(12)想い SIDE:シャル
定時を少し過ぎた頃、午後いっぱい椅子に座り続けた私はグンと腕を伸ばして大きな背伸びをした。
私以外の職員は既に退社していて、残っているのは私一人。
「今日もみっちり仕事をこなしたわね」
そう呟く私の顔は、以前と比べて疲れが見えなかった。毎日質の良いビタミンを摂っているおかげか疲れもそれほどは溜まらず、身体がすっきりと軽い気がする。
デスクの上に広げた資料をファイルに閉じながら、そのきっかけを作ってくれた年上の部下の顔を思い浮かべ、即座にハッとなった。
「別に、トオルのことなんかどうだっていいのよ!うん、そうよ!」
ブルブルと頭を左右に振って、今しがた思い浮かべた顔を消そうと努力する。
だが、一向に消えてはくれない。
それどころか、今度はこちらに向かって優しく微笑む顔が浮かんできた。穏やかな日差しのように、なんでも温かく包んでしまう彼の笑顔。
それが瞼の裏に浮かんだ途端に、ジクリと私の胸の奥が痛む。
初めはこんな感情はただの思い違いだ、気のせいだと決め込んでいたのだが、日に日に胸の痛みが大きく深くなり、無視できないものになっていた。
フゥと息を吐いて、肩を落とす。
―――私がこの想いを素直に認める事が出来たら、痛みはなくなるの?
軽く握った拳を左胸に当てた私はソッと目を閉じて、そして緩やかに首を横に振った。
「認めたところで無意味よね。彼が私の想いを受け入れてくれなければ、痛みがなくなるどころか増す一方だろうし」
だから、彼への想いは告げるつもりは無い。
この恋心は実るはずなど無いのだから。
「私にもう少し可愛げがあったら、いくらか状況が有利に働いたかしら?」
彼が好きだったという“大野チカ”という女性は、聞けば聞くほど私とは似ていない。
トオルに聞いた話では、見た目はもちろんのこと、その性格や言動は私と真逆に位置しているのだ。
私は改めて自分というものを思い起こし、再び首を横に振った。
「それこそ無意味だわ。私はやっぱり私でしかないし、彼の好む女性像とはかけ離れているんだもの。有利も何もあったものじゃないわね」
それならば、早々にこの想いをなくしてしまえばいい。消してしまえばいい。
深く酷く傷つく前に、彼への想いを捨ててしまえばいい。
そうすることでしか、私は私の心を守れない。
秘かに思い続けるなんて、そんな殊勝な真似は出来ないのだ。だから、無かったことにするしかないのだ―――トオルへの恋心を。
資料を片付け終えた私は席を立ち、大きなため息をついた。
「こんな時は自棄食い?それとも自棄酒がいいのかしらね」
自嘲気味に微笑み、私はポツリと呟いた。
すると、自分以外いなかったはずの部屋に自分以外の声が響く。
「それは何の為に?」
ハッとして顔を上げた私は、声のした方向に勢いよく振り返る。
入口の枠に背中を預けて体の前で腕を組んで立ち、ジッとこちらを見ていたのは、つい今しがた想いを消そうとしていた相手だった。
「トオル、どうしてここに……?」
コクリと息を飲んだ。
なぜ、彼がここにいるのだろうか。もうとっくに帰ったと思っていたのに。
よりによって一番会いたくない人に会ってしまったものだ。
苦々しく顔を顰めていれば、トオルは身を起こしてゆっくりとした足取りでこちらに近付いてきた。
「質問に対して質問で返さないでくださいよ。訊きたい事があるなら、まずは答えてください」
固い床に靴音を響かせながら、一歩、また一歩と私のところにやってくるトオル。
自然と私は身体を強張らせた。
「どうして自棄食いや自棄酒に走ろうと思ったのですか?」
とうとう私の正面に彼が到達してしまった。
高い位置から聞きなれた声が、少しだけ硬い声音でそう尋ねてくる。
私は顔を上げられず、ジッと自分のハイヒールのつま先を見つめた。
