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きっと、偶然の一言では片付けられない。
そうじゃない可能性だってあるけど、でもこれを大したことではないと流せるほど柚香はおおらかな性格をしていなかった。
できることなら、気づかなかったふりをしていたい。何も知らなかったふりをして、今まで通りに過ごしていたかった。
ようやく、寧々と一緒に暮らすことに、寧々がこの家にいることに慣れてきたところだったのだ。
これ以上に辛いことなどもういらない。
そう思うのに、気づいてしまったなら無視などできなかった。
柚香の母親と寧々の母親に繋がりがあったという可能性。
それは柚香にとって大きなショックをもたらすものだった。なぜなら母はそのことを柚香に隠していたのだから。
亡くなる前の、母の口癖が頭の中でリフレインする。
――何でも話してね、柚。お母さんは柚のこと何でも知りたいの。
あの頃の母は子供のように頼りなく、いつも不安そうな空気を纏っていた。
だから柚香は仕方がないなぁと思いながらも、母を安心させるために、そのお願いをほとんど実行していた。
そう、何でも話していたのだ。食事をしながら、買い物をしながら、テレビを観ながら、その日の出来事を、小さな悩みや愚痴や楽しかったことを、毎日。
そして柚香は当然のように、母も自分に同じことをしてくれているのだと思い込んでいた。お互いに何でも話せる友達のような、仲のいい親子なのだと。
しかしそれは柚香の一方的な思い込みだったのだ。
あまりにも大きな秘密を、母は柚香に隠していた。
父に不倫相手がいること。その人との子供がいること。柚香に妹がいること。何でも話してと言っておきながら、母が隠していたことはとてつもなく大きい。
しかし柚香を打ちのめしたのはそれだけではない。母と寧々の母親が、もしかすると友好的な関係を築いていたかもしれない、ということだった。
でなければぬいぐるみをあげたり、もらったものを大事にしまっておいたりしないのではないだろうか。
決定打となる根拠はないが、柚香の中では日に日に、あのぬいぐるみは母が渡したものだという思い込みが強くなる。
裏切られたような気分だった。
柚香は母を想って、寧々の存在を拒絶していたのに、母はとっくに知っていて、あまつさえ受け入れていたのかもしれないのだ。
あの時の柚香の辛く苦しい気持ちは何だったのだろうか。
母の尊厳を守ろうとしたことが、空回りなのだったとしたら、自分はなんて馬鹿みたいなのだろう。
ただ知らされていなかっただけなのに、必死になって母が可哀想だと怒っていたなんて。馬鹿みたいだ。
また、あの感覚がする。
自分の存在が足下から崩れていくような。真っ暗な場所に一人で立っているような感覚。近くに誰かがいてくれたはずなのに、それが錯覚だと気づいたかのようだった。
柚香が思っていたよりも、母は柚香を大切にはしてくれていなかったのだ、きっと。そんな人はどこにもいない。自分は世界にたった一人だと、そんな子供じみたことを口にしたくなってしまう。
だってあの頃の母の様子はそれを証明しているかのようだ。
いつも不安そうで、柚香を傍に居させたがったのは、父の不倫を知ってしまったからなのだろう。
父に裏切られて傷ついた心を、柚香で癒そうとしていたのではないだろうか。
あの頃に母に真実を教えられていたなら、柚香は全力で母の味方をした。父をなじって、母は何も悪くないのだと何度も言って、母が望むだけ傍にいただろう。
でも実際は理由も言わずに、離れることを嫌がり、柚香に隠しごとをさせまいとしていた。それは柚香が大切だからというよりも、柚香の子供としての立場を利用しているように思えて、母に対する負の感情が膨らんでいく。
本当のことを知りたい。
柚香は強烈にそう思った。
母と寧々の母親に繋りがあったのか、真偽を知っている人を見つけなければいけない。
真っ先に思い浮かんだのは祖母で、しかしそれはすぐに打ち消した。
こんな時の祖母の言葉はあまり信用できない。よかれと思って嘘を吐くことがたまにあるのだ。それに母にとって祖母は、仲がよくても不倫をしている夫の母親だ。そのことについて話をするとは考えにくい。
柚香はしばらく悩んだ後、ふと思い付いて二階の押し入れを開けた。
