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254  作者: 山西 左紀
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バイクショップ コンステレーションの日常

 雨の季節が終わろうとしていた。

 ここ1ヶ月ほど居座り続けた前線は少しずつ北へと位置を移し始めていて、カンデシティーを当たり前のように覆っていた雨雲は徐々に隙間を生み出し始めていた。隙間からのぞく青い空は、まるで空色のカンバスに感性の趣くまま灰色を塗り重ねたモダンアートのようにバランスよく配置されていた。

 そのモダンアートの下、カンデシティーの真ん中を貫く3桁のナンバーを付けられた国道から、それをアンダーパスする産業道路へと下りて行く側道に面して、バイクショップ「コンステレーション」は存在した。二階建ての古い建物の一階部分にひっそりとあるその店は、大きなベニヤ板の手書きの看板を掲げた以外は何の装飾も無く、倉庫のような内装のままの店内に大型バイクばかりを並べた一風変わった作りだ。

 しかし奥に入ってみると小型のバイクや俗に言うファミリーバイクも何台かは置かれ、こまめな商いでも経営を支えている様子がみえる。店の中に人影は無く、前を走る国道の自動車のノイズだけが聞こえていた。


 コトリは「コンステレーション」に向かって自転車を走らせていた。ひょろりとした体に自分で適当に切りそろえたような“オカッパ”の黒い髪を揺らし、あちこちに油のシミの付いた白いTシャツを着て薄汚れたジーンズをはいていたが、そんな格好のことは全く気にしていない様子で、のんびりと自転車を進めてゆく。そして店の横手の路地に入って足を着かないまま自転車を壁に寄り掛からせると、前のカゴに入れていた紙袋を抱えて店の中へスタスタと入っていった。

 コトリは店内をぐるりと見渡して客の姿が見えないのを確認すると「ただいま!」と大きな声をだした。

「おう!コトリか?帰ったんならコーヒーを入れてくれないか?今、手が離せないんだ」TOILETと書かれたプレートの付いたドアの内側から男の大きな声が答えた。

 コトリは「うん。わかった」と答えると今入ってきた裏口のすぐ横にあるドアを開けた。ドアの中はキッチンで、手を洗うとやかんに水を一杯に入れて火をつけた。そして棚からコーヒー豆と電動ミルを出して豆を挽き始めた。湯が沸くとサーバーを保温プレートの上に置き、ドリッパーとペーパーフィルターをセットして粉を入れ、慎重にお湯を注ぎ始めた。

 いい香りが漂い始めたころドアの開く音がして、小柄だがガッチリとした男が顔を出した。男はそのままキッチンに入ると「いい臭いだな」と鼻をヒクヒクさせた。

「親父さん。臭いじゃなくて香り!それから手洗い!」コトリが慎重に湯を注ぐ作業を続けながら低い声で言った。

「いい香りだな」親父さんと呼ばれた男はニヤッと笑ってそう言い直すと流しで手を洗った。そしてコトリの抱えてきた紙袋から食パンを2枚取り出すとトースターに放り込んでレバーを押し下げた。親父はそのままキッチンを出ると店の一番奥にある大きなデーブルにセットされた木製の長椅子に腰をかけ、テーブルに置いてあった老眼鏡を掛けると新聞を読み始めた。

 目についた記事を幾つか読み終えた頃、キッチンからコトリが保温プレートごとサーバーを持って出てきて、テーブルの上のコンセントにセットした。もう一度キッチンに戻ると、たっぷりのバターとマーマレードを塗ったトースト、カップ、砂糖壺、ミルクピッチャーとスプーンをトレイに載せて出てきて、それをテーブルに並べた。

「じゃあ。少し遅いブレックファーストと行こうか」親父が声をかけると、コトリも親父の向かいに座り、コーヒーに砂糖を1杯半とミルクを入れた。

 親父はコーヒーだけをカップに注ぐと少し持ち上げ「いただきます」と言った。コトリもその所作をまねて「いただきます」と言うと食事を始めた。大きなテーブルに向かい合わせに座って黙って食事をする2人と前を走る国道の自動車のノイズが重なる。それはまるで古い短編映画のオープニングシーンの雰囲気だった。


