(2)理解できないもの SIDE:シャル
バタンと後ろ手で力任せに扉を閉め、カツカツとハイヒールのかかとを鳴らして廊下をズカズカ歩いてゆく。
手術を執刀する時以外は常に私はハイヒールであり、おかげで今ではすっかり身体の一部のように馴染んだ。
背が低いからハイヒールを履いているのではない。
少しでも“大人として”見られたくて、その象徴としてのアイテムだった。
16歳を迎える前にはすでにこの世界で働いていた。
周りは若くても私の10歳も上の人がザラで、そんな中で負けてなるものかと、必死で歯を食いしばり、泣きたくても人前では絶対に泣かなかった。
子ども扱いされることがとにかく嫌で嫌で。
そして、初めて会った私のことを“異質な生き物”として見られる事が、たまらなく嫌だった。
私はみんなと同じ人間で、女の子で。
だけど私の持つIQが、みんなとの間に線を引いた。
そんな出会いをこれまでに何度も繰り返し、私は諦めにも似た絶望を抱えていた。
血の繋がった両親や姉からも奇異の目で見られて、そしてあっけなく離れていったのだ。赤の他人が私を普通の人間として扱ってくれるはずもない。
私という存在に慣れてくれば、シャルリアーノ・シグノイアという人間として接してくれる。
それでも、彼らの中で私は“特別な存在”という感覚が拭えないでいるようだ。
なのに、たった一人だけ、初めて顔を合わせた時から、“私”を見てくれた人がいた。
それがトオルだった。
畏怖もなく、嫉妬もなく。
ただ、真っ直ぐに私を見て、真っ直ぐに手を差し出してきたのだ。
『どうぞ宜しくお願いします』
と、柔らかい微笑と共に。
人と出会うことに辟易していた私にとって、トオルとの出会いは衝撃だった。
だけど、彼とどうこうなりたいとは思わなかった。
心を寄せる人に捨てられるのは、もうこりごりだったから。
ほつれて落ちてきた前髪をザッとかき上げて、フン、と鼻を鳴らして廊下を曲がったところで、向こうからやってきた所長と鉢合わせた。
「どうした、シャル。そんなにプリプリして、珍しい」
私は所長の言葉に我に返り、いつもの冷静な自分を取り戻す。
「大したことではありません。腰抜けな日本人に呆れているだけですよ」
感情を表さない口調で、淡々と告げた。
すると所長は苦笑いを浮かべる。
「ほう。腰抜けな日本人とは、トオルのことかな?」
「他に誰がいますか?」
私が当然といった顔をすれば、所長はますます苦笑を深める。
「まぁ、彼の見た目は穏やかだからなぁ。だが、それだけの男ではないんだぞ」
ふてくされる子供を窘めるような物言いに私は少しだけカチンと来るが、そこは顔には出さないでおく。
「どういうことでしょうか?」
「トオルは自分の意見はしっかり持っているし、けしてイエスマンなんかではない」
確かに、仕事においてトオルは妥協しない。相手が自分より上の立場であっても、しっかりと自分の意見を述べる度胸はある。
「ですが、所長は知っているんでしょ?好きだった女性をあっさり諦めて、他の男に渡してしまったって」
腕を組んで皮肉たっぷりの私に、所長の目が僅かに厳しくなる。
「シャル、そんな風に言うな。トオルはけしてあっさり身を引いたわけじゃないんだ」
所長はトオルのアメリカにおける身元引受人であるから、どこか彼に対して父親的な態度を見せる。
仕事に関してはそうではないが、それ以外の場面ではどの部下よりもトオルに優しい。
しかし、そんな事実は私の意見を翻す要因にはならず。
「そうでしょうか?」
と、冷めた口調で切り返す。
「自分の好きな人を諦める事が、本当に正しいことだとは思えませんが」
「相手の幸せを願って、その手を放すのも愛情だ」
しみじみ語る所長は、完全に父親の顔をしていた。
私を宥めるように穏やかに言う所長だが、彼の言う愛情は私の優秀な頭脳がもっとも苦手とする分野だ。
「愛情ですか。だったら、私には一生理解できませんね」
そんな私に、『しょうがない奴だな。まぁ、いずれお前にもわかる日が来るさ』と笑って、所長は肩をすくめたのだった。