(1)変わってしまった日常 SIDE:徹
相変わらず仕事で忙しい日々。
相変わらず青く晴れ渡る空。
だが、俺の生活の“ある一部分”が大きく変わってしまった。
研究所の食堂で昼食を食べ終えた俺は、みんなよりも一足先に自分のデスクに戻って医療雑誌に目を通していた。
今月号の特集は、この研究所において一番の目玉である人工声帯についてだ。イギリスで行われた学会のレポートや、所長へのインタビュー記事が載っている。
パラリとページをめくると、人工声帯のイラストが説明入りで出ていた。
それを感慨深く指でそっと撫でる。
俺の医師としての指標であり、また、人生最大の命題でもあった人工声帯の開発。
彼女のために捧げた時間と熱意。
それがつい先日、半ば予想していたとおりの結末を迎えた。
「よかったのかなぁ、あれで」
得意気に写真に写る数ヶ月前の自分や同僚達の写真を見て、知らず知らずのうちに苦いため息が洩れる。
すると不意に誰かが横に立ち、俺が手にしていた雑誌を取り上げると筒状に丸めてポコッと頭を叩いてきた。
「なに、湿気た顔してんのよ」
それは上司であるシャルリアーノだった。
少し色の濃い金髪でこげ茶の瞳の彼女は、アメリカ成人女性の平均身長よりも低めで160センチに届いていない。それを気にしてのことかどうかはわからないが、常にハイヒールを履いていた。
仔猫を思わせるような瞳が可愛らしいが、そんなことを言えば彼女は『年下だと思って馬鹿にしないで』と、冷たい視線を向けてくる。
馬鹿にしたつもりもないし、素直に可愛いと思っての言葉だったのだが、彼女は若く見られることを良しとしない性格だった。
シャルリアーノは俺より3歳下なのだが、医者としてのキャリアは俺より長い。
常人よりもはるかに高いIQを持つ彼女は、飛び級により15歳でアメリカ屈指の医大を卒業。
その後は大学病院で腕利きの外科医として名を馳せながら、人工筋肉やその周辺組織の研究に余念がなく、俺がこの研究所に入る2年前にその論文が認められ、ヘッドハンティングされたという。
若干30歳ながらにして、研究開発チーム第1グループの責任者であった。
俺だってそれなりにいい結果を出してきたが、このシャルリアーノには遠く及ばず、今は彼女を補佐する助手の1人。
実力も立場も違うが、それでも俺のほうが年上ということもあって、ガチガチの上下関係はなかった。
そばかすがうっすら残るシャルリアーノの顔を見上げて、俺はフッと息を吐く。
「湿気た顔にもなりますって」
「どうしてよ?10年だか15年だか片想いしていた幼馴染と、このまえ恋人になれたんでしょ。所長がそう言ってたし、数日前までのトオルの浮かれっぷりったら、恥ずかしくて見てられなかったわ」
彼女が言うように、確かについ先日までは幸せだった。
だが。
「別れましたよ、その彼女とは」
「…………へ?」
あっさり告げた俺の言葉を聞いて、十分すぎるほど間を取った後にシャルリアーノがすっとぼけた一言を漏らした。
そんな彼女に改めて言う。
「別れたんですよ。いや、あれは別れたというよりも振られた?待てよ、奪われたという表現が相応しいか」
口元に手を当ててブツブツと呟く俺に、シャルリアーノが怪訝な顔をして首をかしげた。
「何それ。ぜんぜん意味が分からないんだけど」
「ですからね、日本から彼女を追いかけてきた元恋人の男に、俺の目の前で掻っ攫われたんですよ」
俺と共に人生を歩む決意をしてくれたチカちゃん。
だけど、彼女の心の奥に無理矢理眠らせた恋心は、眠ったままではいてくれなかった。
目を細めてほんの少しだけ寂しそうに笑うと、なぜかシャルリアーノが腹立たしげに眉をしかめた。
「……で?」
「“で?”って、なんですか?」
「だから、それでトオルは良かったのかって訊いてるの!暢気に笑ってる場合じゃないでしょ!!」
バシンと床に雑誌を叩きつけた上司の怒号に、俺はヒョイッと肩をすくめる。
「いいもなにも、俺は彼女に選ばれなかった。それだけです」
彼女のためにこれまで頑張ってきた。それこそ死に物狂いで。
それでも結果は惨敗。
こうなったら笑うしかないじゃないか。
淡々と答える俺に、シャルリアーノは俯いて小刻みに肩を震わせている。
「…………ないの」
「は?今、なんと仰いました?」
俺の言葉に俯いていたシャルリアーノがガバッと顔を上げて、椅子に座る俺の胸ぐらを掴んできた。
「“馬鹿じゃないの”って言ったのよ!それだけ長い間好きだった人をあきらめてしまうなんて、アンタって本当に馬鹿ね!すがり付いてでも引き止めなさいよ!ったく、これだから日本の男ってダメなのよ!!」
俺の白衣を掴んだ手をグラグラ揺らして、俺の頭をガクガクと震わせた後、バッと放した。
「この意気地なし!!」
日頃から遠慮のない上司は、失恋したばかりの俺にも容赦がない。乱れた胸元を片手で直し、俺は自嘲気味に笑う。
「ははっ。傷心の俺にとって、その言葉はきついなぁ」
「ふんっ。ヘタレのアンタには、このぐらい言ってやらなきゃ分からないでしょ!」
肩甲骨の下辺りまで伸ばした蜂蜜色のストレートヘアをゴム1本で纏めた尻尾を振り向きざまに勢いよく揺らして、シャルリアーノは足音も荒々しく部屋を出て行った。
「どうして振られた俺より、シャルが怒ってるんだ?」
床に落とされた雑誌を拾うと、俺は今しがたものすごい音を立てて閉められた扉を眺めてポツリと呟いた。
●「徹さんが可哀想」「優し過ぎる徹さんに幸せになって欲しい」という読者様のお声を頂きましたので、番外編として徹さんのお話を書くことにしました。
チカちゃんとアキ君のお話に引き続いて、温かく見守っていただけたら幸いです。