 食事が終わる頃「コトリ?」親父が声をかけると(ウン?)という感じでコトリが反応し、パンをくわえたまま顔を上げた。「お前。ここに来てもうどれぐらいになる?」

「1年を少し過ぎたくらいだよ。ちょうど雨季に入った頃だったから……」

「そういやぁ……ずぶ濡れで店に入ってきたっけな。そして熱を出して倒れて、そのままここに居付いてしまったんだったな」

「ありがとう」コトリはここに迷い込んだ時のことを思い出してそう呟いたが、そのままコーヒーカップを口にあてたまま俯いていた。

「いや。そう言う意味で言ったんじゃない。ここんとこのお前の手つきを見ていて、ずいぶん進歩したもんだと思ってな。1年でこれだけ出来りゃあまあ大したもんだ」親父の目は孫娘を見つめるような目になっていたが、一瞬で職人の目に戻って続けた「……でだ、お前に1つ仕事を任せてみようと思ってな。さっき入ったばっかりなんだがピットを覗いてみろ」

「ピットを?」最後のパンを口に放り込むとコトリは立ち上がった。店の隅に設けられたピットの防音を兼ねた大きなドアを開けると、コトリは一瞬固まってから「かわいい!」と声を上げた。そこには真っ赤な中型のバイクが置かれていた。

「かわいい!……か」小さな声で呟いてから親父は立ち上がった。

「これ何?ずいぶん前のバイクだよね」

「MOTOAEROの254だ。どうだ?珍しいんだぞ」

「始めて見る!小さいエンジン!なのに4気筒?これ……」

「そうだ。231ccでOHC、市販では世界最小の4気筒エンジンだ。28馬力10500回転、車重は約120キロ、さっき届いたばかりなんだがまったく動かん。コトリ!これを動くようにできるか?」

 コトリは質問には答えず、ゆっくりと254のボディーを触りながら全体を舐めまわすように観察した。「120キロって軽いね。コントールしやすそう。車体は綺麗だよね。丁寧に保管されていたんだね。キャブレター……しかも4連……。電気系統はダメかな?セルしかないみたいだけどセルモーターは大丈夫かな?パッキンやホース類もそのまま使えればいいけど」

「今のバイクは半分程が電動だ。ガソリンエンジンの物でもまずインジェクションだしな。キャブの、しかもこんな小さな4連キャブの面倒が見れるか?」親父がコトリの丸まった背中越しに訊いた。

「やってみる!ううん。やってみたい!」コトリは真っ赤なタンクを撫ぜながら振り向いて親父の顔を見上げた。

「お前がここにやってきた時乗っていたバイクはお前の希望で治療代やらの為に売ってしまったな!」親父がそういうと、コトリはいまさらなぜ?という具合に首を傾げた。「いいバイクだった。高く売れたし治療代を払っても結構おつりが出た」

「わたし肺炎を起こしていたし、健康保険も無かったからお金もかかったし、納得してお願いしたんだから……」コトリは続けようとしたが親父の言葉が遮った。

「そこでだ。替わりにこのバイクをやろう」うっすらと笑いを浮かべながら親父はコトリの目を見つめて言った。「ただし動いたらだが。そして俺の出す条件をクリアーしたら……」

「クリアーしたら?」

「俺んとこで正社員として採用しよう。お前さえよければだが」今度は親父はニヤリとしながらそう言った。

「ほんとに?ほんとに?」コトリは目を大きく見開いてそう言うと「条件って?」と親父を見上げた。

 その時「なんだい。そのバイク?」大きな声にコトリと親父が驚いてピットの入り口を振り返ると、そこには背の高い男がピットの入り口の鴨居に頭をぶつけないように少し背なかを丸めて立っていた。

「なんだ。ヤキダマか。音も無くやってきやがって驚かすなよ」親父が振り返った。

 コトリはなんだか分からない気持ちがわき上がってきて、自分の言葉に少し軽蔑のニュアンスが入り込んでいるのを感じながら「仕方がないよ。ヤキダマは電動スクーターなんだから」と続けた。

