黒い影が奔り来る
「やばいやばいやばいやばいやばい!!!」
「あ、アヤさぁぁぁぁぁん」
「とにかく走って、ヒカリちゃん!」
「置いてかないで下さいぃぃぃぃ」
「そっちこそ早く追いついてよ! 一人だと狙われちゃうんだってば!」
「そんなぁぁぁぁ」
「ああ、もう!『踊雀』!」
赤く輝いたアヤの拳が、眼前に迫り来る灰色の魔獣を殴り飛ばす。
吹き飛ばした端から新たな魔獣が襲いかかる。
しかし、今はそんなものに構っている余裕はないのだ。
ぎぎゅ、っぎぎぎ。
ぎゅああああああああああああ!!!!
先程二人がかりで追い払った群れの鳴き声が錆びたバイオリンだとしたら、今聞こえるのは錆びたフルオーケストラの演奏だった。
低音と高音が混じり合い、頭の奥と腹の底に深く響く不協和音が、二人の背後から迫り来る。
ぎし。
ばきばきばき。
枝葉を幹ごと薙ぎ払い、迫り来る。
ぎょおわああああああああ!!!!
その、威容。
広げた翼は天を覆い、絶叫を迸らせる口は地獄の釜のよう。
ぐつぐつと煮え滾るように光る黄色の目。
灰色の斑の、漆黒の体毛。
胴体だけで2メートルはあろうかという巨体を支える風力を生み出す桁外れの筋力と、その羽ばたきが齎す猛威に、森が破壊されていく。
牙が、鉤爪が、白銀に濡れ光る。
その捕食者は、母体・迦楼羅蝙蝠。
がきん、と、その牙が打ち鳴らされると、一際大きな羽ばたきと共に、爆風が地面を駆け抜け、前を逃げる二人の背を打った。
「きゃあ!」
思わずつんのめったヒカリを更なる悪寒が襲う。
その頭上に影が重なるのと、咄嗟に横っ飛びに避けたのはほぼ同時。
数瞬前までヒカリがいた座標を、巨大な鉤爪が抉りとった。
腐葉土が高く舞い、視界を濁す。
「ヒカリちゃん!?」
アヤの声が巨体の影に阻まれる。
「大丈夫です!」
何とかそれだけ叫ぶと、ヒカリは聖気を込めて、その背中に木剣を振り下ろす。
しかし、再び振るわれた翼が巻き起こす爆風に姿勢を保てず、後ろに転がされる。
受身を取って再び構えを取る頃には、巨体は既に空中にあった。
ぎょわ。
ぎょわわっぎわわわわ
二三度の羽ばたきと共に、黒い影が数滴地面に降り注ぐ。
こぽり、こぽりと泡立つように、そこから新たな迦楼羅蝙蝠が生まれる。
きゅあああああああ
生まれた端から襲いかかる灰色の魔獣をヒカリが振り払う。
そこに振り下ろされる、死神の鎌のような鉤爪。
辛うじてガードが間に合うが、圧倒的な体重差に吹き飛ばされ、腐葉土の地面を転がる。
「くぅ」
顔を顰めながら立ち上がったヒカリが見たものは、赤く尾を引きながら巨大な魔獣に躍りかかるアヤの姿。
「いい加減に、しなさいっ!!!」
空中で縦に回転。
540度で振るわれた真紅の踵落としが魔獣の眉間に突き刺さる。
しかし、
「うわああっ」
呆気なく弾き飛ばされたアヤの体が宙を舞う。
体勢を整え着地。
ヒカリが駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「あたた……大丈夫じゃないかも」
二人の視線の先には、石のようにひび割れた蝙蝠の頭部。
いや、その頭が、本物の石に変じている。
