったの?」
急に自分の名前が出てきて驚いて動きを止めた。
この甲高く舌足らずな話し方が祖母のはずはないから、寧々のものだろう。柚香は「お姉ちゃん」と呼ばれなかったことに、少しほっとした。
「そうだね。疲れちゃったのね、きっと」
悲哀の混じった声で祖母が答える。
「いっしょにあそんでくれるって言ったのにー」
寧々はとてもわかりやすく拗ねた口調でいながら、泣きそうでもあった。しかし柚香はそんな約束などしていないどころか、会話すらしていない。どういうことかと思っていると、祖母も同じ疑問を持ったらしい。
「柚が一緒に遊ぶって言ったの?」
「んーん、おじちゃん」
「おじちゃん?」
「あ、えーと……パパ」
言葉の意味をちゃんと理解していないのに、口にすることに抵抗があるかのような言い方だった。
「ゆずちゃんがずっといっしょにあそんでくれるよって言ったんだよ」
柚香は鎮静化していた怒りが噴き上がるのを感じた。
それを寧々に言った時の父の様子を、容易に想像することができた。
口振りからしても寧々は父に懐いてはいないし、父親だと認識すらしていないのだろう。だから父はここへ懐こうとしない寧々を連れてくる時、柚香をだしに使ったのだ。ここには寧々とずっと一緒に遊んでくれる人がいるのだと言って。
柚香が腹違いの妹であろうと、小さな女の子を見れば優しく接するはずだと、自分に都合のいい解釈をして。
父はそういう人間だ。自分が直面した問題をいつも無自覚に他の人間に投げ渡す。自分がやるべきことではないとでも言うように。
母が亡くなった時もそうだった。悲しみに暮れる十二歳の柚香の面倒を全て祖母に見させていた。母親がいなくなった穴埋めも当然のように祖母の役目になり、自分は生活基盤を変えることなく単身赴任を続けたのだ。そうだ、あの時も父は逃げた。
これまでは父にも事情があるのだと思っていたことが、そうではないのだとようやく理解した。
悔しくて仕方がない。
絶対に仲良くなどしてやるものかと思った。父にとって都合のいい結果になんてならない。そんなことがあっていいわけがない。
少しくらい思い知ればいい。
柚香はまた零れそうになった涙を拭った。
背を向けて階段を下りようとする。そんな廊下の様子など知るはずもない幼い声が柚香の耳に届いた。
「ねぇ、ママは?」
それは何度も口にしたせいで、滑るように出てきたような響きを持っていた。