「なんだよ。その言い方。僕だってバイク乗りだし客だよ。ここで買ったんだから」ヤキダマは少しむくれた口調だ。

「すまないな。許してやってくれ」親父は収めにかかったが、コトリは収まらない。

「わたし、スクーターは嫌いなんだ。おまけにヤキダマは免許がAT限定だし」

「僕の免許は放っておいてくれ。いまどきガソリンエンジンの、しかもクラッチの付いたバイクに乗ってる奴なんていないよ。電動か、HVやガソリンでもATだろ?」

「そんなことは分かってる。クラッチが無くたって許す。でも、スクーターは好きになれない」コトリが少し顔を赤くして突っかかった。

「コトリ、熱くなるな。言ってることが支離滅裂だぞ。それにヤキダマはお客さんだ」親父はコトリの頭をそっと押さえた。コトリは不満そうに少し唇を尖らせたが次の言葉を飲み込んだ。

「今日はコトリ、やけに突っかかってくるよな」ヤキダマの顔も不満げだ。

 親父が2人の顔を見比べた。「そりゃ。コトリがここに来た時の話が出ている時にタイミング良くお前が現れたからだ」

「そうだったのか?悪かったよ。急に声をかけたりして。ちょっと脅かしてやろうって思ったんだ」ヤキダマが謝ると「ごめんなさい。わたしも言い過ぎた」コトリは気まずそうに俯いてしまった。

「おまけにもっと大事な話も進行中だったのにぶち壊しやがって!」

「そうだ!親父さん、条件って?」コトリは懇願するような目つきだ。

「ちゃんと話をしてやろう。テーブルに来い。ヤキダマ。ちょうどいい。お前は立会人だ」親父は2人をテーブルに誘った。

「まあ、そこに並んで座れ」親父は2人を並んで座らせると「で、続きだ。あのバイク動くように直せたらコトリにやろう。そして俺の出す条件をクリアーしたら、俺んとこで正社員として採用しよう。と言ってるんだ」

「ほんとに?ほんとに?」コトリはまた目を大きく見開いてそう言うと「条件って?」と親父の顔を覗き込んだ。ヤキダマはもう一つ事情が呑み込めないのか黙って座っている。

「お前ら“600マイルブレンド”というのを聞いたことがあるか?」

 2人は顔を見合わせてから親父の方を見て同時に首を横に振った。

「俺が若い頃この店の先代にツーリングに連れ出されたことがあってな。行き先も告げられずに昼前になってから連れていかれたんだが、フリーウェイを150キロ以上で行けども行けども終わらないんだ。へとへとになってようやくたどり着いたのはウラスの珈琲屋でな」

「ウラスってここから500キロ以上ありますよ」ヤキダマが驚きの声を上げた。

 コトリは思い出したくないような出来事が頭の中に蘇り、気が遠くなりそうになるのを堪えながら喋ることもできずにいた。顔も血の気が失せて白い。

 親父はそんなコトリの様子を用心深く見つめていた。

「ようようたどり着いたその珈琲屋でコーヒーを飲んでいるとだな。先代は帰るというんだ。家でゆっくり風呂に入りたいってな。そしてその日のうちに帰ってきたんだ。カンデまでな」

「じゃあ往復1千キロを1日というか半日で?無茶苦茶だ」

「大陸のツーリングではこれぐらい当たり前だと言うんだ。何人ものつわものの名前を上げて説明されたがそんなもの憶えちゃいないさ。俺は途中で置いて行かれた。もうスピードも上げられなくなってな。帰ったのは真夜中だったよ。もうフラフラだったな」

「それで600マイルブレンドって言うんですか?」

「そうだ。先代の若い頃から伝わる伝説のツアーなんだそうだ。そうまでして飲む値打ちのある旨いブレンドコーヒーがあって始まったらしいんだが、店も無くなっちまったし今じゃ単なる肝試しみたいなものになってる」

