遅く起きた朝は
五日後、タンシャンの街にて。
「う。ふわぁあぁあ」
青白い顔に、艶のない黒髪をべったりと張り付けたヨルが、布団から起き上がり大きく伸びをした。
窓からは白い日差しが降り注いでいる。
のろのろと起き上がり、がらりと窓を開けると、刺すような寒風が吹き抜け、身を竦ませた。
乾いた空気が部屋を流れ、頭の奥にかかる靄を晴らしていく。
微かに、菊の花の香りが。
体が重い。
しかし、数日前までの身を焦がすような熱はどこにも感じられない。
視界も明るい。
ふと腕に痒みを感じて擦ると、ぽろぽろと、赤錆色の瘡蓋が剥がれ落ちた。
「助かった、ってことでいいのか……」
ふと、部屋を見渡す。
一緒に苦しんでいた二人の獣人の寝かされていた布団がない。
そこには、何の匂いも痕跡も残っていなかった。
寝たきりで粘つくヨルの口腔に、苦い唾が湧いた。
「まさか……」
嫌な予感に突き動かされ、ヨルが寝巻のまま部屋を飛び出す。
広い屋敷の回廊には、誰の姿も見えない。
ただ、乾いた空気の中に、微かに焦げ臭い匂いが感じられた。
裸足のまま駆け出す。
人の声が聞こえる。
中庭の方角。
木と肉の焼ける匂いが。
「ガオ!」
悲鳴のような声を上げて扉を開けたヨルの顔を、白い煙が覆った。
「ぎゃっはははははははは」
「おめえ何俺が焼いた肉食ってんだこの野郎!!」
「ああん!?!? 命の恩人様に向かってなに言ってんだこの野郎!」
「てめえを突き飛ばして俺が病気貰ってやったんだろうが!」
「余計なことしなくても避けられたんだよこの鈍間が!」
「言いやがったな!!」
「もらったぁ!!」
「「レンリてめえ!!」」
そこにあったのは、仲良く焼き肉を奪い合う、三人の獣人の姿であった。
「…………っはあぁぁぁぁぁぁ」
自分の心配が杞憂であったことを知り、ヨルが深い溜息を吐く。
「おお? 何だやったの起きたのか、ヨル」
「おお!!」
「遅かったじゃねえか!」
「お寝坊さんでちゅかあ~?」
「おしめは換えまちたか~?」
「ああん!?」
一瞬で激昂したヨルの背を、立ち上がったガオがばしばしと叩き輪の中に入れる。
「おらお前も食え、ヨル!」
「食え食え!」
「そうだ、じゃんじゃん食え!」
ジョッキ片手にレンリとハイジュンが囃し立てる。
「病み上がりで肉なんか食えるかよ……。水くれ、水」
「はあん? 軟弱なこと言ってんじゃねえよ」
「ったくこれだから人族ってやつぁ」
「おらよ、水だ!」
「浴びるほど飲め!!」
「徳利に入った水があるか!!」
「ふむ。ようやく起きたか、ヨル」
そこに、両手に巨釜を抱えたヘイシンの声がかかる。
熱い湯気が立ち上る釜からは、米の炊ける匂いがする。
「おう、兄貴。先にやってるぜ!」
「ひゃあ! 飯だ飯!」
「お前ら、少しは落ち着け」
ずしん、と重い音を立てて釜を地に置く。
その後ろから、盆に碗を重ねて持った獣人の女性が現れる。
「おら、この穀潰しども。餌だよ餌!」
黒い丸耳をぴくぴくと動かした長身の女性は、そこで初めてヨルに気が付いたようだった。
「おや、あんたも起きたのかい。何だよ、起きるなら起きるって言ってくれなきゃ。今碗と湯呑持って来てやるから、ちょいと待ちな」
「……いや。あの、お粥か何か……」
「粥なんざこの数日で作り飽きちまったよ! 自分で茶漬けにして啜りな!」
「……はい」
どたばたと廊下へ戻って行った獣人の女性はものの数秒でまたドアを蹴り開けると、ヨルに半纏と足袋を投げて寄越し、食器を押し付けて去って行った。
ぽかんとしてそれを受け取ったヨルは、しかし次の瞬間吹き抜けた風に身を竦ませると、いそいそとそれを身に着け、火の傍に屈んで座った。
「今の方は……」
「俺の家内だ」
「あ、ああ……。すいません」
「いや。あ奴もこの数日間、貴様らの介抱につきっきりだったのだ。大目に見てやってくれ」
米を山盛りにして突き出された碗を、少し躊躇い、ヨルは受け取った。
「すみません。……いえ。ありがとうございました」
「うむ」
そしてヨルは、自分が病を貰ってから3日目に、ついに意識を失ったこと。
何とか薬の精製が間に合い、5日目には病は消え去ったものの、そこから更に丸1日、眠り続けていたことを聞かされた。
「ったく情けねえな、ヨル。俺らなんかとっくに目ぇ覚ましてたってのによ!」
