(5)ありがとう SIDE:チカ
アキ君と見つめ合っていると、不意に扉をノックする音が聞こえた。
「入るよ」
そう声をかけてきたのは、徹さん。
扉の隙間から顔をヒョッコリのぞかせて、ニコッと笑った。
訳の分からない言葉を残して私を混乱させたくせに、ニコニコとのん気に笑っている徹さんを見て、私は少し不機嫌になってしまう。
「ねえ、どうしてアキ君がここにいるの?ちゃんと説明して!」
“怒ってます”と顔に貼り付けて徹さんを睨みつけるが、変わらず笑い続けている。
「さっき言ったでしょ、退院祝いを用意してあるって。それが桜井さん」
「……は?」
―――アキ君が退院祝い?
思わずきょとんとなった。
―――何を言ってるの?
ますます訳が分からない。
そんな私に構わず、徹さんは病室に入って来た。
「それより、桜井さん。話はまとまりましたか?」
「はい、おかげさまで」
アキ君が嬉しそうに答えると、徹さんは小さく、
「それは残念」
と、苦笑交じりに呟いた。
アキ君と徹さんの間にある話が、私にはぜんぜん見えない。
首をかしげていると、徹さんが私の目の前にやってきた。
「チカちゃん、また泣いたみたいだね。まぁ、泣き顔といっても、さっきの俺の時とはぜんぜん違うか」
徹さんは私の髪をクシャリと撫でる。
「悔しいけど、今のチカちゃんはいい顔してる。……惚れ直したよ」
「え?」
言葉に詰まった私を、アキ君がサッと抱き寄せた。
「チカは渡しませんから!」
抱きしめた腕にキュッと力を入れて、アキ君は威嚇するように徹さんに向って吠える。
「ア、ア、ア、アキ君!?」
この状況と彼のセリフに、私の顔が真っ赤になった。
「あははっ。桜井さん、そんなに怖い顔をしないでください。失恋男のたわごとですから」
口元に手を当てて笑う徹さんの目は,ちょっと寂しそうだ。
これまで私のために一生懸命だった徹さんに対して、こんな結果になってしまったことは本当に申し訳ないと思う。
だけど、私の心はやっぱりアキ君で一杯なのだ。
アキ君の腕から抜け出し、まっすぐに徹さんを見た。
「徹さん。あの、ごめ……」
「謝らないで」
私の言葉を徹さんが遮る。
「謝られると、余計みじめになるからさ」
ポンポンと頭を撫でられ、私はそれ以上何も言えなくなった。
掛ける言葉が見つからない私に、徹さんは優しげに目を細める。
「チカちゃんに明るい笑顔が戻って、本当によかった」
お世辞や妬みではなく、素直に喜んでくれているのがよく伝わってきた。
「それは徹さんのおかげだよ。ありがとう」
精一杯の感謝を込めて、私は微笑んだ。
『ごめんなさい』ではなく、『ありがとう』と。
その様子をトオルさんは目を細め、眩しそうに見ている。
「いい顔だなぁ。……あぁ、やっぱり悔しい!!」
大きく騒いだ徹さんはアキ君を見る。
「ちょっといいですか?」
手招きをして彼を呼び寄せた。
「はぁ……」
アキ君は軽く首を捻りながら、呼ばれるままに徹さんの1歩手前に立つ。
すると徹さんはニコッと笑った。
かと思ったら、アキ君のお腹をいきなり殴ったのだ。
「うっ」
うめき声を上げて、アキ君が上体を折る。
「えっ!?アキ君、大丈夫!?」
私は急いでアキ君に駆け寄った。彼は眉をひそめながらお腹をさすっている。
「徹さん、いきなり酷いじゃない!どうしてこんなことするのっ?!」
アキ君を庇うように抱きしめながら、徹さんをキッと睨んだ。
私が睨んでも謝ろうとはせず、
「だって約束だから」
と、ニコニコと笑う徹さんは、悪いことをしたとはまったく思っていないようだ。
―――いったい何なの?
