第2話 「業務命令です。休暇を取りなさい」
ログを確認すると、結局あれから4分と57秒もかかっていた。ギリギリの戦いだった。結局あのあと暗殺者に膾切りにされてあっさりと致命傷を負った。自己狂化の魔法によって得られた5分のロスタイムを得られなければ敗北していたわけだが、それを最後の一滴を残して搾り取られた形になる。
「まだまだって事かな、僕も」
ひとりごちる。全滅させた挑戦者は蘇生可能不可能にかかわらず送還されており、神霊の座において敗北メッセージを聞かされているのだろう。
そうなると、ここはがらんとする。茫漠として、ひどく居心地が悪く思える。
だから、いきなり背後からかかったその声が、例えいつも通りの無味乾燥なものでも、僕には福音《芳香》にさえ聞こえた。
「あれだけ暴れまわって、まだ足りない?」
「いや、そうじゃなくって。負けちゃいそうだったっていう話」
「負けなさい。こと大魔王という役割にいて、不敗だなんて本来ならとんでもないわ。花を持たせない殴られ役なんて嫌われるだけよ。いつも適度にズタボロになって再挑戦者を呼び込んでいるからいいものの」
「……まるで、僕がわざと辛勝して相手に華を持たせる、鼻持ちならない野郎に聞えますけど」
さすがにこれには抗議せねばなるまい。そう思って僕は振り向く。
けれど、その顔を見て僕は毒気を抜かれた。
ああ、この人は本気で言ってるな。
「違うの?」
「違います。常に全力を尽くしているだけです」
「ふうん。まあ、だったらたまには負けるわよね」
僕に話しかけてきたのは、一目で魔道師とわかる出で立ちの女性だった。つまり、全装備が常駐魔力を食う魔導工芸で固めてある。魔法ひとつで羽よりも軽く鋼よりも硬くなる錬金術素材のローブと、短縮魔法円環のはめ込まれた杖。ジャラジャラと重量限界近くまで下がられた護符。
深くかぶったフードのため顔はあまり判然としないが、翡翠色の髪に紅玉色の瞳と外連味たっぷり。基本的には色白で長身の女性だが、一点耳が長い事でカテゴリーは亜人。
唯一例外的に未加工の眼鏡は、装備品ではなく重量ゼロ設定の着装端末。このご時世視覚矯正もないものだが、文化として残っているそれを彼女はいたく愛好していて、初期設定のままの僕の端末も眼鏡だ。
通常設定では着装者からの見た目透明度を最上位に設定して――つまりレンズは完全に透明で見え方が変わりようもないのに、眼鏡のつるを人差し指で押す動作はつまり、彼女が見た目というものを多分に演出と捉えていることを示している。
僕の経験上、これは『君は気がついてないだろうけれど、私には言いたいことがあるのよ』という事だ。いつか本人が言っていたから間違いない。
「何か問題でも。あるなら迅速に指摘をお願いします。業務に支障が出るので」
「そういうのとはちょっと違うけど……まあいいわ」
彼女は僕の上司にあたる。
役職は課長。本来なら気軽にログインしてくる立場ではない。ただ、僕は彼女の直属の部下という扱いになるし、その僕がこの世界から出られない以上、何か重要な指令があれば彼女にご足労願うしか方法はないわけだ。今回もただ出てきたわけではあるまい。
つるもレンズも細長い眼鏡を、人差し指で持ち直すの動作は他の人にすれば小首をかしげる動作に当たる。クールな仕草だが、醸し出してもいいはずの威圧感はあまりない。ただ事務的な雰囲気だけがある。
ただ、今は肩をすくめ、少しだけ感情をこめて言った。
「さっきのスタンはどういう事なのかしら」
「あれは。不意を打たれました。装備から経験が浅いと油断して、装備も何もかも力押しに特化していると判断したからでした。軽率だったとは思いますが、総括すれば運が悪かったとしか言いようがありません。期待値的には発動しさえしなかった可能性が高く――」
「ああうん、あれはきっと戦術とかじゃなくって装備の管理をきちんとしてなかっただけだと思う。彼ら、本当に中堅に入ったばかりで曲がりなりにも君に会えるようになったからって理由の記念挑戦だったみたいだし。……では、なくて」
記念挑戦。
そういうのもあるのか。
だが、そういう「ゆるい」動機こそが戦場にカオスを持ち込む。正直な話、完全対策してやってくる本気の挑戦者の方が動きを読みやすい分気が楽なのだ。
「また何かつまらないこと考えてるね、君」
「所詮はまあ、遊びの相手ですけどね」
「そうじゃなくってさぁ。いや、いいか。本題入るね。ほら意外そうな顔しない。スタン受けたとか勝ったとか負けたとかはこの際いいの。君、スタン喰らってからスタンが解けて後十秒間ほど気絶してたけど、覚えあるかしら」
ない。
慌ててログを確認する。
本当だった。そう、彼らは嫌に手際よく体勢を立て直したのではなく、単に時間をかけただけなのだ。
流れるブルーバッグのログが、上司の眼鏡に反射する。
だからと言うのではないが、不意に上司の顔が青ざめているような気がする。勿論僕にも彼女にも、つまりその電脳上のアバタ―には血管など通ってはいない。が、戦闘状況では首を飛ばされても効果上の存在しかしない血流が、平常状況では表情表現の一つとして演算されるのだ。
僕は彼女の表情を見るのが、たったの二度目だ。
それは今この状況がかつての『あの時』と同じくらい危険であることを示唆する。
なにか大変なことが起ころうとしているのだろうか。
だが、それはいったいどういう事なのか。
困惑する僕に、感情のこもらない声がかけられる。
「これは、業務命令です。休暇を取りなさい。君、疲れてるのよ。いい機会だわ、人事課からもせっつかれてたし、ここで有給をバーンと消化しちゃいなさい」
「……いや、挑戦者の予約がもうすでに一杯入っていますから無」
「ちゃんとキャンセルしておいたわ」
「ええっと……」
「君らしくない油断と、立ち回りだったから。悪いけど此方で勝手にスキャンさせてもらった。診断によると、疲労による立ちくらみですって」
一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
理解して、それがいったいどういう意味かをまた考え込んでしまう。そんな不可解さがあった。
「何よその顔。言っておくけど撤回はしないわ。こんな診断が出た以上、緊急事態として十二時間以上は現場復帰させることはできない。法律と社則ってものがあるのよ。不満かしら」
「いえ」
「有給はだいぶたまっているけど」
「使い方がよくわからないので、いつも通り三日でお願いします」
「たまっているって言ったのだけど?」
「三日で」
「この際三週間でもいいのよ」
「三日で」
参った。
途方にくれながら、僕はとりあえず目の前の上司の説得に集中することにした。およそ一月も休暇を取るのは僕に冒険的すぎると主張しながら、しかし。
疲労。
そんなものが僕にありうるとは驚きだった。
そんな風に人間扱いされることが、驚きだった。確かに電脳人間が社会進出してまだ日が浅いのは確かだが。それにしても。
僕の何が疲れるというのか。僕には疲労を蓄積する様な、いかなる実体もない。骨も筋肉も血管も、消化器系も循環系も、脳もないのに。一山幾らの思考補助装置群と単なるデータだというのに。死さえ定義できない代物の癖にして。
それこそ、システムの歪みとしか思えなかった。
そうとしか、思えなかった。