1.
最近、幸子の様子がおかしい。
学校にこそちゃんと登校してくるものの、顔色は今にも倒れてしまいそうに悪かった。よく眠れていないのか、目の下の隈もひどい。明らかな体調不良だ。
幾度も「大丈夫なの?」と声をかけたけれど、幸子は頷き、そしてただ曖昧に微笑むばかりで埒が開かなかった。
何か、話せないような問題を抱えているのだろうか。
そうは勘繰りはするけれど、ではそれが何なのかとなると、まるで見当がつかなかった。
幸子とは幼稚園からの付き合いだ。彼女の性格はよく知っている。引っ込み思案の私の背中を、物理的にも精神的にも押してくれる、言うなれば活発で気丈なタイプだ。
万が一、万万が一いじめのような事があったとしたって、それで憂えて下を向いてしまうような、そんな子ではない。
もやもやとした気持ちのまま更に二日が過ぎて、とうとう私は堪りかねた。
一人は解決できずに困り果てているのなら、そのうちきっと私を頼ってくれるだろう。そう考えていたのにいつまでも話してくれなくて、友人としてのささやかなプライドが傷ついた、というのもある。
昼休みに彼女を捕まえると、面と向かって問い質した。
幸子は私の剣幕に少し驚いたようだった。けれどそれでもしばらくは話し渋り、「信じられないような話だよ」と数度念押しをしてからようやく、事情を語る事を承知した。
「夢を見るの」
他の人には聞かれたくないと場所を移した裏庭で、幸子は小声で切り出した。
「夢?」
「うん、夢。場所はどこか知らないビルの屋上なんだけど、そこが12階建てだって事だけは、どうしてか分かるの。その屋上には転落防止の柵も何にもなくて、縁に寄ると下の道路が小さく小さく見えるんだ。でね、そうやって下を覗いてると、いきなり誰かが背中を押すの。わたしは突き飛ばされて、真っ逆さまにどんどん落ちてく」
幸子はそこで言葉を切って、青白い顔を不安に染めた。
「最初は突き落とされた時のびっくりで目が覚めたんだよ。それで『ヘンな夢見たなー』なんて思って気にもしなかった。でもそれから毎晩続いたの。毎日ね、落ちてく距離が長くなるの。ビルの高さが分かるのと一緒で、どうしてかそれもはっきり分かるの。一昨日は10階分落ちて目が覚めた。昨日は11階分だった。もう地面が、アスファルトが壁みたいに目の前まで来てて──」
余程に不安だったのだろう。幸子は顔を両手で被って伏せた。
指の間からぽろぽろと、大粒の涙が零れる。
「どうしよう。今度眠ったらわたし、もう起きれないかもしれない。夢の中で落ち切って、死んじゃうかもしれない」
きっと彼女の事だから、まず独力で対処しようとしたのに違いない。夢を見る原因を突き止めて解決して、全部笑い話にしてしまおうとでも考えたのだろう。
けれど事態は悪い方へ悪い方へと転がり続けて、とうとう気持ちが、心が追い詰められてしまった。
それでも生来の気丈さが災いして、誰にも打ち明けられなかったのだ。
幸子は強いけれど、その分人を頼ろうとしない。私へにすら遠慮をする。いや、それは遠慮ではなく、誰にも弱いところを見せたくないという、そういう種類の弱さなのかもしれない。そんな状況にありながら毎日学校に来ていたのは、間違いなくその気質の一端だ。
だから幸子は私が強くつつくまで、風船が張り詰めるように自分の中に恐怖を溜め込んでしまったのだ。
更には話そのものの荒唐無稽さがある。他の誰かに相談したって、幸子自身が当初感じたように「ただの変な夢」「気の迷い」で片付けられて、まともに取り合ってはもらえないだろう。
勿論私だって、完全には信じかねているところがある。でも目の前の幸子の怯えぶりと憔悴は本物だった。だから、手を差し伸べなければと思った。
「保健室、行こう」
私は幸子の手を掴まえて、強くそう宣言する。
「え? え?」
「保健室で寝なさい。幸子、ほんとにひどい顔してるから。そうでもしないと夢での前に、睡眠不足で死んじゃうよ」
「でも」
「大丈夫。私がついていてあげる。もし幸子が魘されたら、すぐに起こしてあげる。それなら絶対大丈夫でしょう?」
「……うん」
渋る幸子に重ねて言うと、彼女はようやく頷いた。以降はまるで抗わず、私に引かれるがままに保健室までついてくる。いつもとは逆の立場が少し可笑しかった。
午後の授業をエスケープしようという立場からは幸いな事に、養護教諭は不在だった。そのままベッドを使わせてもらう事にする。
不安から寝つかないかとも思ったけれど、ベッドに潜り込むや幸子はすぐに寝入ってしまった。それほどに思い詰めて、同時に弱り果てていたのだろう。
今は何の不安もないような顔で静かな寝息を立てている。
寝顔はやつれてこそいるけれど、ここ数日あった苦悩の影は見当たらない。どうやら私も幸子の役に立てたようだ。ほっとすると同時に誇らしくなる。
やがて授業の開始を告げるチャイムが校内に響き、その頃には私は、すっかり手持ち無沙汰になってしまっていた。
急な思いつきで来たものだから、時間潰しになるようなものが手近にない。
でも退屈だからと幸子の信頼を裏切って、ここを離れる気にはなれなかった。
遠く校庭から、体育の授業らしき声が聞こえる。近くからするのは規則正しい穏やかな寝息。窓から差し込むうららかな午後の日差しに温められて、私は欠伸ひとつをした。
耳をつんざく悲鳴で、私ははっと目を覚ました。
同時に、何か熱いものが私の顔に、全身に浴びせかけられた。
平穏な午睡から叩き起された私の目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まったベッドだった。その上に、その血色の中心に、ひしゃげて潰れたものがあった。
面影などどこにも残っていないのに、ひと目で幸子の成れの果てだと分かってしまった。
それは春先の路傍に転がる、蛙の轢死体に似ていた。
高いビルの上から、例えば12階の屋上から落ちたなら、きっとこんなふうになるのだろう。今度は自分の口から悲鳴が漏れ出すのを聴きながら、そこだけ冷静な頭の片隅でそう思った。