君が僕を知っている
男が目を覚ました翌日のこと。
「何も覚えてない?」
メリィ・ウィドウの街の行政所兼寄合所、その執務室で、街の管理者の一人・マーヤとヨルが向かい合っていた。
マーヤのいくらか皺の寄った褐色の美貌が、険しい表情を形作っている。
「何であの森にいたのかも、何であんな怪我をしたのかも、それどころか自分が教会の人間だってことも分からないみたいでねぇ」
「記憶喪失、ですか」
「ううん。ただ、ヒカリが置いていった聖水を飲ませても効果がないんだ。一体どんだけ強力な呪いがかかってんだか」
「いえ、何も黒魔法のせいとも限りませんよ。肉体的な強いショックが原因で、一時的に記憶が欠落するってのは、偶にあり得るんだそうです」
「それにしちゃあ、怪我が少ない。所々に傷はあるが、一個一個は大したもんでもない。頭を打った様子もないし、記憶が吹っ飛ぶほどのダメージを受けたようには見えないんだよ」
ヨルが腕を組んで考え込む。
「そう、ですか。ううん……。俺が気になったのは、あの人が教会の人間だとして、どういう仕事をしていたか、なんですよね」
「仕事?」
「体は鍛えてるみたいでした。ただ、聖騎士だとしたら聖気が殆ど感じられませんし、そうでないとしたら武器やら防具やら、あるいは何かしらの道具やら、何も装備していないのは不自然でしょう」
「となると、考えたくはないけど、鬼への転化を逃れた後遺症だとしたら……」
「あああ。そっちの可能性もありますか。だとして不自然な点がないでもないですけど」
そこで、マーヤの眉間の皺がさらに深くなった。
「……いや。やっぱりそれはないだろう」
「何でです?」
「ジンゴを見りゃ分かる。その場合の記憶の欠落ってのは、つまり魂の力の消失が原因だ。もし自身の生い立ちも忘れ去るほど魂が欠落したのだとしたら、それ相応に感情も欠落するはずだ」
「ええ。そうでしょうね。ただ、目覚めた時は殆ど前後不覚の状態だったって、聞きましたけど……」
「目覚めた時は、ね」
「??」
「はあ……」
マーヤの言葉の意図が読めずに困惑するヨルの向かいで、魔族の美女は深々と溜息を吐き、こめかみを揉んだ。
……。
…………。
「このくらいでしょうか」
「ええ。いい具合よ。じゃあ、この竹に巻き付けて……」
「厚みはどのくらいですか?」
「あんまり一本につけすぎなくていいわ。ええっと……」
「これでどうでしょう?」
「そうね。そのくらいでいいわ」
「上手い上手い」
「これ、全部につけていいんですよね?」
「ええ。お願いね」
「おや、初めてにしちゃ随分要領がいいね」
「みなさんの教え方が上手いからですよ」
「あらやだ。うふふ」
ヨルが行政所の大広間に足を運ぶと、扉の向こうから数人の女性たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。
(あれ。確か街の人たちが交代で看病と見張りをしてるって……)
不審に思ったヨルが一声かけて引き戸を開ける。
すると。
「おや」
「あら、ヨルちゃん」
「いらっしゃい」
「一緒に食べてく?」
大広間には、四人の女性たちがいた。
部屋に入ったヨルに反応して声をかける彼女たちの前、部屋の中央の囲炉裏には、くつくつと煮えた鍋がかけられ、それを囲むように、竹に巻かれたたんぽ餅が立てられ、炙られている。
そして、ヨルから見て、囲炉裏を挟んだ反対側で竹の棒に搗いた米を巻き付けている男の姿がある。
耳にかかる程の金糸の髪。
すらりと引き締まった細身の体躯。
瞳は灰青。
少し荒れた肌は、抜けるような白。
歳の頃は二十半ばといったところだろうか。
男はヨルの姿を認めると、立ち上がり、歩み寄った。
光るような、笑顔で。
「あなたが、ヨルさんですね?」
澄んだテノール。
