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夜の王は静かに暮らしたい  作者: lager
プロローグ
1/156

二つの夜の話

 冷たく湿った夜気が木々に染み入るような晩だった。

 薄くかかった雲の奥から真白い満月がとろとろと淡い光を零している。

 風はなく、木の葉の囀りも聞こえない、静寂の街。

 石畳の通りに並ぶ家屋の中、四つ辻に面した真新しい家―そもそもこの街の建物は皆一様に新しいのであるが―の二階の窓から、一人の女性の姿が見える。


 背中まで伸びる玉蜀黍色の髪は艶を失い、目尻の垂れた青藍の瞳には深い憂いが見て取れる。身に纏った夜空の色をした品の良い寝巻きも、それが包む背が曲がり肩に力もなくなれば、どこか精彩を欠いた印象を受ける。

 年の頃は40を過ぎるかどうかという女性は、質素な部屋の片隅にかけられた写真をぼんやりと見つめ、冷たい春の夜に独り佇んでいる。


 日々の生活に飽いた中年の女。

 そんな言葉に一括りにしてしまえば、彼女を包む倦怠と憂鬱も無味な記号に帰せるだろうか。


 女は、ふ、と顔をよじると、月光の漏れ入る窓に目を遣った。

 何か物音が。

 いや、何も聞こえはしない。

 ただ月の光が、薄く窓の桟を照らすだけ。

 女は夢に浮かされたような足取りで窓辺に近づいていく。

 濡れたように照る窓ガラスに手を置くと、しん、と冷えた外気を伝えてくれる。


 その掌に、別の掌が重なった。


 女はびくりと肩を震わせ後ずさる。

 いつの間にか現れた大きな右手―指が長い、白く大きな手―が、窓ガラスの向こう側にぴたりと貼り付いていた。

 見えるのは掌だけ。

 音もなく。

 月明かりが凝ったような青白い肌の掌が、五本の指をガラスに押し付け、守宮のように吸い付いている。

 やがてその手は指を折り曲げ、窓ガラスを優しく掻き始めた。


 すぅ。すぅ。


 筆で掃くかのような微妙な動きで、五本の指先がガラスの上を往復する。

 乞うように。

 誘うように。

 求めるように。

 やや伸びた形の良い爪がガラスに触れる時だけ、かつ、かつ、とあるやないやの音が鳴る。


 それを見た女は、一瞬の狼狽が嘘のように、表情を亡くした顔で再びぼんやりと窓に近づくと、震える手で錠を回した。女のかさついた手の甲が月光にさらされ、その指先が窓の取っ手にかかり、横に引かれる。

