(4)消えた愛情 SIDE:シャル
昼食を摂りに食堂に向かう途中で、所長からこの施設の資金援助者である桜井グループの御曹司が視察を兼ねて挨拶に来ると聞かされた。
所長は世間話のつもりで、御曹司についてあれこれ教えてくれた。
そして、その御曹司はトオルが長いこと片想いしていた幼馴染と結ばれた人物だと知る。
婚約目前までこぎつけたトオルの目の前で、幼馴染の彼女を奪い去った御曹司。
しかも、この視察にはその幼馴染も同行するという。
―――いったい、どんな顔してこの施設に来るつもりなのかしら。
トオルはこの話を聞いて、どう思っただろうか。
いつもニコニコと笑顔を絶やさない、年上の部下の顔を思い浮かべる。
―――つらいに決まってるわよね。人生の半分近くを彼女のため医学に捧げたにも拘らず、自分の想いが報われなかったんだから。
私はトオルに同情した。
手の中の愛情が目の前からなくなってしまう悲しみは、自分もよく知っていたからだ。
変に落ち込まれて業務に支障が出たら困るので、トオルにちょっと豪華な食事をご馳走して慰めてあげようと考えた私は、終業後にトオルの車のところで彼を待った。
そして彼の話を聞いて呆れた口が塞がらず、トオルに一瞬でも同情した自分に呆れた。
ムカムカした気分のまま帰宅した私は、少しでも気分を落ち着けようと、お気に入りのバスキューブを浴槽に入れた。
ジャスミンの香りに包まれると幾分苛立ちは治まってくれたが、完全には落ち着かない。
食欲もなく、こんな時は寝てしまうに限ると、私は21時を前に寝室に向かった。
ガランとした寝室。
自分一人が寝る為のベッドと、その脇に小さなサイドテーブルしかなかった。
役職付の私の給料はそこそこ高額で、取り立てて趣味のない私は、同年代の女性よりもはるかに多くの貯金があった。
が、必要最低限のものだけあれば私は困らない。
子供の時に描いた人生どおりに事が進んでいれば、今頃はその貯金が有効に使われていたことだろう。
―――もうそれは、起こりえないでしょうけどね。
ベッドの淵に腰を下ろした私はサイドテーブルの上で伏せられているフォトフレームに視線を落とし、これまでに何度となく繰り返した呟きを心の中でそっと漏らした。
私の父は農夫だった。
代々続く農園の長男に生まれた父は、幼い頃から勉学よりも作物に関する知識を詰め込まれ、正直言ってしまえば学が低い。
そんな父に嫁いだ母も、父と同じ程度の学力。
しかし、そんな2人の間に生まれた私は、なぜか彼らとは違った。
5歳になる前には周りの子供達よりもいち早く難しい言葉を読み書きし、それを見た両親は私のことを褒めてくれた。
「シャル。大きくなったら、何になるんだ?」
「わたし、おいしゃさんになるの!」
「素敵。シャルなら絶対になれるわ」
裕福ではなかったが、笑顔の絶えない幸せな家族だった。
しかし、その幸せは私が小学校に入学した頃から崩れ始める。
私の学力の高さに驚いた先生が学術機関に依頼して、IQを調べてもらうことになったのだ。
そこで出た数値は160。
110という値でも十分天才の域に入るのだが、それをはるかに上回る数値。
しかも特別な教育を受けたことのない、農業一家に育ったごくごく普通の家庭の少女が、だ。
騒然となる大人たちに、私はそれがどれだけ重大なことなのかが全く分かっていなかった。
ただ、自分の学力が人よりも高いということを知らされ、私はすごく嬉しかった。
これならば、医者になるというのも夢ではない。
立派な医者になって、たくさん働いて、いっぱい稼いで、お父さんとお母さんと、3歳上のお姉ちゃんに今よりも良い暮らしをさせてあげたい。
ところが私の思いとは裏腹に、周囲が不用意に騒ぎ始める。
つまり、私は『母の浮気によって生まれた子どもだ』と。
酒を飲んで酔った父が大声で言う。
「ろくに学校に行かなかった俺の娘が、あんなに利口なはずがない!お前が他の男との間に作った子供なんだろ!」
もちろん、そんな馬鹿げたことはあるはずもなく、母が必死になって否定するが父は一切聞く耳を持たない。
はじめは私のことを謂れのない陰口から庇ってくれていた姉も、飛び級で姉の学年を追い越してから態度が変わった。
「授業で間違えると、決まって先生達に“お前とは違う優秀な妹に教えてもらえばいい”って言われるの。私がどんなに惨めで悔しい思いをしているかなんて、あんたには分からないでしょうね!」
やがて、父も母も姉も、私を見ては口を揃えてこう言うのだ。
『シャルなんか、いなければよかったのに!』と。
信頼していた愛する家族に拒絶され、精神的に大きなショックを負った私は見る見るうちにやせ細っていく。
それを心配した顔馴染みである近所の老齢の医者が、私を引き取ってくれた。
そして、自分の出身地であるK州に私を連れて引っ越す。
それ以来、今の今まで、両親とも姉とも会ってはいない。
「会いたいとも思ってないから、別にいいけど」
吐き捨てるように零し、私は冷たいベッドで身を丸め眠りに着いた。