雲の流れるように
「あっはは。それは無理よ、ヒカリちゃん」
「えっ」
街の工業区の西に広がる果樹園で、何人かの女性たちが枝を切っている。
その合間をひょこひょこと動き回り、落ちた枝をかき集めて纏めているのは、便利屋見習いのヒカリである。
昨日パウンドケーキを届けに行った際のシャオレイとのやり取りを聞いた獣人の女性―黒い猫の耳を生やしている―が、苦笑して言った。
「シャオレイさんはね、昔は獣王国の戦士長だった人なのよ?」
「ええ!?」
ヒカリがどさりと枝葉を落とした。
「もう何十年も前の話だけどね。数多の戦場を、文字通りに駆け巡った歴戦の勇士。『疾きこと風の如く』ってね。私も憧れてたわ」
「ふええ。すごい人なんですねえ」
「あの人が本気で逃げようと思ったら、街の人総出だって捕まえられないわよ」
「むむむ」
「ああ、ほらヒカリちゃん、枝っ葉落としてる」
「あう。す、すみません……」
慌てて仕事を再開するヒカリを余所に、獣人の女性は次に切る枝を探す顔を、思わず、といった風に綻ばせた。
「ふふ。でも、わざわざ相手をしてくれたってことは、シャオレイさん、ヒカリちゃんのこと気に入ってくれたみたいね」
「そうなんですか?」
「あの人、あんまり街の人と関わろうとしないから……」
「はあ」
「あのね、ヒカリちゃん。シャオレイさんは……」
……。
…………。
そして、翌日。
「ま、参りましたぁぁ〜」
ふにゅうぅ、と気の抜けた声を上げて、ヒカリが地面に突っ伏した。
「百年早いと言っただろうが、赤ん坊」
一昨日と同じポーズで、シャオレイがそれを見下ろす。
切り株に置かれた、砂の落ちきった砂時計を掲げ、眉間に皺を寄せる。
「動きが雑すぎる。計画性がない。ちょっと脅かすとすぐに焦る。戦場なら3秒で死ぬね。出直して来な」
「は、はふぃぃ」
「やれやれ」
シャオレイは溜め息を一つ、小屋に入ると、湯を沸かし始めた。
その日、日課となった朝の鍛練を終えたヒカリは、ニコニコと笑顔を浮かべながら、小川沿いの道をてくてく歩いた。そして桑畑のうねり道をなぞるように歩き、燕脂色の屋根のログハウスに辿り着くと、
「おはようございます!」
名前の通りに光るような声で挨拶をした。
花壇に水遣りをしていたシャオレイが面倒くさそうに振り返った。
「何だい、誰かと思ったらまた来たのかい、赤ん坊」
「はい! 遊びに来ました。今日こそその尻尾をもふもふさせて頂きます!」
「はん、懲りないねぇ」
やれやれ、と腰を上げたシャオレイは、花壇の脇から大きな砂時計を手に取った。
「悪いがあたしも暇じゃあないんでね。今日はこいつが落ちきるまでだ。制限時間内にあたしの服を掴めたらあんたの好きにするといい。ただし、それまでに掴めなければ庭の仕事を手伝ってもらうよ」
意地悪く笑みを浮かべたシャオレイに、一瞬きょとんとしたヒカリだったが、直ぐにまた、ぱっと明るい笑顔を作った。
「そういうことでしたら、先にお庭のお手伝いをさせてください。制限時間はそのままでいいですので、お手伝いが終わったら、挑戦させてください!」
今度はシャオレイがきょとんとする番だった。
「何だい、そりゃ」
「私、いつもそうしていますので!」
「あん?」
「さあ、何でも言いつけてください! 見事やりおおせてみせましょう!」
「おかしな赤ん坊だねぇ、全く」
そうして。
水遣りやら薪割りやら、鉢の植え替えやら、ヒカリは言われるがままくるくると働いた。そこは当然ヒカリのことであるので、八面六臂とはとてもいかない仕事ぶりであったが、シャオレイは文句たらたら、結局日の昇りきるまでヒカリをこき使った。
「それでは、改めて勝負です、おばあちゃん!」
「ふん。いいだろう。かかってきな」
結果は一昨日の光景の焼き直しである。
今回は短期決戦とあってヒカリは最初から最後まで全力でシャオレイの服の端を捉えにかかったが、時に円を描き、時に直線的に、時には立体的に、それでいて静かで無駄のないシャオレイの体運びに、全く歯が立たなかった。
やがて時計の砂が落ちきると同時、ヒカリは最後の特攻をすげなく叩き落され、力なく地面に伸びきったのだった。
湯を沸かす音を何処か遠くに聞きながら、ヒカリはごろんと転がって空を仰ぐ。
今日も風が強い。
空の高くを、もこもことした柔らかそうな雲が流れていくのが見える。
あーあ。
空に手を伸ばすと、とても届かないその雲の塊が、シャオレイの尻尾のように思えた。
シャオレイは速い。
そしてただ速度が速いだけではない。
爪先から頭の天辺、指の一本一本まで計算され尽くしたかのような精密な動き。こちらの一挙手一投足を見逃さない目。タイミングを計る呼吸。地形を活かした動き。
