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数ヵ月ぶりに父親が帰って来るらしい。
それを祖母から聞いた時、柚香がまず思ったことといえば、面倒だな、というものであった。久しぶりに会えるとか、どこかへ連れて行ってもらおうとか、話がしたいという感情は一切なかった。
「どれくらい居るの?」
そんな風だから、気になったのも滞在期間だけで、素っ気なく尋ねた孫娘に、祖母は苦笑いで答える。
「すぐに戻るって言っていたけどねぇ」
「ふぅん」
ならいいや。
柚香にとってはそれだけのことであった。
昔から単身赴任ばかりの父親が帰って来ると言われても、それは少し面倒な親戚が遊びに来ると言われるようなものなのだ。柚香にとっての家族とは、四年前までは母親一人のことであり、母親が亡くなってからは祖母一人のことだった。
そこに父親が当然のような顔をして入り込む度に、柚香は異物感とでもいうべきものを感じてしまう。
普段は母親や祖母が夕飯を作る物音を聞きながら、とりとめのない会話をしたり、テレビを見たり、宿題をしたり、友達とスマホでやり取りをする居間のソファーに、父親がふんぞり返っていたら近づきたくないという衝動がやって来るのだ。
それを我慢して隣に座っても、父親が口にすることといえば「宿題はやったのか」という馬鹿みたいな言葉がほとんどであった。ありもしない威厳を見せつけながら言うそのセリフが、子供に嫌われるものの代表であると知っていて言っているのだろうか。それともそれに一生気がつかないのが父親という生き物なのだろうか。
他にも久しぶりに帰って来た時に、義務感に突き動かされて、母親の食事の準備を手伝い、普段よりも豪華な夕飯を用意してみれば、ちゃんと食べられるものなのかと揶揄されたり。
少し歩み寄ろうとする度に、こちらを苛立たせたり何かを踏みにじられるような言動を繰り返されるのだ。よって柚香が出した結論は、高校生らしく、なるべく関わらない、というものだった。とにかく必要最低限にしか話さず、近寄りもしなければいいのだ。
そんな柚香に祖母は苦言を呈することもある。
曰く、父親が働いているお陰で生活ができる、学校にも行けるのだから、というものなのだが、柚香からすれば、そんなのは当たり前ではないだろうかという認識になる。
子供を作るだけ作っておいて育てないのだとしたら、それは人間として最低の行為なのだから、子供が社会に出るまでは生活の面倒を見て、ある程度の教育も受けさせるのは当たり前だ。それをありがたがれと言われても困る。義務だし親だし大人でしょう、と。
ただ、だからといって柚香に感謝の念が欠片もないわけではなかった。態度には全く出さなくとも、父親のお陰で生活ができているのは事実だと、認める程度の分別は持っている。それが感謝と呼べるものなのかはわからないが。
嫌いなわけではなかった。ただよく知らない父親のことを、面倒な親戚のおじさんのように思えて敬遠してしまうだけなのだ。
柚香にとって父親とはそんな存在であった。
少なくともこの時点では、嫌いでは、なかったのだ。
しかし、それが大きく覆されるのは、数日後の父親が帰って来た日のことであった。
学校から帰宅した柚香は、自宅の前で首を傾げた。
柚香の家は商店街のど真ん中にあり、一階は祖母が営むブティックになっている。
休業日は商店街に合わせて火曜日だ。しかし今日は木曜日なのに、店のシャッターが閉まっており、祖母の達筆すぎて辛うじて読める文字で『本日、休業致します』と書かれた紙が貼り付けてあった。
何かあったのかと考えて、まず思い浮かんだのは、今日は父親が帰って来る日だということだった。すっかり忘れていたので、憂鬱な気分になる。
でもそれだけの理由で、祖母が店を休むというのは変だ。
廃れてはいないと言える程度の賑わいしかない商店街なので、祖母はいつも十八時には店を閉めるし、父親が帰って来るぐらいのことでは休んだりしない。
本当に何かがあったのだろうか。
心配になった柚香は急いで店の裏手に回り、自宅用の玄関扉を開けた。
土間で靴を脱ごうとしたところで、見慣れぬものが目に入る。
大きな男性用の黒い革靴は父親のものだろう。それはいいのだが、その隣にとても小さなピンク色の子供靴があったのだ。幼稚園児が履きそうなサイズの靴は、この家には縁のないもののはずだ。親戚にもそんな年頃の子供はいない。
わけがわからなくなりながらも、家の中へ入って祖母に尋ねればいいかと、とにかく柚香は靴を脱いだ。
店の奥である一階部分に居間があり、とりあえずそこへ向かう。
「ただいま」
声を掛けながら引き戸を開けた。
「ああ、お帰り」
反応したのは祖母の康子だけだった。
こちらに背を向けてソファーに座っていた父親は、ちらりと振り返っただけだ。なぜお帰りぐらい言えないのだろう。柚香はたまにこの父親が、会社でちゃんとやっていけているのかと心配になる時がある。
「ねぇ、玄関に子供の靴があったけど、あれどうしたの?」
鞄を適当な場所に置きながら、康子に尋ねる。彼女は困ったように視線をソファーへ向けた。
父親に聞けということなのだろうか。あの靴に関係しているのは祖母に違いないと思っていた柚香は戸惑った。てっきり友達の孫でも預かっているのかと思っていたのに。
仕方なくソファーに回り込んだ柚香は、嫌々ながら父親に向かって口を開こうとした。
その口が開いたままピタリと止まってしまったのは、どう声を掛けるべきか迷ったからではない。
あまりにも驚いたからだ。
父親の隣に不安そうな表情をした、幼い女の子がいた。
玄関に子供靴があるのだから、これは予測し得る事態ではある。だが柚香もこの女の子が祖母の近くにいたのなら、ここまで驚いたりしなかっただろう。
しかし連れてきたのが父親だと示すように、彼女は所在なげに父親の隣に座っている。
「どうしたの、その子……」
唖然とした顔を父親に向ける。
「いや、その……」
途端に父は眼球をせわしなくキョロキョロと動かし、意味もなく手のひらを太腿に擦り付け始めた。
まるで見本のような挙動不審ぶりだ。怪しんでくださいと言っているかのような態度に、柚香は眉根を寄せた。
「この子は寧々だ。四歳になる」
絞り出したような掠れた声で父が言った。
しかし名前も重要ではあるが、柚香が聞きたいのはそんなことではない。
「ふぅん」
それで?