「ぎゃっはは、馬鹿言ってんじゃねえよガオ! てめえ起き上がった瞬間ひっくり返って頭勝ち割ってたじゃねえか!!」
「てめえは起き抜けに酒かっくらって胃液ぶちまけただろうが!」
「仲いいじゃねえかお前ら……」
もそもそと米を頬張るヨルが、呆れた目で目の前の獣人たちを見る。
そこには、欠片ほどの蟠りも見て取れなかった。
「お前ら、少しは静かに食わんか」
苦言を呈するヘイシンに軽口で返事をしながら、変わらずの調子で飲み食いを続ける三人に、ヨルの頬が緩んだ。
溜息を一つ零し、湯呑を傾けたヘイシンに、ヨルが躊躇いがちに尋ねる。
「あの……」
「なんだ」
ヨルが辺りを見渡しながら問うた。
「みんなはどうしてますか?」
「みんな?」
「あの、メリィ・ウィドウのみんな。……それに、聖騎士の二人も。一応、目が覚めたこと、伝えに行かないと」
「その必要はない」
「は?」
ばっさりと言い切ったヘイシンを、ヨルが怪訝そうに見上げる。
そしてヘイシンは、事も無げに告げた。
「奴らならもう帰った」
「……はい?」
ちょうど一日前のこと。
ヘイシンは、ヨルの体からあらかたの菌が死滅したことを確かめたジンゴから、ヨルの回復を待たずに街を去ることを告げられた。
何もそう急くこともないだろうとは言ってみたものの、元々の仕事の納期があると言われてはヘイシンに返す言葉のあるはずもない。
聖騎士の二人はやけに神妙な態度でそれに従い、最初は大いに渋っていたアヤとヒカリも、有無を言わさぬジンゴの態度にやがては諦め、結局は全員で連れ立って街を去った。
「ぜ、全員ですか……?」
そして、街と山を救ってくれた礼にと雄体の白澤羊の毛皮を差し出したところ、それを固辞され、いくつかの雌の毛皮を持って行ったこと。
現金で残されたヨルの分の報酬と、魔力回復の強壮薬、また、ゆっくり養生してこいとの言伝を預かっていることなどを、ヘイシンはヨルに語って聞かせた。
ヨルの肩が、がっくりと下がる。
「マジか……」
「ぎゃっははははは、こいつ置いてけぼり食らってやぁがる!」
「ざまあねえな!」
「残念でちたね~」
「僕ちゃん寂ちいでちゅ~、ってかあ!?」
ヨルの眼が一瞬で赤く濁り、闇が翻った。
「喧嘩売ってんのかてめえら!!」
「ふぐむっ」
「!? おいこら! こんなとこで魔法使うやつがあるか!」
「上等だ、酒持ってこい!! てめえら全員ぶっ潰してやる!!」
「はあん!? 言いやがったなこの野郎!」
「やんのかごらぁ!!」
ごん! ごん! ごん! ごん!!!
「落ち着いて。飯を。食え」
「「「「あ、あい……」」」」
……。
…………。
「ジンゴさん……」
「どうした」
「私は、……どうしたらいいのでしょうか」
「何の話だ」
「父に、どう報告すればいいのでしょう」
「何を言っている。最初の予定通りに言えばいいだろう」
「しかし!」
「しかし?」
「…………私は。その」
「迷ったか、ハズキ」
「……はい」
「お前の父の意向は、既に伝えた通りだ。何を迷う?」
「……」
「……」
「私には、分かりません」
「何がだ」
「私は、サイオンジ家に、報いることが出来ませんでした。兄と違って、私には聖騎士の社会で生きる才能がない。父には随分、落胆されてきました」
「うむ」
「それでも私は、自分の信じる道を、正しいと思える道を、歩み続けて来ました。それが、出来損ないの私に出来る、せめてもの報恩と信じてきました。そんな私に、父はチャンスをくれたのです。『真に正しい行い』をするチャンスです。私はそれを、果たしたい」
「では、何を迷う」
「…………分かりません。私には、一体、何が正しい道かなど。私には……」
「ハズキ」
「……ジンゴさん?」
「案ずるな」
「…………え?」
「務めを果たせ。そうでなくては、物語が進まん」
「物語?」
「そうだ。俺にも、お前にも、綴るべき物語がある。あの二人にも」
「しかし……」
「だから、案ずるなと言った。いいか、ハズキ」
「はい」
「俺は、お前の味方だ」
「……」
「……」
「………………うぅ」
「おい、泣く奴があるか」
「だって。……だって」
「ふん」
「ジンゴさんが、そんなこと……言うなんて……」
「……俺は、優しい人間なんだそうだ」
「ええ?」
「何でもない。忘れろ」
……。
…………。
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