 湿り気を帯びた春の夜気が優しく部屋を満たし。

 女の鼻腔を花の香が通り抜けた。


 窓の外に、手は無かった。


 ただ月の輪が、とろりとろりと青白い光で通りの向かいの建物を照らすだけである。女は、ほう、と溜息を一つ零すと、大儀そうな素振りで窓を閉めた。

 後ろを振り返る。


 そこに、男が立っていた。


 先程まで間違いなく女ひとりであった部屋に、さも当然のように直立する男。

 背は高く、体は細い。黒い外套に身を包み、俯き気味に女を見つめる。耳にかかる程度に伸ばされた黒髪から覗く肌は、病人のように皓い。

 男はただ、立つばかり。

 それを見て、


 女は、笑った。


 すう、と口の端が上がり、瞳は濡れ、少女のような無垢な微笑みで男と向き合う。

 足取りは軽く。

 やがて二人の距離は縮まり。

 男の口元に、

 ああ。二本の牙が覗いている。

 花の匂いと、

 月の影に、

 女の部屋が閉じていく。


 ……。

 …………。



「吸血鬼?」

「そ。夜の王様。不死の魔物。生き血を啜る人食いの怪物」

「ヴァンパイアってこと?」

「ばん、ぱ……?いや、それが何か私は知らないけど」

「また出たよ、ヒカリの謎知識」

「あああ、ゴメンゴメン。それで、吸血鬼が何だって?」

「最近出るらしいのよ」

「出るって、何処に?」

「そこいらじゅうよ」

「そこいらじゅう?」


「そそ。流石にこの聖都には出ないけど、帝都でも、港都でも、そこいらの小村でも、至るところで噂が立ってるらしいわ」

「噂って?」

「朝起きると女の人の首筋に二つ並んだ虫刺されの跡があってね、その女の人はその日のうちに姿を消してしまうんですって。そんなことがもう何件も」

「それ、人拐いじゃないの! 帝国騎士は何やってるのよ」

「それがね、ただの誘拐とも思えないのよ。ある所ではね、その傷跡を見た女性の夫が慌てて聖水を飲ませたら、その人はいなくならなかったらしいの」


「つまり、黒魔法が使われた形跡がある…?」

「しかも、記憶を消されていたらしくって、それも一緒に思い出したそうなの。寝室に独り寝ていた所を、窓から男が顔を見せてきてね、自分でも分からないうちに窓を開けるといつの間にか男が後ろに立っていて、首筋にちくりとした痛みを感じた後は、もう何も覚えていないと……」

「ベ、ベタな……」

「ベタ?」

「う、ううん、何でもない何でもない」


「そう? とにかくね、そういう話が―」

「……ちょっと待って。その人、旦那さんいるのよね? 何で寝室で独りだったの?」

「え、そっち?」

「確かに」

「それは……」

「怪しい」

「不倫ね」

「外泊ね!?」


「ま、待ってよ、そうじゃなくて―」

「大体あんた、その話どこで聞いたの?」

「それは、その……行商のおじ様に」

「あんたまたやったの!?」

「乱れてる。風紀が乱れてるわ!」

「詳しく話を聞かせなさい!」

「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて」


「え、えぇっとぉ……」

「ヒカリ。あんたはずっとそのままのあんたでいてね」

「いくら田舎街に赴任になったからって、グレちゃだめよ」

「や、やだな、大丈夫だよ。大体、田舎っていっても、新しい街なんでしょ?」

「そ、そうよ! ヒカリよ」

「何よ。不良娘」


「だから、一応領土上は聖国の街とはいえ、そんな僻地じゃ教会の加護が働かないかもしれないわ。だから私、ヒカリに気をつけてねって言おうと思って!」

「あー」

「まあ、そうねぇ」

「え?」

「ヒカリ。見ず知らずの男には話しかけられても返事しちゃだめよ」

「ただで貰えるお菓子はないんだからね」

「ちょっと仲良くなったからって、男と二人きりになっちゃだめよ」

「え?え?」

「酒場には行っちゃだめよ」

「近道しようと思って裏路地とか入っちゃだめ」

「常に警報器を身につけてね」

「待ってってば! 子供扱いしないで!」

「違うわ。『ヒカリ扱い』してるのよ」

「ヒドイことを言わないで!」


「酷いのはあんたの危なっかしさよ」

「この御時勢、5歳児だってもう少ししっかりしてるわ」

「私たちがいなかったら、あんたとっくに死んでるか奴隷にされてるかよ?」

「うぅ……みんなにお世話になったのは確かだけども!」

「まあまあ、みんな。大丈夫でしょ、なんだかんだ試験はクリア出来たんだから」

「今世紀最大の奇跡だったわね」

「き、奇跡でも何でも合格は合格だもん! 私だってもう聖騎士なんだからね!? 吸血鬼なんか怖くないんだから!」

「そうね。聖水が効くってことは、ヒカリに害はなせないでしょ。聖気の強さが唯一の取り柄なんだから」


「それに、ヒカリならなんだかんだで住民の人とも仲良くできるわよ」

「そうね。なんだかんだね」

「釈然としない……」

「ヒカリ。みんなあんたのこと心配してんの。」

「知らなかったかもしれないけど、みんなあんたのこと大好きなのよ?」

「独りで寂しくなったら、いつでも連絡してね」

「寂しくなくても連絡してね」

「あ、ありがと……」

「さ、もう寝ましょ。明日は朝から忙しいわ」

「やだやだ。最後のお勤めか」

「おやすみ」

「おやすみー」


「……みんな、ホントにありがとね」

「寝なさい」

「うん。おやすみ」

「はい、おやすみ」


 ……。

 …………。


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