(8)広い背中 SIDE:シャル
私が過労で倒れている間に、部下達が研究結果を最後まで纏めてくれていた。
あとは実験で得られた数値を過去のデータと比べ、何がどのように改善されたのかを記載し、今後の課題を見出せば一段落といったところまできていた。
部下達は私ほどのIQはないものの、世界トップクラスの研究機関で勤務するだけあって優秀だ。
彼らのことは信頼している。
その技術や知識レベルも信用している。
だけど、やはり全てを任せてしまうのは気が引けていた。
彼らのほとんどは同居する家族がいて、勤務以外でもやらなくてはならないことがあるだろう。
既婚者であれ未婚者であれ、家族と暮らすとなれば生活する上で何がしかの役割を果たさなくてはならない。
ならば、そんな彼らには出来る限り残業をさせたくないと思ってしまい、足りない時間は自分が埋め合わせればいいと考えていた。
もともと仕事は人任せに出来ない性分もあり、それがこの研究所に来て拍車がかかったのだろう。
まさか倒れるほど疲れきってしまうとは、医者として悔しい限りだ。
こんな時、ふと、『誰かが傍にいてくれれば』と思ってしまう。
別に、自分の面倒を見させるために誰かといたいのではない。
誰かの温もりを感じる事が出来れば、もう少し人間らしい生活を送ろうと、自分なりに気をつけるのではないだろうか。
職場では朝から晩まで仕事に没頭し、家には寝に帰るだけのような生活を改めるのではないだろうか。
そんな事が頭を過ぎり、次の瞬間、苦い笑いが零れる。
「家族ですら私から離れていったのに、一体誰が私の傍にいてくれるって言うのよ」
間もなく終業を迎えるという時間に研究施設の屋上のフェンスに寄りかかり、私は空を見上げた。
「まだ、身体が本調子じゃないのかしら。体が弱っていると心も弱るって言うし、だからこんな馬鹿みたいなことを考えるのかもね」
今日は朝からよく晴れていて、雲がほとんど出ていなかった。
この時間になっても、広がる空には小さな雲が一つ浮かんでいるだけ。
「あの雲も私と一緒ね。一人ぼっちだわ」
カルフォルニアの空はだんだんと赤みを帯び、オレンジからダークブルーへと変わるグラデーションを作り出している。
その様子を素直に綺麗だと思いながらも、私の心は頬を撫でる風のように乾いていた。
しばらくその雲を眺めていると、キィと軋む音がした。
音がした方に目を向けると、扉を開けたトオルが顔を出す。
「ここにいたんですね」
どこかホッとしたように顔をほころばせ、トオルが近付いてきた。
「何か用?データにミスがあった?」
私は即座に上司の顔を作り、彼へと向き直る。
「いえ。あの結果には何の問題もありませんよ」
穏やかな笑顔を浮かべ、軽い足取りでトオルが近付いてきた。
私とは違って彼はすでに白衣を脱いでおり、帰宅の支度を済ませている。
清潔第一で味気ない白衣を脱いだ彼は、黒のジャケットの下にVネックの白いTシャツ。そしてインディゴブルーのジーンズを合わせて、とても小ざっぱりとしていた。
そこそこに身長があるので、こういった何気ない服装が様になっている。
勤務中には見ることのない服装といつもよりも優しい笑顔に、自分の胸が少し大きく跳ねた。
それをごまかそうと、ややぶっきらぼうに返事をする私。
「じゃぁ、何?」
自分の目の前に立つ背の高い男を見上げると、トオルは一層顔をほころばせた。
「一緒に食事でも行こうかと思いまして、そのお誘いに」
「はぁ?」
てっきり仕事の話だと思っていた私は、予想外の誘いに素っ頓狂な声を上げてしまう。
それに気を悪くした様子もなく、トオルはニコニコと話を続けた。
「このところ元気がないようですから。ここから車で20分くらい走ったところに中華料理の店を出している友人がいまして、そこでは薬膳料理も出してくれるんですよ。薬膳って言っても、薬くさくないですし、普通に料理として美味しいです」
どうやらこの心優しい部下は、私の健康を気遣ってわざわざ探してまで夕食を誘いに来てくれたようだ。
彼の気持ちはありがたいが、その優しさは私に必要のないもの。
私は小さな子供じゃない。
自分のことは自分で何とかすればいい。
「別にいいわよ。多少疲れていたって、ビタミン剤を飲んで寝れば平気だもの」
そうだ。
最近はビタミン剤を飲まなかったから、こんなにも疲れているのだ。
それを飲めば、私の身体も心も以前のように戻るはず。
―――今日の帰りにでもドラッグストアに寄ろう。
そう思い至ると、私はトオルに『先に帰るわ』と告げて立ち去ろうとした。
が、彼が私の右腕を掴んでくる。
トオルの掌から伝わるその温もりに舌打ちし、私はため息を着いた。
「まだ、何かあるの?」
「サプリメントを服用するより、食材から栄養素を取り込んだほうが体に吸収されやすいことは、勿論ご存知ですよね?」