「……別に、いいでしょ。そういう気分だっていうだけのことよ」
いつもと同じように素っ気無く答えた。……つもりだった。
身体は震えていないだろうか。
縋るような声になっていないだろうか。
強気で意地っ張りの“シャルリアーノ”でいるだろうか。
私の言葉に、トオルは何も言ってこなかった。納得したということだろうか。
―――だったら、もういいわよね。さっさと帰ろう。
そう思った私はデスクの横に掛けておいた自分のバッグを鷲掴みにして、トオルの横をすり抜ける。
が、瞬時に伸びてきた彼の右腕に肩を掴まれ、そしてクルリと向きを変えられたかと思えば、こともあろうに抱きしめられた。
バッグの取っ手が私の手から離れ、トサリと乾いた音がする。
誰からも優秀と評された私の頭が今の自分の状況を理解できずに、真っ白になってフリーズした。
驚き過ぎて声も出ない。
身動き一つ、声一つ上げない私を、トオルは更にギュッと抱きしめてきた。
日本人にしては長身でそこそこに体格のいいトオルの胸に、小さな私はすっぽりと収まってしまう。
呆然とする中で、どうしてトオルの腕の中はこんなにも温かくて、幸せなのだろうと、まったく緊張感の無いことを考えてしまった。
お互いが何も言わず、ただ、静かに時間が過ぎてゆく。
その時、窓の外では強い風が吹き、ザァッと木々の揺れる音で私は我に返った。
―――な、なに、これっ。どういうこと!?
相も変わらず、トオルは私を抱きしめ続けている。
つんけんとした態度の私に腹を立て、嫌がらせでもしようと考えているのだろうか。
だけど、今の私には、トオルの温もりは殊更につらい。彼を諦めようと決意した私には。
「や、やめて……」
ようやく私は声を出す事が出来た。
だけど、その声は何と弱々しいことか。いつもの私とは思えない。
それでも、必死で抗議する。
「放して、お願い」
―――これ以上、惨めな想いはしたくないの。もう、これ以上、愛されない自分に絶望したくないの……。
なのに、トオルは一向に私を解放しようとはしない。それどころか、ますます腕の力を強めてくる。
そのことに、カッと腹が立った。
「放して、トオル!……放しなさい!!」
やっといつもの私を取り戻し、強い口調で怒鳴りつけた。
すると、トオルがビクッと肩を震わせる。しかし、やはり彼の腕は緩まない。
「いったい、何なのよ!」
頭にきた私は、拳で彼の胸をドン、と叩いてやった。
2度、3度と叩きつければ、今度は腕が動かせないほどギュウギュウに抱きしめられる。
一瞬息がつまり、短く呻いてしまった。
「もう、なんで放してくれないのよ!」
「俺はまだ、あなたの質問に答えていないので」
私の肩に顔を埋めながら、トオルが小さく呟く。
「私の質問?」
「“どうしてここに?”と訊いたでしょう?」
確かに、彼の顔を見て私はそう言葉にした。だが、そんなものは単なる独り言で、彼に答えを貰おうとしたものではなかった。
「そんなこと、別に取り立てて答えるものでもないでしょう!」
身体全体を抑え込まれてしまって腕が動かせなくなってしまった私は、いい加減に我慢の限界を超え、トオルの耳元で大きく叫んだ。
しかし、どうあっても彼は私を放してくれない。
―――もう、どうにでもしてよ……。
怒りを通り越して呆れ返った私は、フッと身体の力を抜いた。
「だったら、さっさと答えなさい」
そんな私の言葉に、トオルはゆっくりと顔を起こし、真正面から私の瞳を覗き込んできた。
真っ黒だけど、とても澄んだ瞳が私をジッと見つめる。
そして、トオルが告げた。
「あなたに、俺の気持ちを伝えたくて……」
●ようやくここまで来ました。さて、シャルは幸せになれるのでしょうか?
……いや、ここで幸せにしなかったらまずいですよね。さすがのみやこも、そこまで鬼ではありませんので(苦笑)