ヒカリの手が、足が、動く時にはもう既にその対応をされている。ちょっとでも油断するとすぐに視界から消え、気づくと背後に立たれて、転がされる。
動きの予測をしようにも、円の軌道に慣れれば直線で躱され、それに慣れれば宙を跳び、地に沈み、捉えどころのない動きはまさに雲を掴むよう。
あれで御年80過ぎだというのだから恐れ入る。
いつもならとっくに悔しさで泣き出しているだろう自分だが、あまりの実力差に最早涙も出てこなかった。
「やっぱり私じゃダメなのかなあ」
「何がダメだって?」
「ひゃい!?」
ぽつりと呟いたヒカリの言に、盆にお茶を乗せたシャオレイが問いかける。
ヒカリは慌てて飛び上がると、お土産に持参していた干菓子をテーブル代わりの切り株に広げた。
「全く、あんたが全部片付けちまうから、あたしのやることがなくなっちまったよ。責任とってババアの茶飲み話に付き合うんだね」
「えへへ。はい!」
湯気の立つマグカップを小さな両手で抱くように持ち、ヒカリは笑った。
……。
…………。
「全く、マーヤの小娘にも困ったもんだ。大体あいつはヨルの小僧を甘やかしすぎなんだよ」
「仰る通りです!」
「あの新聞屋の小娘はなかなかいい記事を書くじゃないか。外の様子が知れるのはこの街の連中にとっちゃありがたいだろうね。まあお前さんのことを知ったのもその新聞のおかげなんだけどね」
「あ、あうあう」
「ミシェルの店に行ったのかい。全くエルフってのは嫌な種族だね。こっちは年取りゃ取った分だけしっかり見た目に出るってのにね。まああいつの飯も最近はようやく食えるようになってきたがね」
「美味しかったですよ、ミートスパ」
「あの曖昧屋に言われて素材の採取にかい? あんたね、危なっかしいことをするんじゃないよ、よちよち歩きの赤ん坊の癖に」
「そ、そこまでじゃないですよう……」
「カグヤの小娘、いや、あいつに限っちゃ大娘だね。あいつもあれで昔は苦労してたのさ。多少構い症な所はあるが、多めに見てやるといい」
「はい。すごくいい人です!」
……。
…………。
やがて二杯目のお茶も冷めてくると、二人の影もすっかり伸びきり、切り株が橙色に染まり始めた。
「やれやれ。久しぶりにべらべらと話しすぎたね。何だか疲れちまったよ。ほら、暗くなる前に、もう帰んな」
「あ、はい。おばあちゃん、長々お邪魔しちゃって済みませんでした」
「あんまり、ここには来るんじゃないよ」
「え?」
帰り支度を始めたヒカリに、シャオレイは背を向けたまま言った。
「あんた、聖騎士で、便利屋見習いなんだろ。こんな枯れかけた場所で、無駄に時間遣ってるんじゃあない。あたしもいつまでも赤ん坊の遊びに付き合ってやる程出来た人間じゃないしねえ」
冷たい言葉。
でも、ヒカリには、それが何だか寂しそうな言葉に聞こえたのだ。
ヒカリは震える心を力いっぱい握り締めて、勇気を絞り出した。
「でも私、まだ諦めてませんから!」
「あん?」
「尻尾、必ずもふもふして見せますから!」
「本当、オカシな赤ん坊だよ、あんたは」
ヒカリは深々お辞儀をすると、小走りに桑畑を去っていった。
……。
…………。
「ここが昔、獣王国の領土だったのは知ってるでしょ。シャオレイさんはその頃からの街の住人でね」
「戦士長の仕事を引退して、家庭を持って、子供を育てて、孫が出来て、そしてそれを全部、戦争に取られちゃったのよ」
「カグヤさんたちがこの場所に来たとき、快く街の復興を認めてくれたわ。だけど、自分が旦那さんと暮らしたあの場所だけは、決して触らせてくれなかった」
「もうあのログハウスも相当痛んでるのよ。ヨル君が頑張って直してくれたんだけどね」
「家の横の大きな枯れ木、見たでしょ。あれ、桜の木なの。毎年、ちょっとだけだけど花を咲かせてくれたんだけど、ついに数年前、蕾もつけなくなっちゃってね」
「『こいつもあたしと同じさ。いや、あたしがこいつと同じなのかね』なんて言っちゃってさ。口を開けば悪態ばっかりだけど、あの時は流石に寂しそうだったわ」
昨日、獣人の女性から聞かされた話を、ヒカリは思い出していた。
戦争で家族を失って。
それは、この街の人全員に言えることなのだけど。
戦争を知らずに育ったヒカリには、何一つ想像が出来ない。
自分が亡くなったお孫さんの代わりになるなんて、そんなことを思ってはいけないことぐらいは分かる。
自分が何か言えることもない。
何かできることもない。
ちっぽけな両手を広げて、ヒカリは涙ぐみ。
その両手を握り締めて、ごしごしと顔をこすった。
顔を上げる。
胸を張って。
明日も会いに行こう。
お土産は何がいいかな。
そんなことを考えて。
そして、翌日。
ヒカリは、ログハウスの台所で、割れた二客のマグカップと、その横に倒れているシャオレイを見つけたのだった。
……。
…………。




