R-136 閉鎖空間でのストレス解消方法
魔族大戦を終えて400年。
すでにあの戦は歴史書の中の一つの出来事でしかない。
ヨルムンガンドの作った3つの砦は今では記念館になっている。唯一、フギン砦が南の適性生物の監視を目的に機能しているが、今では1個中隊規模に駐屯する兵力を削減している。
何度か、北を目指す生物はあったようだが、千km近い荒地を突破してヨルムンガンドの南岸に達したものはいない。
草木も生えない荒地は、それだけで生物の接近を拒んでくれる。
航宙船が定期的に海水を散布しているから静止軌道のプラットホームから眺める荒地は塩で白く輝いている。
人もだいぶ増えたが、5千万の大台に達するにはまだまだかかりそうだ。
月のコロニーの収容人員は6千万人にも達している。今ではコロニー建設用の巨大な空間を作ることが主な仕事になって来た。生産コロニーの方もあれから大きな問題は発生していない。総人口に比例した生産コロニーを建設してはいるけど、土や水を凍結したままにして封印することが多くなった。
とはいえ、月の地下は天然の冷凍庫だ。非常食は3年分も確保してあるし、アルトさん達が集めた種も地下深い保管庫に分散して保管されている。
月のコロニー群の維持管理は退役した兵士達の仕事場として定着した感じだな。今では1個大隊規模に膨らんでしまったけど、古い設備の保守交換もこの頃頻繁に行われるようになってきた。
重工業は無人化システムをバビロンのオートマタ達が組み上げてくれたから、設備更新用の部品が不足することは無い。
金属材料は鉱石ではなく金属塊で保管しているし、化学製品を作り出すためのナフサや石炭は倉庫で大量に保管されている。ここでの暮らしにそれほど資源が必要とは思えないから、連合王国の重工業10年分の備蓄で十分に思える。
そんな俺達の現在の仕事は、ユング達が中心になって行っている月の恒星間航行に必要なエンジンの設置と燃料の備蓄になる。
月での工事はユング達と嬢ちゃんずがバビロンのオートマタ1個中隊を使って行っているし、燃料の製造はユグドラシルでサイボーグの連中が従事してくれている。
直径3cmほどの球体に納められた重水素が核反応を起こした時にどれだけのエネルギーが放出されるか想像すら出来ないが、ユングの話では主力エンジンについては4基の核パルスエンジンを使うらしい。他の4か所については規模を小さくすると言っていたがそれでも複数基を設置するんだろう。
カラメル族の技術者達も戦闘員を動員して重力場駆動装置を設置しているらしい。コロニーの人工重力も可能だと言っていたから、完成した暁には地上と同じ重力環境で暮らせるに違いない。
「カラメル族の航宙船も月に着陸させるんだろう?」
「長老さんは同行するって言ってたわ。私も一緒の方が良いと思うの。せっかく知り合えた別世界の種族なんですもの」
いろいろと助けて貰えそうだし、星間航行の経験もある。常時制御室にいてもらいたいぐらいだな。
「その時には亀兵隊の解散だね」
「ちゃんと連れていくわよ。それほど苦労はしないでしょうし、彼らの指揮の高さはガルパスと共にあるからだと思ってるわ。でも、他の種族が繁栄してるんであれば、私達が入ることは無いでしょうね。そんなことをしたら私達が魔族になってしまうわ」
防衛軍の色合いを強く持った軍になるんだろうか? 精々が1個大隊程度になりそうだが、月の施設の維持管理を合わせ持てば2個大隊規模を保つことも可能だろう。
イオンクラフトなら武装は可能だろうし、バジュラとダイモスは軍用といっても過言ではない。
バジュラの大改装を行ったけど、荷粒子砲以外に新たな武装が付いていないか心配になってきた。
ダイモスだって元々は軍事衛星化した代物だから、カラメル族の重力場推進が可能となった今なら戦艦のような重武装化していてもおかしくない。それに、運用責任者がユングだというところも不安があるところだ。オタク知識は伊達ではないからな。
バジュラに対抗するためだと言いながら、得意げに新兵器を説明するユング達の姿が脳裏をかすめる。
「それに、警察組織は必要でしょうね。軍警察というよりは、皆に愛されるお巡りさんを作ってほしいわ」
「治安維持は必要だってことだね。コロニー間の対立は何としても阻止したいところだ」
そんな悲劇が起こったコロニーの話をユングがしてくれたな。
閉鎖空間で長期間暮らすのだ。星の海を一生見ないで終わる者もいるだろう。俺達の目的が何かを知らしめる安全な展望室とちょっとしたスポーツを楽しめる大型の空間も必要になるんじゃないか?