「硬化魔法……嘘でしょ」
アヤの呟きをその羽音で消し去りながら、再び蝙蝠が宙に舞う。
いつしか罅割れは消え去り、元の灰色斑の黒色の体毛に戻っている。
「ま、魔法、効かないんですか!?」
狼狽えるヒカリにアヤが低い声で返す。
「『火生土』よ。効かないってことはないけど、私の魔法じゃ相性が悪いわね」
その額を冷や汗が伝う。
「ど、どうすれば……」
「やっぱりここは逃げるしかなさそうね」
「あ、アヤさん、私……」
「何覚悟決めましたみたいな顔してんの! 一緒に逃げるのよ! ほら、閃光で目くらまし!」
「は、はいっ」
ぱん、とヒカリの手が打ち合わされる。
「『急ぎ定めの如くせよ。架かるは虹。破魔の御手』!」
眩く輝く狩猟弓。
「いっけええええええ!!!」
引き絞られ、放たれた聖光魔法が地面に突き刺さり、閃光と共に爆発した。
アヤの狙い通り、光の後に立ち込める白煙が周囲を覆い―
「よしっ。行くよ、ヒカリちゃ……あ」
そして、予想外の一撃が、アヤの脇腹に突き刺さった。
「アヤさん!?」
駆け出したヒカリが振り返ると、そこには蹲るアヤの姿と、その右脇に頭部をめり込ませた小型の蝙蝠。
「う……ぐ」
横隔膜を突き上げられ一気に機動力を奪われたアヤに次なる一撃が襲いかかる。
ぎぎゅわああああ
振るわれる大翼。
楽々と吹き飛ばされる体。
木の幹に強かに打ちつけられ、アヤの体が腐葉土に沈んだ。
「あ、アヤ、さ……」
アヤの体は動かない。
その身体に、小型の蝙蝠が群がっていく。
(食べ……)
ヒカリの頭が真っ白になる。
「駄目えぇぇぇぇぇ!!!」
慌てて駆け寄り、木剣を振り回す。
ぎぎっ。
じじじ。
それを嘲笑うように灰色の魔獣は宙に舞い、その背後に、漆黒の大魔獣が浮遊する。
ぎょわわわ
じじゃ
じゃららららららら
倒れ伏したアヤの額から血の筋が垂れている。
ヒカリの全身がガクガクと震える。
怖い。恐い。逃げなきゃ。駄目。やだ。助けなきゃ。薬草。間に合わない。魔法。使えない。やだ。アヤさんが。助けなきゃ。立って。剣を。恐い。恐い。誰か。寒い。
明滅する思考は滝のように流れ形をなさない。
目の前にあるのは、
蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。
蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。
蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。蝙蝠。
ヒカリの目から火が消えかけ。
巨大な蝙蝠がその鉤爪を振り下ろした、その時。
『動きが雑すぎる。計画性がない。ちょっと脅かすとすぐに焦る。戦場なら3秒で死ぬね』
ヒカリの頭に、嗄れた鈴の声が小さく響いた。
『何だい、赤ん坊。また来たのかい』
『あんたね、危ないことするんじゃないよ』
『泣き虫は治らないねえ、レイファ』
厳しい声。
優しい声。
そして、寂しそうな声。
ヒカリの瞳が、熱く燃えた。
「うああああああああああああああああ!!!!!」
渾身の聖気を込めて、木剣を振り切る。
ぎゅがあ!!