 コトリは下を向いて固まったままだ。

「それで……だ」親父はコトリの肩に手を置いた。

 コトリはビクッとして顔を上げた。

「大丈夫か?」親父が声をかけると「うん」コトリは小さく頷いた。

「ピットの254を動くようにしたらコトリ、お前にやろう。そしてその254で600マイルブレンドを問題無くこなしたら正社員として採用しよう。無茶苦茶だがこれがこの店の採用試験だ。俺もそうだったしな」

「ウラス……でないとだめ?」コトリが細い声を出した。

「そうだな。悪いがそういう風に決まっている」

「ウラスって言ったら例の事故のあった町だよな」ヤキダマが口をはさんだ。

 ヤキダマの発言を見事に無視した親父は「どうだ。コトリ、やってみるか?」また俯いてしまったコトリに向かって挑発するように語りかけた。

 長い沈黙が続いた。ヤキダマも黙って見つめている。

 親父の目が孫娘を見つめる目になって何か言おうとしたその時「やってみる……ううん!やってみたい!」コトリが顔を上げた。血の気を失って白かった顔にはうっすらと赤みがさし始めていた。



 レインウェアの隙間から浸みこんだ雨が体温を奪ってゆく。

 L型ツインの豪快なレーシングサウンドが響いているはずだがもう聞こえてこない。

 激しく降る雨の中コトリはDEZMO 720を走らせていた。いや正しくは走る720にしがみついていた。もう何時間になるだろう、やみくもにウラスの町を飛び出して夢中でアクセルだけを開け続け、ガス欠もリザーブになるまで気がつかないありさまだった。

 給油を除いてずっと走り続けている。

 激しい寒気をずっと前から感じている。昨日から何も食べていない。

 目までかすみだしたような気がしてフリーウェイを下りた。

 フリーウェイ沿いの国道を速度を落として走る。

 どこか雨宿りのできる所を探すが高架になっている場所が多くて見つからない。

 大きな橋を渡ったところで側道に入った。もう限界だ。

 さらに速度を落として止まろうとした時、道沿いの建物の庇の下に並んだ何台かの大型バイクが目に留まった。ベニヤ板の看板に「コンステレーション」の文字が見える。(バイクショップ?)ほとんど意識の無い状態で、並んでいる大型バイクの横に720を止めてサイドスタンドを立てるのが精一杯だった。数歩歩いて店の引き戸を開けたところで意識は真っ暗になった。


 目が開いた。コトリはいつもの寝袋の中に自分が居ることを確認すると、ホッとしたように表情を緩めた。(最近はこんな夢、見なくなっていたのに)確認するように上半身を起こして周りを見回す。外はもう明るい。

 店の隅に置かれた台の上で寝袋に入って寝るようになってもう1年以上経つ。見慣れた風景の中に自分が置かれていることに安心感を覚えながら寝袋を出た。そのままそっとピットを覗く。赤い254がコトリを迎えた。

 エンジンは一度バラして組み上げた。電気系統はチェックした。セルも回るようになった。燃料系の調整も終わったが夜遅くなったのでさすがにエンジンはかけられなかった。そっとエンジンを撫ぜながら「親父さんが来たら起こしてあげるからね」と囁くと着替えのためにキッチンへ入って行った。そこの一画がコトリのための更衣室になっていた。


「コトリ!おはよう。どこだ?」親父の大きな声が聞こえた。

「いるよ!」ピットから油のシミの付いた白いTシャツと薄汚れたジーンズのコトリが頭を出した。「あれ?もうこんな時間?」壁に掛けられた時計は9時を指していた。

「どんな具合だ?」親父はピットの中を覗き込んだ。

「たぶんかかるとは思うけど」

「やってみろ」

「うん」コトリは換気装置のスイッチを入れると、燃料コックを開けセルモーターを回した。何秒かセルモーターが回った後、あたりをはばからないエキゾーストノートが轟いた。親父はあわててピットのドアを閉じた。