一連の徹さんの言動がさっぱり分からない。
パチパチとまばたきをしていると、アキ君がようやく体を起こした。
「それは俺が言い出したことで、山下さんには関係ないはずですよ?」
まだ痛むのか、お腹を擦りながら低くうなるようにアキ君が言う。
「ですがその後、桜井さんは“そうですね”って同意してくれたじゃないですか。だから、俺の約束でもあるんです」
徹さんが得意気に胸を張った。
「くそっ。下手に頭がいい人間は、すぐに屁理屈を言うから嫌いだ」
2人が軽く睨み合った。
―――え?え?
私一人が状況を飲み込めずオロオロと不安げに見守っていると、2人は同時に表情を和らげた。
「恨むのもナシっていうことも約束ですからね。俺は大人しく退散しますよ」
徹さんはアキ君に手を差し出す。
「チカちゃんをよろしくお願いします」
これまでとは違って、ふざけた様子は一切ない徹さん。
「もちろんです」
アキ君も真面目な顔で手を握り返した。
結局なんだか分からないけど、アキ君と徹さんは仲直りできたようだ。
病室に穏やかな空気が戻ってくる。
「じゃぁ、俺、そろそろ行くよ。チカちゃん、元気でね」
「うん。徹さんも元気でね」
しっかりと握手をする。
「徹さん、ありがとう。本当にありがとう!」
言葉では足りないくらい感謝している。
その想いを両手にこめて、トオルさんの手を握った。
「“お兄ちゃん”として、チカちゃんの幸せを願ってるよ。……桜井さんに冷たくされたら、いつでも俺のところにおいで」
徹さんが私にコソッと囁く。
そのセリフを、アキ君は耳ざとく拾った。
「ご心配なく!俺とチカは一生仲良しですから!」
後ろから私を抱きしめ、アキ君が大きな声で言う。
「ははっ、それは頼もしいことだね」
軽やかな笑い声を上げた徹さんは、私たちに手を振って病室を出て行った。
扉が閉められて、また2人だけの空間になる。
「本当にいい人だね」
横に立つアキ君がしみじみと言う。
「うん。自慢のお兄ちゃんだよ」
「そのお兄ちゃんに怒られないように、チカを幸せにしないとな」
アキ君はそっと私に身を寄せて、肩を抱く。
「アキ君がいてくれるだけで、私は幸せになれるよ」
そう言って、私は自分の肩に乗る彼の手を握った。
「一緒にいるだけで幸せだと思える人に出逢うことって、それこそ奇跡なんだろうね。しかも、相手も私と一緒にいたいと思ってくれるなんて奇跡以上だよ」
そっと彼を見上げる。
アキ君も私を見ている。
「今なら両親に対して素直に感謝できるよ。チカは本当にすごいな。両親を許すことが出来たのも、俺を生んでくれたことに感謝できるのも、チカのおかげだよ」
「なんか、そんな真面目に言われると照れちゃうよ。何にもしてないのに」
「その何もしていないチカが俺を変えたんだから、やっぱりチカはすごいって事だな」
アキ君が私の手を優しく握り返してくる。
「チカ。俺を好きになってくれてありがとう」
「アキ君。私を好きでいてくれてありがとう」
私とアキ君が生まれ。
そして出逢い、恋に落ちた。
1度離れてしまったけれど。
また、出逢えた。
今ここで、私が再び『アキ君』と呼べるようになったのは、たくさんの人たちのおかげ。
徹さんはもちろん、人口声帯の開発に関わった人。
リハビリの先生。
傷付いた私を温かく見守ってくれた優子さん。
アキ君の会社の人も、きっと何かをしてくれていたはず。
把握しきれないほどのたくさんの人たちが、私たちの再会に関わっている。
私一人では、再会は叶わなかった。
私一人では、アキ君とまた笑いあえなかった。
たくさんの人の巡り合いの結果に生まれた奇跡。
その奇跡の結果に掴んだ幸せ。
ありがとう。
ありがとう。
みんなに感謝します。
「さ、日本に帰ろう」
すっきりとした顔でアキ君が言う。
「そうだね」
私の顔も、彼と同じような表情だろう。
日本に帰れる日が来るなんて。
まして、アキ君と一緒に帰る日が来るなんて、夢みたい。
感激して思わず涙がこみ上げてきたけれど、ここで泣いたら、また『泣き虫だ』と言われそうだ。
私はグッと涙をこらえて、にっこりと微笑んだ。