深緑の闇に咲いた大輪の陽光に、巨大な魔獣の悲鳴が掻き消える。
閃光が消えると、そこにあったのは、強い目で光り輝く剣を掲げる少女と、しゅうしゅうと白い煙を上げる鉤爪をだらりと垂らして宙に浮かぶ巨大な蝙蝠の姿だった。
ヒカリは震える心を剣の柄ごと握り締めて、必死に自分に言い聞かせる。
落ち着け。焦るな。
必要なのは、勝利条件と、それを得るための手段。
それを実行に移す心と力。
揺るがない心意。
聖気とはすなわち『陽』の魔力。
それは、『高潔』を表し『解放』を司る力。
その能力はあらゆる魔力の分解・拡散だ。
その存在を物質以上に魔力に依っている魔獣は、聖気に触れただけで自身の存在を保てず、体組織が崩壊する。
ならば、眷属の蝙蝠を片っ端からこの木剣で切り払えば、あの巨大な魔獣の力は失われていくはず。
そして思い出せ。ジンゴが言っていた。自分の魔力は神話級の魔獣に匹敵する。
災害級の魔獣がなんだ。
私は勝つ。
戦って勝つ。
アヤさんを守る。
おばあちゃんも助ける。
「私は聖騎士。ヒカリ・コノエだ!!!」
……。
…………。
そして。
長い戦いが始まった。
母体の蝙蝠はヒカリの力を畏れて自身では攻撃を仕掛けてこなくなった。
その代わり、その体から滴る魔力より、次々と小型の眷属を生み出し、ヒカリに襲いかからせる。
ヒカリはそれを打ち払う。
ヒカリの足は動かない。
木の根元に倒れ込んだアヤを庇うように仁王立ちし、軸足を杭のように地面に固定したまま右に左に、袈裟に逆袈裟に木剣を振り切り、自身に襲いかかる蝙蝠を撃退する。
お互い、長期戦の構えだ。
母体の蝙蝠は消耗した魔力分、体が一回り小さくなっているように思える。
確実にその魔獣の力は削がれている。それは確かにヒカリの戦果だった。
対するヒカリは―
「はっ。はっ。はっ」
掠れる吐息。額には冷たい汗。右腕のローブは切り裂かれ細い素肌には、いくつかの青痣。左目は額から流れる血に塞がれ開いていない。
背中は曲がり、膝は震え、剣先は下がっている。
ただその片目と剣身だけが、依然強い輝きを森の中に放ち続けていた。
「うああ!」
木剣の重量にさえ振り回されるように陽光を撒き散らし、新たに二体の蝙蝠を無力化する。
それを見た母体の蝙蝠は、大きく翼を打ち付け高く舞い上がると、それまでとは違う、一際高い音域で鳴き始めた。
ぎききき。
きわわわわわわわ。
それは澄んだ音となって森を奔り抜け、数秒後、無量の羽音となって帰ってきた。
きちききちきちきちきちきちきちきちきちきちきち。
きちきちきちきちきちきちきちきちきちきちきちき。
「な……あ……」
ヒカリが絶句する。
森中に散らばっていた残りの蝙蝠たちが、その鉤爪に兎を抱え、狐を抱え、鹿を抱え、熊を抱え、母体の元に集った。
喰らう。
獲物を捧げる眷属ごと、母体が贄を食らっていく。
がつがつと。
ぼりぼりと。
「ひ……」
その凄惨な光景に息を飲むヒカリの前に、最初に見たよりも更に一回り膨れ上がった巨大な魔獣が姿を現した。
ぎぎ。
ぎじじじじじ。
ぎぎゃああああああああああああああああああああああ!!!!!!
咆哮に、森が震える。
その絶叫に併せて絞り出された黒い影から、再び蝙蝠が溢れ出す。
先程ヒカリが与えた鉤爪へのダメージは、当然のように治癒している。
ヒカリはそれを見て、更に強く剣の柄を握り締めた。
(アヤさん。おばあちゃん。ジンゴさん。マーヤさん。カグヤさん。お母さん。お父さん。養成校のみんな。ミツキさん。私、諦めません)
ぎゅわおおおああああああああああああああああああああ!!!!!
(でも、今度こそもう、……駄目かも)
その時。
ぞくり、と、ヒカリの背筋を更なる悪寒が奔り抜けた。
氷点下の水を流し込まれたような。
体が、魂が、地の底に沈み込むような。
怖しく。
そう、恐ろしく馴染み深い悪寒が。
ヒカリの手から力が抜け。
その頭に一体の蝙蝠が齧り付こうとしたと同時。
その顔に、濃茶の革靴がめり込んだ。
それは、太陰の魔物。
皓い肌。
玄い外套。
墨を流したような艶なしの髪。
アヤの放つ光とは違う、血の滲んだようなどろりとした赤い眼。
漆黒の風に乗り。
血霧を巻いて顕れた。
夜の王の姿。
「き、吸血鬼……?」
メリィ・ウィドウの便利屋・ヨルが、深緑の森に降り立った。
……。
…………。