 何回かアクセルをあおった後アクセルをアイドリングの位置に戻すとエンジンは不安定な息継ぎのあと停止した。何回かやってみるが結果は同じだ。

「生き返ったな。上手いもんだ。だが、やはり同調が取れてないな」親父が呟いた。

「取ってみる」コトリがバキュームゲージを取りに行こうとしたが、親父はコトリの肩に手を置き「まて。あわてるな!254は目を覚ました。次は俺達のブレックファーストといこうか」と言った。頷くとコトリはコーヒー豆を挽きにキッチンへ入っていった。


 親父とヤキダマは昼食を食べに小さな食堂に入っていた。コトリは店番だ。今頃254と格闘しているはずだ。いやデートの真っ最中というべきか。

「今朝254が目覚めた」定食を注文し終わると親父が口を開いた。

「エンジンかかったんですか?」

「ああ。上手いもんだよ。この分だと走れるようになるのも時間の問題だな」

「で、そのウラスへ行かせるんですか?」

「ああ。うちの採用試験は先代の頃からこれだからな。だが本当の行き先は隣町のマエハマだったんだがな」

「なぜウラスにしたんですか?」

「コトリがここに着いて倒れた時、お前と一緒にコトリを病院に運んだろ」

 ヤキダマは話の流れがよく分からないという風情で頷いた。

「その時俺はコトリの財布に入っていた免許証を見つけたんだ。その時はメモだけ取って戻しておいたんだが。あとで調べさせてもらった」

「コトリの素性をですか?」

「そうだ。意識が回復してから行くところがないとか、ここに置いてくれとか言い出すし。誘拐犯にはなりたくなかったんでな」

「で?」ヤキダマは先を促した。

「ウラスでの事故のことはお前知っていたな?」

「そりゃ。大きな事故だったから。普通知ってますよ」

「コトリの家はその事故現場の中心にあったんだ。事故で家族全員を失っている」

「えっ!」ヤキダマは言葉を失った。

「コトリはツーリングに出ていて助かったようだ。混乱してそのまま飛び出して来たみたいだな」

「失踪、ということですか?」

「いや。その辺が微妙でな。あの事故は1年たっても被害者のほんの一部しか身元の確認が済んでいない。だから、コトリは死亡の可能性の高い行方不明者になっている」

「じゃあ……」

「俺は転がり込んできた女を何も知らずにバイトとして雇っただけだ。免許証で身元も確認したが、そんな事故の被害者とは思いもしなかったということだ」

「それはまた無茶苦茶な理屈ですね」

「かまわん。責めは受ける。そんなにひどいことにはならんだろう。これがメモだ」親父はテーブルの上に小さな紙を広げた。

「へえ!サヤカっていう名前なんだ。どこかのお嬢様みたいだ。コトリって本名だと思ってました」

「頑なに素性は明かさなかったし、問い詰めたら自殺でもしそうな勢いだったからな。迷い込んできたコトリの様に見えて俺が適当にそう呼んだだけだ」

「生まれからいうと今22歳、ここへ来た時はちゃんと成人だったんですね」

「その点、抜かりは無い」

「抜かりって……」ヤキダマは呆れた顔になった。

「両親と兄と弟の5人家族で、コトリは真ん中の1人娘だ。まだ確認されていないが、状況から見てコトリ以外全員亡くなっている」わずかの間沈黙が支配した。そして「俺の想像なんだが、暖かい家庭で何の心配も無しに育った少し飛んだ娘だったんだろうなと思う」親父は静かに付け加えた。

「僕もそんな風に思います。少なくとも今みたいに暗くは無かったんだろうなと……」そしてヤキダマは確認を取るように訊いた「もう心の修復は済んでいると考えているんですか?」