奥のほうに仕舞われていた、収納ボックスを引っ張り出して中を探る。それは柚香がこの家に来た時に一緒に持ってきていた母の持ち物をまとめたものだ。
中のものを壊さないように慎重に取り出していき、柚香は時間をかけてようやく目的のものを見つけ出した。
薄っぺらい小さな写真のアルバム。半分も埋まっていないそれは、柚香が写っていない母のためだけのものだ。
あのぬいぐるみを買った旅行の写真がそこにあった。
柚香は緊張しながらゆっくりとめくる。
柴犬浪人の着ぐるみがいた。
その右隣に笑顔の母がいて、左隣に母と一緒に旅行に行った友人が写っている。
柚香は友人の顔を食い入るように見つめた。
外は雨が降っていた。
土曜日の午後、寧々の面倒を見るのは祖母の役目ではあるが、最近は柚香に用事がない限り、土曜日も柚香が面倒を見ていることが多い。
さっきまでの寧々は一階の居間で眠っていて、祖母が仕事をしながら様子を見てくれていた。
一階に下りた柚香の足音で目が覚めたのか、寧々は寝転がって瞬きをしている。またすぐに眠りそうな気配だ。
ザァァと音がする。
家が古いせいか、片側しか雨に晒されていないというのに、やけに戸を打つ音が響く。
強雨ではないが出掛けるのは躊躇うくらいの雨量だった。
こんな日に柚香はよく商店街の中を歩く。
長い屋根がある商店街は、どれだけ雨が降っても濡れることはないし傘も必要ない。雨の匂いと薄暗さと些細な音が身近に聞こえてくるぐらいの独特の静けさの中を宛もなく歩き回ることは、ただなんとなく好きなのだと思っていた。
でも最近、佐和と話をした時に思い出したことで、目的があって商店街をぶらついていたのかもしれないと気がついた。
子供の頃に聞いた都市伝説。懐かしい自分に会えるという話。
いつか会えるかもしれないと思って、雨が降れば商店街を歩いていたのだろうか。
自分でも不思議な行動だった。
柚香は暇そうに店の奥にある椅子に腰かけている祖母に声を掛ける。
「おばあちゃん、ちょっと出掛けてくるね」
ゆっくりと振り返った祖母が笑った。
「商店街の中かい?」
好きだねぇと顔が語っている。彼女には雨の日に外に出られることを喜んでいる子供のように見えているのかもしれない。
「……うん」
いつもとは少し目的が違う柚香は曖昧に頷いた。
「ねねちゃんも行く」
「わっ」
急に背中に軽い衝撃が来て驚いた。
振り向けば寧々がべったりくっついている。屈んでいたせいで体重までかけられていた。
「寧々、もう寝ないの?」
「ねむたくない。ゆずちゃんとおでかけする」
「行ってもつまんないよ? おばあちゃんとおうちにいたら?」
「やだ、ゆずちゃんと行く」
両手で柚香の服をしっかり掴んだ寧々は、絶対に曲げないという、子供特有の頑固さを発動していた。どうしようかと柚香は迷う。
「ゆず、連れていってあげたら? 最近あまり一緒に遊んであげていないでしょう」
「え?」
思いもよらぬことを祖母に言われて柚香は目を丸くする。
「いや、ちゃんと面倒見てるじゃん」
「面倒は見てくれているわよ? でも一緒に遊んであげてはいないじゃない。この前だって寧々が一生懸命話し掛けていたのに、生返事ばかりしてたわよ。寧々、寂しそうにしていたんだから」
全く自覚がなかった柚香は、思わず寧々を見る。
不安そうな瞳と目が合った。
「忙しいんでしょうけど、ちょっと商店街を出歩くだけなら連れていってあげて」
「……うん」
何とも気まずくなって柚香は了承した。
「寧々、うさぎさん取っておいで」
弾けるように頷いて寧々は慌てて上着を取りに行く。
「まっててね、ゆずちゃん。さき行っちゃだめだからね」
何度も振り返って念を押される。
「行かないよ」
信用がないらしい寧々のために、その場から一歩も動かずに待っていると、上着を持ってバタバタと走りながら戻ってきた。それを着せてやって、行こうかと促す。
寧々は嬉しそうにうんと頷く。
玄関ではなく、店側から商店街へ出て、手を繋いで歩いた。
ご機嫌な寧々がぶんぶんと手を揺らす
「ゆずちゃーん」
「なぁに?」
「あのねぇ……だいすき!」
ふふ、と笑って寧々は柚香を見上げた。
一点の曇りもないような純粋な感情。柚香は締め付けられるような胸の痛みを覚えた。
「わたしも……大好きだよ」