目線で先を促すと、脂汗を浮かせた父は堪えきれなくなったように立ち上がった。
「お父さん、もう仕事に戻らなくちゃいけないんだ。最近忙しくてな!」
「え?」
どう見ても言い訳としか思えないタイミングでの、時間がない報告であった。
「そういうわけだから、おばあちゃんよろしく頼むよ」
「ちょっと! 説明ぐらいしていってよ」
慌てて呼び止めるが、父は仕事が忙しいのだと繰り返しながら玄関へ向かって行く。
「信之、待ちなさい!」
祖母も大声で止めたが、あっという間に出ていってしまった。
二人して言葉もない、という状態である。
普段から穏やかな祖母は、大声を出すことからして珍しいが、柚香の前で息子のことを名前で呼ぶのも珍しかった。
只事ではないのだと教えられているようで、ますます困惑する。
「おばあちゃん?」
祖母は長い長いため息を吐いた。様々な感情がそこに吐き出されていたが、柚香が感じ取れたのはやるせなさだけだった。
ソファーに座る幼い女の子を見る。
肩よりも少し伸ばした髪は二つに分けて括られており、くりっとした丸く大きな目は柚香に向けられていた。じっとしていることが難しそうな年頃に見えるのに、騒ぎも動き回りもせず、大人しくしている。
子供は嫌いじゃない。むしろこんな可愛い子が知り合いにいたなら、構い倒しているだろう。お話をしてできれば抱っこもさせてほしい。
しかし父のあの異様な態度が、その女の子に近づくことを躊躇わせていた。何か嫌な予感がする。
「その子は柚の妹だよ」
唐突に祖母が言った。
柚香は振り返って首を傾げる。
「うちの子になるってこと? 何だってそんなことになったの。遠縁の子?」
一人っ子の柚香はずっと姉妹がほしいと思っていた。この子が妹になるなら嬉しいが、いきなりすぎて驚くしかない。
「……うちの子にはなるんだけど、遠縁じゃないのよ。柚の妹なの」
「えぇ?」
柚香は更に首を傾けた。祖母はたまに説明を短縮しすぎて、一度では理解できない言い方をするのだ。
「妹になるのはわかったよ。でも遠縁じゃないなら、この子何者なの。えーと、だから、これからのことじゃなくて、これまでこの子がどこの家の子だったか教えてほしいの」
難しくもない、当然のことを聞いたつもりだった。
しかし祖母は今まで見たこともないような苦悩に満ちた、泣き出しそうな顔をした。
「……おばあちゃん?」
「ごめんねぇ」
口に手を当てて弱々しい声を出す。それは謝るというよりも、取り返しのつかないことをした人間の、懺悔のようだった。こんなにも打ち拉がれるようなことを、祖母はやったのだろうか。
その原因に、あまりにも予測がつかない柚香は激しく混乱した。祖母を落ち着かせて優しく事情を聞くという度量など持ち合わせていない。
部屋中に立ち込める正体不明の重苦しい空気に身を竦ませながら、何か言わないといけないはずだと、それだけ辛うじて考える。
しかしまだ子供である柚香よりも、義務感に駆られた祖母のほうが口を開くのは早かった。
「その子は柚香のはら……」
言いかけた言葉が急に止まる。強張った表情で床をじっと見つめた祖母は、今度はゆっくり慎重に話した。
「妹になるのじゃなくて、ずっと妹だったのよ、柚の。その子は柚の母親違いの妹なの」
単語の一つ一つはよく耳にするものだったからか、柚香はそれが意味するところに、すぐには気づかなかった。
頭の中で反芻してみたのは、祖母が柚香から目を逸らしていたからだ。意図してそうしているのだとわかるくらい、さっきからずっと、頑なに目が合わないから考えた。
そして理解したことは、柚香がこれまで何度か想像だけはしてみた、どこにでもありそうでないようなことだった。
一度か二度は想像してみた。きっかけがあったわけではなくて、中高生という時期はきっとほとんどの人間がそんなことを考えてしまうのだ。
もし、自分と半分だけ血の繋がった兄弟姉妹がいたのなら。それが兄か姉なら、両親が結婚する前のことかもしれない。そして弟か妹ならーー。
柚香はソファーに座る四歳の女の子を見た。不安そうな表情で黙って柚香を見つめている、うさぎのキャラクターTシャツとピンクの水玉スカートを着て、白のフリルがついたおもちゃみたいな靴下を履いた女の子を。
「……何それ」
他人事のような感覚しか湧かない柚香の呟きは、重苦しい部屋の中心でプカリと浮いてしまいそうなくらい、場違いな軽さしか持っていなかった。