「無制限に時間をかけるわけにもいかんし、ずっと見てきた俺の勘だ」

「やはり無茶苦茶ですね」

「でだ。お前の仕事だが、コトリに付き添ってウラスまで往復だ」

「エエッ!付き添い。なんで僕が……」

「どうせ院生だしそろそろ夏休みだろう?お前、コトリのことが心配なんじゃないのか?」

 ヤキダマが何か言おうとしたその時、定食がやってきた。


 コトリはアイドリングを少し高くした状態で4連のバキュームゲージを見つめていた。調子を見ながらバタフライバルブの調整ねじを微妙に回していく。同調を確認すると2度3度と再調整を繰り返してから、アイドリングスクリューを通常のアイドリング回転数にセットした。小さな体に似合わないエキゾーストノートを出していたエンジンは、回転数をアイドリングまで下げ安定した。コトリは少し微笑むとアクセルを数回煽った。豪快なエキゾーストノートが響いた後エンジンは再びアイドリングになり安定した。何度もこれを繰り返し安定することを確認するとエンジンを止めた。あとは細かい調整をしながらボディーを組み上げれば走れるようにはなる。

 でも、連続で1000キロ走るためにはもっと整備や調整、さらには改造の必要もありそうだ。コトリは軽くため息をつくとピットを出て耳栓を外し長椅子に腰掛けた。

 親父さんから与えられた入社の課題は600マイルブレンドのクリアーだ。

 そのためには、ウラスの町へ行かなければならない。傷口は既にかさぶたに覆われている。周りから見れば治っているように見えるだろう。ただそれを剥がしてしまったら、中はどうなっているんだろう?

 そしてその後、きちんと住民票をこのカンデシティーに移して雇用の手続きができるようにしろと言われている。この様子だと自分の素性は親父さんにもう知られている。自分がどういう状態にあるのかはわかっているつもりだが、自分の住民票を触ることでどんな騒ぎが起こるんだろう?コトリの気持ちは不安でいっぱいだった。

 でも、コトリは旅立つことを決めていた。

 あの時は自分がどんな行動を取ったのか、どんな事が起こったのかよく覚えていない。まずウラスまでの往復をこなして自分の育った町をこの目で確かめよう。そしてもう一度ウラスの町へ行って再出発の手続きを始めよう。


 コーナーが迫ってきた。ブレーキングしながら4・3・2とギアを落とす。1段落とすたびにエンジンは悲鳴を上げる。減速で浮いたリアタイアが路面から途切れ途切れにホップするのがわかる。体重を右のステップにかけ左に移す。バイクは自然に左に傾きステップを路面にこすりながら左ヘと曲がり始めた。遠心力でダイアモンドフレームが変形する。コーナーの出口が見えた。アクセルを開けると今度は8千回転まで歓声を上げて加速する。間髪を入れずシフトアップ。あっという間に次のコーナーが迫ってくる……。

 サンライズドライブウェイのケーブル山上駅前の広場に254を止めてコトリはヘルメットを脱いだ。7月の日差しはレーシングスーツの上から燦燦と照りつけ走っていないと暑い。ファスナーを胸の下まで下ろし中にたまった熱気を逃がしてやる。

 早朝の山の木々は心の闇を吹き飛ばすくらい明るく輝き、吸い込む空気は肺の中に溜まった不安を排出する力を持っているかのように透明だ。空は雲の蓋が取れて突き抜けるように高く青い。

 コトリは両手を上にあげ肺一杯に空気を吸い込むと「ウ~ン」とはきだした。

(なんていう鳥なんだろう?)忙しくさえずる鳥の声が彼方から聞こえていた。それに混じって微かにモーターの音が聞こえ始め、黒いスクーターがコーナーを曲がって近づいてきた。スクーターを254の隣に止めるとヤキダマはバイザーを上げた。「早すぎるぞ!ちょっとは加減してくれよ」声は怒っていた。

「まだいっぱいには回していないよ。でもこの状態でもオイルハザードが点く。オイルクーラーを付けた方がいいかも」コトリはヤキダマのことは全く気にしていない様子で言った。

「そんなに飛ばして怖くないのか?」溜息をつきながらヤキダマが訊いた。

「きちんと曲がれるという確信はあるよ。でもサーキットじゃないからアクシデントの確率はずっと高い。そう言う意味での怖さはあるよ」コトリは興味なさそうに答えた。そしてヤキダマの少し怒ったような顔を見て「ヤキダマ。わたしって変?」と続けた。

 ヤキダマは少し戸惑った顔になったが「そうだな。普通の女の子では無いよな。その辺自覚、有るんじゃないの?でも全然問題無いよ」と言ってから「かわいいし……」と小さく付け足した。

