寒い冬、モミジの思い出
ほのぼのとしたものが、書けてれば良いですが……。
九州の北部地方は、風が強く冬場は体感温度がかなり下がる方だろう。
俺の初めての恋は、そんな寒い冬の小学校で起きた。
無風ではあるが、気温はかなり低い冬のある日。
市内でも有数のマンモス小学校、正門を潜れば直ぐ左手に体育館が在り、右手には広いグラウンドも在る。休憩時間には、児童達が表に繰り出して元気に走り回る姿が見れるのだが、今は居ない。
校舎の数は、新旧合わせて四棟がほぼ並列に立ち並んでいる。
塔では無いのに、何故か『放送塔』と名付けられた建物には、巨大な時計が設置されて児童達に時間を告げていた。
時は昼休み━━。
児童達が、白い割烹着を着て自分たちの教室へと給食を運んで行く。
その給食が並べられる建物は一番奥に、そしてこの校舎の中で最も老朽化が進んでいる建物で、PTAからは衛生上問題ありと何度も指摘を受けていた。
木造の造りで、長細い形状の建築物の床には各学年毎棚が分かれ、その中は更に、各クラス毎の表示がなされていた。高学年は特に問題無いが、低学年の方は重たい物がある日は、下段に置く様に指導されている。
そして……、今日は重量物がある日だ。
重量物の日は前もって分かっているから、低学年生も複数で大きな金属容器を持って、教室へと運んで行く。
何も問題無い様に……、見えていたが。
一番隅に、小柄な女の子が一人ポツリと棚を見詰めて立っている。
何を見詰めているのか?、その視線を辿っていくと給食棚の中には、金属容器の重量物だけが残されていた。食器の担当や、副食の担当の児童はもう既に姿を消し、彼女だけが取り残されていたのだ。
高学年の生徒ですら、その容器を持つのに必ず二人で運ぶ、低学年だと三人から四人で運んで行くのが普通だ。
しかし何故か彼女は一人で立って、容器を見詰めている。
彼女の名は、『絵美』クラスでも最小に近いほどの小柄な少女だ。
この少女に、あの金属容器を運べる道理は無かった。
だが、何時までもメインの給食が来ないと、彼女は他の児童から罵声を浴びる事に成ろう。
今……、絵美は窮地に立たされている風にしか見えない。
その姿を先程から、じっと見詰め思案している者が居た。
俺は絵美の見詰める容器より、遥かに小さな容器を持って彼女を見詰めていた。
小一の頃の俺は、給食棚の前で一人取り残されて行く彼女が気に成り、その様子をじっと見続けていたのだった。今から思えば、そう成る前に他の児童を捉まえて、手伝わせるか変わって貰えば良かったのだろうが、その時小一だった俺は考え及ばなかった。
その日は特に気温の低い日で、彼女は次第に震え始めた。
建屋の中と言っても古い物のせいで、風の弱い日でも隙間風がかなり身に沁みる。
白い息を吐き手を暖め、両脚を寒さで震わせている姿を見て、俺は足を進めた。
彼女の前まで行くと、凄く驚いた顔をしていたのが思い出される。
「ねぇ……、これと代えて」
「え?」
俺は彼女の返事を待たずに、自分の担当していた小さな容器を彼女に渡すと、棚の中に上半身を入れて巨大な金属容器を取り出した。
重いぃぃっ!。
小一にしては随分と大柄な体格の俺でも、その容器は想像を絶する重さだったのを、よく覚えている。持った瞬間に、両手を千切らんばかりに床へと戻ろうとする容器を、必至に運び始めた。
その時の絵美の顔は、よく覚えては居ない。
まぁ、多分呆れた顔をしていたに違いないが、そんな事を気にする余裕は無かった。
両腕を引き攣らせ、両脚を強張らせながら一歩ずつ亀の様に進んでいた。
廊下を抜け、地面にタイルを埋め込んだ渡り廊下に辿り着き、その半分の辺りに来た所で力尽きて容器を下ろした。
給食室から数十メートルの辺りだ。
両手で膝を押さえ地面に届くほど白い息を吐いて、その場でハアハアと呼吸を整えていた。出発地点から目的地の教室までは、まだ三分の一程も移動していない。息が少しずつ整ってきて両手を開き見詰めると、真っ赤に成った取っての跡が付いていた。
残りの距離が果てし無く遠く感じ、やはり無理かなと思い始めた時。
後ろから、二人分の足音がバタバタと耳に届いた。
振り向くと、担任の先生と絵美がこっちへと走って来る。
先生は、まだ息も絶え絶えの俺を見詰めて、大きく溜息を尽いた。
「はぁあ、無茶する子ね、転んだらどうするつもりね?」
先生に指摘され、ハッと気が付いた。
もし途中で、転倒して給食をこぼしていたら、彼女が遅れて持って来るどころの騒ぎじゃない位、俺は徹底してクラスメイトから、罵声を浴びせられる所だった。
俺は、棚の前でポツリと立っていた彼女の姿を見て、可哀そうだから俺の持ち物と代えてやろうと、その想いしか頭に浮かばず、行動に出ていた。
悲惨な場面を想像していたら、先生はもう一言俺に言った。
「でも、君は……、とっても優しいね!」
その台詞の後、絵美は先生のスカートの後ろから顔を覘かせて、微笑んでいた。
その時の嬉しそうな絵美の顔は、いまだに覚えている。
結局、その後は俺と担任で容器を運び教室へと向かう事に成る。
後で知った事だが、絵美はあの時に置いて行かれたのではなく、風邪で休んだ児童の代わりに、先生が運ぶ事に成っていたらしく、彼女は単に先生を待っていただけなのである。
そんな事を知らない俺は、勝手に持ち物を交換して、一人でくそ重たい容器を運び出したもので、慌てた彼女が職員室へと飛び込んで担任を呼んできてくれたのだ。
真冬の昼休み、吹き曝しの渡り廊下を歩く三人の影。
そこへ……、上空から雪が舞い降りてきた。
凍えるほどの寒さの中、右手は重い容器を持ち力が入り、左手は小さなモミジの様な柔らかな手を握って、自分達の教室へと歩いていた。
絵美は小さな手で俺の手を握り、直ぐ傍にピタリと着いて来ていた。
震える寒さの中、そうならなかったのは俺の左を歩く、小さな影の御陰だろう。
時は過ぎ━━。
小学二年に上る時、絵美は転校して行った。
俺の初恋は、その時に終わりを告げた……。
ありがとうございました。