「……え、ええ」
面食らったヨルに、大きな目を輝かせた青年は、さらに一歩を踏み出した。
「あなたが、僕を助けてくれたと聞きました。本当に、ありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げた青年に、ヨルが慌てて頭を振る。
「いえ、そんな。偶々通りかかっただけですから。こちらこそ、助かってくれてよかったです」
青年は顔を上げると目をぱちくりと瞬かせ、次いで、くすりと笑った。
「面白いことを言うんですね」
それに誘われるようにヨルも苦笑する。
「すみません。それより、ひょっとして、記憶が回復したんですか?」
思ったよりも随分と明るい様子の青年にヨルがそう問いかけると、青年は困ったように頬をかいた。
「いえ。それがさっぱりで」
「ええ?」
「何だかとても寒くて怖いところにいたような気はするんですが……。自分が何処に居て、何をしていたのだか、とんと思い出せないんです。気づいた時にはここにいて、サラさんにホットワインを貰ってました」
「はあ……」
困惑するヨルに、横からエルフの女性が声をかける。
「それがね、ヨルちゃん。おかしいのよ。この子ったら、目が覚めて最初に言ったことが、『よく分からないんですが、お腹が空いた気がします』、だったの」
「あ、サラさん。酷いですよ、そんなことを」
「うふふふ」
「いいじゃないか、腹が減るのは生きてる証だよ」
「昨日は念のためお粥にしたんだけど、特に内臓は痛めてないみたいだったから、今日はもう少しちゃんとした食事を、ってね」
「僕、きりたんぽって、初めて食べます」
「そりゃそうだろ。一昨日までの記憶失くしてんだから」
「そうでした!」
「あははははは」
たった一日ですっかり女性陣と打ち解けた青年の姿に、ヨルはマーヤの台詞の理由を知った。確かに、彼から感情が欠落しているようには見えない。鬼への転化から逃れた線は薄いだろう。
ヨルは朗らかに笑う青年の顔色を伺いつつ、慎重に問うた。
「それにしても、不安じゃありませんか、自分のことを何も思い出せないのでは?」
青年は屈託のない笑みで返す。
「いえ、何もって程でもないんです。自分の名前だけはどうにか憶えてまして」
「ああ、そうなんですか」
「そうでした。自己紹介がまだでしたね。すいません、ヨルさん」
「いえ、全然」
「では改めて。僕は、トーヤといいます」
ヨルの表情が、固まった。
「…………え?」
その様子に、周りの女性たちが怪訝そうな顔をする。
「ヨル?」
「あ。……ああ、すいません。どうして、名前だけ、憶えてるんでしょうね」
「さあ。ただ、何となく、声を覚えてるんです。男の人の声で、『トーヤ。トーヤ』と。だからきっと、それが僕の名前なんでしょう」
「そう……ですか」
「ヨルさん?」
どこか様子のおかしいヨルに、トーヤと名乗った青年も、訝しげな顔をした。
ヨルは一度目を閉じ、口の端を引いた。
「いい名前ですね、トーヤさん」
春の陽射しのような、柔らかな笑みで。
「そう、でしょうか。何だか、間が抜けたような感じで……」
「いいじゃないですか」
「ふふ。ありがとうございます」
微笑み合う二人の間に、人族の女性の声が割って入る。
「ほらほら、鍋が炊けたよ。せっかくだ、ヨルも食ってきな」
「これね、殆どトーヤ君が巻いたのよ。よく出来てるでしょ」
「ああ、ホントですね。美味しそうです」
「どうぞ、食べてってください、ヨルさん」
「ええ、じゃあ遠慮なく」
「お鍋はみんなで囲むのが一番美味しいわ」
「僕、こんな大勢で食事をするの、初めてです」
「だから記憶がないんだろうに」
「そうでした!」
米の焦げる香ばしい匂いと、甘い湯気の香りに、朗らかな笑い声が混じった。
……。
…………。