 コトリは付け足された一言は無視して「普通じゃぁないよね」と呟いた。

「コトリ?」ヤキダマの呼びかけに(ウン?)という感じでコトリが反応し顔を上げた。

「僕は朝早くから引っ張り廻されてもうくたくただ。そこのベンチで休憩したい」

「いいけど。これぐらいでくたくたになるんだったら1000キロなんてとても無理だよ」

「その時は足手まといにならないよう頑張るよ」2人はすぐそこにある自動販売機で缶コーヒーを買うと、なんとなく並んで木陰にあるベンチに腰をかけた。2人の正面にはカンデの街並み、その向こうには大きな港、さらにその向こうには海が広がっている。コトリはキラキラ光る海や行きかう船をぼんやりと眺め缶コーヒーをゆっくりと飲みながら、無限の安心感を得たような気になっていつの間にか眠ってしまった。

 ふと目が覚めたコトリは自分の頭がヤキダマの肩に乗っているのに気付いた。

「ごめんなさい」

(わたし汗臭くなかったかな)そう思いながらあわてて頭を起こした。

「わたし寝てた?」

「少しの間ね」ヤキダマの顔が照れているように見えるのは気のせいだろうか。

「帰る?」ヤキダマの様子を気にしながらコトリは尋ねた。

「コトリさえ良ければ。僕はもう疲れが取れたよ」

「じゃぁ大丈夫だね。トロトロ走ってると置いて行くよ」コトリは勢いをつけて立ち上がった。


 寒気が入ってきたのだろうか。今朝、カンデシティーは靄の中に沈んでいた。「コンステレーション」の前の側道には254と、ヤキダマが親父から貸し出しを受けたEXP600が並んで止まっていた。EXP600はV4エンジンを積んだツアラーだ。ATであることは言うまでもないが。トルクもあり扱いやすくヤキダマには最適の選択といえた。254にはエンジンへの風を妨げない位置にオイルクーラーが増設されている。

 コトリとヤキダマはツーリングウェアに身を固め、フルフェイスのヘルメットを持って親父の前に並んで立っていた。

「みんな見送りに来たがったんだが、これは試験でイベントじゃないということで断った。早朝だしな、うっかりすると30人以上集まって大騒ぎになりそうだった」

「目立たなくていいよ」コトリがタンクに張り付けた腕時計を見た。

「そろそろだな。大丈夫か?」親父がニヤニヤしながら尋ねた。

「私と254は大丈夫だよ。オイルクーラーを着けたし耐久性は大丈夫と思う。EXP600も問題ないでしょう?一番の問題はやっぱり……」

「やっぱり、何だよ」不満げにヤキダマが訊いた。

「やっぱりヤキダマかな?」コトリが微笑んだ。

 ヤキダマはまるで珍しいものでも見るようにそれを見つめていた。

「コトリ。足手まといになりそうなら捨てて来い。ただしウラスではヤキダマの立会を受けるようにしろよ。立会人なんだからな。後は捨ててきてもいいだろう。お前の好きにしろ」親父はヤキダマのほうを向いて「バイクを置いて来たら実費はもらうからな。覚悟してかかれ。コトリを頼むぞ!」そして2人を見ながら「それから2人ともこまめに携帯で連絡しろ。余計な心配はしたくないからな。命を落とすな!じゃ。出発!」とゲンコツを上に突き出した。

「ありがとう」コトリは親父に抱きついてギューッと力を込めた。親父も両手をコトリの背中に回してから頭を優しく撫でた。コトリは暫くされるままになっていたが決心をしたようにパッと離れ、ヘルメットを被りバイクに跨った。

 ヤキダマも軽く手を上げ「行ってきます」と言うと同じようにバイクに跨った。

 豪快なそして静かな2つのエキゾーストノートが響き、2台のバイクはコトリの育った町を目指して靄の中へ消えていった。

 親父は孫を見つめる目になって2つの影を見送っていたが、ゆっくりと空を見上げてから店の中へと消えた。


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