月のコロニー建設に余力のある今なら、ストレスを緩和するための施設を作ることも可能だろう。
たぶん誰もそんな考えを持たないだろうから、俺が考えてみるか。概略が纏まったところで皆の意見を聞いても良いだろう。
こんな施設なら連合王国内にいろいろとあるだろうからと、仮想スクリーンを展開して調べてみる。
種族の違いによって体力差があり過ぎるから、俺達の時代のように野球やサッカーという競技はあまり盛んではないんだよね……。
ふと、目を止めたのは運河で繰り広げられているボートレースだった。サーシャちゃんのお兄さんである次期国王のクオークさん達が作り始めた運河は連合王国の動脈として長く使われてきた。いまでは鉄道に変わりつつあるが、灌漑用の水路として今でも大事に維持されている。何度も改修されたから最終的には運河の横幅は10m近くになっている場所もある。それを使って3隻のボートが力走していた。
確か、ボートの大きさを一定にして、選手の全体重を決めたんだよな。おかげでトラ族とネコ族では2人位乗員に差が出たんだが、小さな櫂を使って漕ぐとゴールするのにそれほど差が無かったように思える。
大人と子供という組み合わせもあったし、全員女性というのもあった。種族や年齢、性別お構いなしのレースは、考えた方としてもまったく予想が付かないほどの盛り上がりを見せたし、今でも続いているようだ。
あれを取り入れても良いかもしれないな。コースさえ作れば、水の確保で済む話だ。長期的な水の浄化にも役立ちそうな気もする。
少し考えてみるか……。
どうにかまとめたレース場は横幅20m、長さ300mのプールだった。水深は2mとしたが、底砂と水草で普段は浄化水の富栄養化対策としても役立てることができる。
観客席を考えると横幅60m、高さ30m、長さは500mほど必要になってくるだろうし、付属施設や水の循環設備、大型の水タンクも必要だろう。水だけで2万t程用意することも考えねばなるまい。
待てよ、同じ水を使うなら水泳用のプールや子供達の遊べるプールもできそうだ。水はさらに必要になるだろうが、塩素を片方は使うだろうから分離するための設備も考えねばなるまい。だけど、ニーズはあるんじゃないかな?
水を使うということで、ユグドラシルの神官に概念設計を依頼してみた。
10日ほど経って送られてきたメールには、俺の予想を上回った施設の概念図が描かれていた。
ボートレース場は5コースで横幅が30mにも達していたし、長さは500mほどもある。天上の高さは50mにも達している。コースの両サイドには、10段のひな壇式になった観客席がずらりと並んでいた。観客席だけで5万人は収容できそうだ。
同じ構造でもう一つの区域が作られており、全長100mの競泳用プールと、遊ぶためのプールが作られている。水流に乗って1周300mにもなる楕円形のプールの内側には滑り台がいくつもならんでいるし、100mほどのプールでは人工的な波を作ることもできるらしい。
その中間にある施設は3層構造で上部がプールと同じフロアに位置し、その下に各種の浄化装置やポンプ類が並ぶようだ。最下層は4つの貯水槽が並んでいるが1基で1000㎥を貯留できるらしい。
いったいいくらかかるんだろうか? ちょっと心配になってきたな。
設備に使用する部材リストが別のファイルに並んでいた。かなりのボリュームに驚いてしまったが、総経費の額に二度目の衝撃が走る。
何と! タダで出来るらしい。
もう一度建設計画を眺めてみると、だいぶ長期の工事であることが分かって来た。完成までに20年とは、通常では考えられない期間だ。
そこにタダで作れる理由がある。新たなコロニー建設の速度を落として、このレジャー施設の建設に従事させるようだ。必要な機材はユグドラシルとバビロンで作れば確かにタダには違いない。
来年の打ち合わせにでも提案してみるか。
作れたら退屈しないで済むだろうし、水辺で遊ぶ他の設備も作ってみるのも良さそうだ。
翌年。レジャー施設の概念図を皆に披露したら、賛成してくれたのはありがたいのだが……。
「おもしろそうじゃな。我等が作ってやるぞ! アルト姉様にキャルミラ様も一緒で良いな」
そんな宣言をサーシャちゃんがしてくれた。
せっかく、長期的にのんびりと考えながら進められると思ってたんだが、どんな施設ができるか予想できなくなってしまった。
サーシャチャン達なら、概念設計の姿と完成した姿は別物になる可能性が高い。だけど、姉貴やユング達は肯定的なんだよな。
サーシャちゃん達の手腕が楽しみというよりも、どんなとんでもない施設ができるかを楽しみにしているようにも思える。
テーブルの対面に座っていたアテーナイ様と顔を見合わせてため息を吐いてしまった。
「アキトの意図はちゃんと分かってるからだいじょうぶよ。少し規模が大きくなる可能性はあるわね。場合によっては規模を小さくして複数建設することも考えてるかも知れないわ。何より大事なのは大量の水を蓄えられる場所ができるという事ね」
「だいぶ氷を運んだけど、まだまだ必要ってこと?」
「ええ、閉鎖空間ではあるけど、すこしずつ水や空気は減ることになるわ。ある程度は制御出来てもね」
一番の原因はコロニー外での作業によるらしい。コロニーからの出入りは全てエアロックにより行われるのだが、エアロック内の空気は外部に排出されてしまう。エアロックの規模はいくつかの大きさに統一されてはいるが、その空間の体積分の空気が使われるたびごとに減るというのは確かに問題だろう。
「コロニーの外壁と岩盤の間は窒素雰囲気を考えてはいるんだけど、実験では岩盤に吸収されるみたいなの。真空にはならないけど、かなり気圧が低い状態になることは間違いないわ」
「そうなると、コロニー外で長期間働いてもらうオートマタの集団を作らなくちゃならないってことになるよ」
姉貴の対策はコロニーの外壁を劣化させないための手段なんだろう。ガスで一定の温度を維持させるのが目的のようだが、気圧が低ければさほど効果がなさそうだ。だが、ガスを利用する手は悪くは無い。
「炭酸ガスの比熱はかなり高いと聞いたことがあるよ。でもガス圧を一定に維持するのはかなり難しいと思うけどね」
「ありがとう。少し考えてみるわ。それよりアキトの提案はユングからも出てるわよ。月面に設ける設備の維持管理に2個小隊は必要だろうと言ってたわ」
8個分隊ということか。たぶんそれだけでは対処しきれまい。できれば1個中隊規模にして、オートマタ自体の点検管理も並行して行える状態で無ければなるまい。これはバビロンと相談だな。