(7)小さな背中 SIDE:徹
テープで貼り直された家族写真を見てしまってから、シャルリアーノの事が気になって仕方ない。
いや、彼女に実際出逢う前から、もともと気になる存在ではあった。
それは医者として、尊敬できる存在として。
彼女は医学界の生ける伝説なのだ。
そんなシャルリアーノと一緒に仕事が出来るとなれば、同じ道を歩む者として胸が弾まないわけは無い。
この研究所で働ける事が決まった時、まるで憧れのハリウッドスターにでも会えるかのように興奮が隠せなかった。
しかし、溢れる期待を抱きつつ彼女に初めて対面した時、俺は彼女の仔猫のように大きな瞳を見て、シャルリアーノ自身がこれまでに築き上げてきた研究成果や論文を通して抱いていたイメージが崩れ去った。
それはけして悪い意味ではなく、なんと言えばいいのか今でも分からないが、目の前の彼女は無表情を装いながらも必死で自分の脚で立とうとしている、気の強くて可愛らしい女の子という印象だった。
―――なんだ。彼女も俺と同じ“人間”なんだ。
そう感じたことは良く覚えている。
能力は神様レベルであったとしても、彼女は人間だった。シャルリアーノ・シグノイアという、一人の人間であった。
そう思った瞬間に妙な緊張は解け、俺の顔には微笑みが浮かんだのだった。
一緒の職場で働けば、彼女の能力の高さをまざまざと見せ付けられる。
それでも、俺にとってはやはり彼女は神様でも悪魔でもなかった。
シャルリアーノが自分の年齢や身長を気にして必要以上につんけんすればするほど、逆にそれが可愛らしく思えて仕方が無い。
だから自分の上司であるものの、つい彼女に対して軽口を叩いてしまうのだ。
そんな上司と部下の関係が数年続き、その関係に居心地の良さを感じていたわけだが、それがここ最近でどうも違ってきたようだ。
自分が彼女に向ける感情が、これまでのものとは少し変わってきているのが分かった。
誰に頼ることもなく、甘えることもなく。
人には厳しいが、自分にはもっと厳しいシャル。
そんな彼女はいつ、どうやって安らぎを得ているのだろうか。安らぎを与えてくれる人が、彼女にはいるのだろうか。
そういうことが気になって仕方が無い。
シャルが所長の命令で早退してから三日後、彼女は幾分マシな顔色になって出勤してきた。
所長に挨拶した後、あの場に居合わせた面々に一言ずつ声をかけ、最後に俺のところにやってきた。
「迷惑かけたわね」
デスクで研究結果のデータをパソコンに打ち込んでいた俺に、そう話しかけてくる。
体調がまだ完全に回復していないのと気恥ずかしさからか、口調にはいつものような険が無い。
俺はキーボードを打つ手を止めて、横に立つシャルを見上げた。
「いえ、迷惑って程でもないですから。割りと腕力には自信があるので、小柄な女性を抱えるくらい簡単ですよ」
俺の言葉にシャルの眉がピクリと反応を示す。シャルは自分の身長をことのほか気にしているからだ。
しかし、それ以上彼女は反応を露にすることはなく、
「ありがとう、助かったわ」
と、礼を述べるに留まった。
言葉の上では感謝を示しているが、あくまでも言葉だけ。
彼女の表情はやはりこれまでとは変わらず、他人とは確実に線を引いている。
そんな彼女を見ていたくはなかった。
「あなたが優秀なことは十分理解していますが、生身の人間なんですよ。無理をし過ぎれば、体に負担がかかるんです。もう少し周囲を頼ってはいかがでしょうか」
差し出がましいとは思うが、つい、そんな言葉が出てしまった。
何もかも一人きりで抱えてしまうシャルが、痛々しくてこっちが苦しくなってしまう。
「体調が悪い時くらいは、研究所の人間に甘えても誰も文句は言いません。職員の誰かに甘えたくなければ、せめて家族には」
と言ったところで、彼女の瞳が一瞬揺らいだ。目の錯覚かと思えるくらい、ほんの一瞬。
だが彼女の瞳に涙が浮かぶことは無く、すぐさま普段どおりのシャルリアーノに戻っていた。
「……余計なお世話よ」
奥歯で噛みしめるように低い声で呟いた後、シャルリアーノはクルリと背を向けて立ち去ってゆく。
その小さくて華奢な背中はピシッと伸びていたが、それが俺には彼女の虚勢に思えてしまった。
それから更に数日が経ち、シャルリアーノを注意深く観察しているうちにあることに気が付いた。
彼女は『家族』という言葉に、殊更嫌悪の反応を示す。
あからさまに眉をしかめ、声を荒げるといったとは無いのだか、シャルリアーノを包む雰囲気が冷たいものに変わる。
いや、冷たいというよりも悲しいといったほうが正しいのかもしれない。
そんな彼女の反応は、俺には理解できないものだった。
なぜ、“家族”を嫌うのか。血の繋がりがあり、自分のことを愛情持って育ててくれた“家族”のことを。
とはいえ、親であれ、兄弟、姉妹であれ、自分とは違う人間だから意見がぶつかることは多々あるものだ。
一時的に仲たがいすることは、何処の家庭でもさほど珍しいことではない。
かくいう俺も、思春期には両親と折り合いが悪くなったこともあった。時には、父親と殴りあう寸前まで険悪になった事がある。
今ではそんなことも無くなり、電話で話もするし、誕生日や何かの記念日にはお互いにプレゼントを贈ることもしている。
だが、シャルリアーノからは『家族との単なる感情や意見のすれ違い』という言葉では表現できない、もっと根深い何かを感じさせる。
それが、あの破かれた家族写真に繋がっているのだと、俺は薄々気づき始めていた。
誰に対しても甘えない、いや、甘える事が出来ないシャルリアーノの小さな背中を見ていると、胸がグッと締め付けられる。
そんな彼女を見ているうちに、いつからか心の中で、
『俺に甘えてくれればいいのに』
と呟くようになっていた。