何を言い出すかと思えば。
そんなこと、医者として初歩の初歩で習う栄養学の知識ではないか。
「知ってて当然でしょ。それが何だっていうの?」
「ですから、一緒に食事しましょう」
一段と微笑みを深めるトオル。
嬉しそうな彼の顔は、閉じ込めた想いを揺り起こしてしまいそうになるから嫌なのだ。
「なんでそうなるのよ」
つんけんとした態度で返すが、トオルはまったく堪えた様子がない。
「だって、あなたは一人だとまともな食事を摂らなそうですから」
「うるさいわね。そうだとしても、あなたには関係ないでしょ」
フンと顔を背け、腕を引き抜こうとする。
しかし、大して力が入ってないように見えるも、私の腕はトオルの手から解放されない。
「関係ありますよ。また過労で倒れられたら困ります」
「もう倒れないわ。あなたに迷惑は掛けない」
「迷惑だなんて思ってません」
「それなら、何なのよ!」
一向に放されない腕にイライラし、思わず叫んだ。
すると、彼の黒い瞳が光を強める。
「心配なんです、あなたが」
いつもはフワフワとやわらかく笑う彼の目が、すごく真剣みを帯びてこちらに向けられた。
そのあまりの真剣さに、私は息を飲む。
「……トオル?」
「何でもかんでも一人で背負い込んで、人の苦労まで抱え込んで。なのに、あなたは一切誰にも甘えようともしない。そんなあなたが心配なんですよ」
トオルに掴まれた腕よりも心臓が痛い。
ギュウギュウと見えない何かに押しつぶされて、痛くてたまらない。
それでも、私は私でしかないのだ。
いつか見捨てられるくらいなら、ずっと、ずっと一人でいればいい。
そうすれば、私の元から去っていく人はいないのだから。
あんなに悲しくて苦しい思いを味わうことはないのだから。
心の奥底で鍵を掛けた感情に、何重もの鍵を改めて施す。
―――トオルは優しい人。だから、上司の私を心配しているだけ。それだけよ。それだけ……。
私は大きく息を吐いた。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。今夜は野菜ジュースを作って、たっぷり飲むことにするわ。そうすれば、ビタミン剤なんて必要ないものね」
笑顔を浮かべることはなかったが、それでも口調だけはさっきよりもだいぶ和らげて私はトオルに告げる。
彼は物言いたげに一瞬口を開くが、私が会話を打ち切る空気を纏わせたのを悟り、それ以上余計なことは言ってこなかった。
「わかりました。必ず野菜ジュースを飲んでくださいね、必ずですよ」
「しつこいわね。私だって自分の健康は大事なんだから、そのくらいするわよ」
心配してくれる気持ちがありがたいと思うのは本当のことなので、私は彼の言うように野菜ジュースを作って飲むつもりでいるのだ。
ところが、トオルは尚も言い募る。
「絶対に飲むんですよ。ウソついたらダメですからね。……ああ、そうだ。指切りしましょう」
「何、それ」
私が首をかしげると、トオルはクスッと小さく笑った。
「日本で古くから伝わる約束をする際の儀式です。お互いの小指を絡ませて、約束するんですよ。ほら、こうやって」
トオルは私の腕から手を離し、右の小指を差し出してきた。
そしてその指を私の右小指に絡ませてくる。
「指きりげんまん。ウソついたら、針千本飲~ます♪」
絡めた指を軽く上下に揺さ振り、聞いた事のないメロディをトオルが楽しそうに日本語で口ずさむ。
「こうやって約束したことは、絶対に守らないといけないんですよ」
「守らないとどうなるの?」
日本語がほとんど分からない私は、トオルが歌った歌詞の意味が理解できない。
尋ねる私に、トオルはニヤリと笑った。
「げんまんとは拳骨一万回のことでして、約束を破った人は拳骨で一万回殴られるんです。しかも、最後のフレーズは針を千本飲ませると言う意味なんですよ」
それを聞いてギョッとする私。
「え?ちょっと待ってよ!それって拷問じゃない!日本ってそんな野蛮な風習があるの!?」
私は慌てて彼の小指を振り払った。
そんな私に、トオルは声を上げて笑う。
「あははっ。実際にはそんなことしません。ただ、約束を守ることがそれだけ大事だってことですよ」
「こんなことしなくても、約束くらい守るわ!」
右小指を庇うように左手で包み、私はムッとして眉をしかめた。
「そうですね。あなたはとても誠実な人ですから、約束を違えたりしませんよね。すいません。あなたが暗い顔をされていたので、ちょっとからかってしまいました」
「余計なお世話。もう、帰りなさいよ!」
下からギリッと睨み付ければ、トオルはひょいと肩をすくめる。
「では、失礼します。今日は一旦引きますが、また食事にお誘いしますね」
「それこそ、余計なお世話よ!」
私が噛み付く勢いで怒鳴ると、トオルはもう一度笑い声を上げて去ってゆく。
その楽しげで大きな背中が、少しだけ涙で滲んだ。