(4)愛しき彼女
目の前にチカがいる。
手を伸ばしても逃げたりしない。
抱きしめても消えたりしない。
夢の中でしか会えなかったチカがここにいる。
離れていた間に大人びたように見えるけれど、泣き虫なところも、笑顔が魅力的なところも、ぜんぜん変わっていなかった。
そんな愛しいチカが、今、俺の腕の中にいる。
「チカ」
「アキ君」
名前を呼べば、呼び返してくれる彼女の声。
チカの声は想像していた通りで、素直で明るい彼女の人柄がよく伝わってくる。
そんなチカと築く家庭は、やっぱり明るく楽しいものになるだろう。
それを思うと、少しでも早く日本に帰りたくなった。
彼女を抱きしめたまま、綺麗な黒髪を撫でる。
「チカ、一緒に帰ろう。俺と一緒に帰ろう」
それを聞いたチカは、一瞬目を泳がせた。
「でも、私は……。伯父様や伯母様に認められてないから……」
そう言って顔を伏せる。
そんな彼女をギュッと抱き寄せた。
「もう、何も問題はないんだ。チカは声を取り戻した。そして俺の本気を、あの2人は理解してくれた。
だから、チカは何も心配することはないんだよ」
うっすらと涙の後が残る彼女の頬にそっと触れる。
「大丈夫。安心して日本に帰れるよ」
「アキ君……」
涙が滲み、再びチカの瞳を揺らした。
「それから……」
俺は腕の中からチカから解放し、自分の上着のポケットをに手を入れる。
「これはチカが持っていないとダメだろ?」
彼女の左手を取って、あの指輪をはめた。
チカはその様子を声も出さずに見ている。
「うん、やっぱりここにあるのが一番しっくりくるな。いくら絶大な効果があるとはいえ、俺が持っていても意味ないよ」
チカは複雑な顔で、久しぶりに自分の指に戻ってきたその指輪を見つめていた。
「どうした?」
「……アキ君、怒ってる?」
目を伏せたままの状態で、ぽつりとチカが呟く。
「怒るって、何を?」
「突然、姿を消したから。それにイギリスでは、アキ君を知らないフリをしていたし。……指輪を私に返すって事は、全部思い出したんでしょ?」
チカは小さく肩を震わせながら、恐る恐る言葉を選んでいる。
俺は頭をガリガリとかいて、当時の自分を思い出し、正直に話すことにした。
「んー、怒るというか、初めはとにかくショックだったかな。“両親のように俺を捨てるのか”って」
それを聞いたチカはますます俯いてゆく。
「それなら、私はアキ君にふさわしくないよ……」
彼女は弱々しいながらも腕を突っぱね、俺と距離をとろうとする。
そんなチカに手を伸ばす。
「こら、最後までちゃんと聞いて」
俺の前からまた勝手に姿を消そうと考えているチカの肩を抱き寄せた。
「でもね、チカを嫌いになんてならなかった。冷静になると、何か理由があるんだろうって思ったよ。だって、チカはそんな酷い事をする人間じゃないから」
チカを落ち着かせるように、子供をあやす母親と同じく彼女の背中をゆっくりとしたリズムで叩く。
彼女は抵抗をやめ、大人しく俺の話を聞いている。
「俺と別れたのも、俺を知らないフリをしたのも、桜井グループを守るためだったんだろ?」
じっと俯いたままのチカ。
しばらくして、小さく頷いた。
「アキ君、色々とごめんなさい」
「謝るのはこっちだよ。チカに散々つらい思いをさせた。ごめんな」
彼女の背中にあった腕を回し、しっかりと抱きしめる。
「本当にごめんな」
チカは首を横に振る。
「もう謝らないで。アキ君がまだ私を好きでいてくれたから、それで十分満足だよ」
ようやくチカが顔を上げ、そして柔らかい微笑みを俺にくれた。
何もかも包み込み、許してくれるチカの微笑み。
その微笑みがあまりにも綺麗だから、切なくて泣きたくなる。
―――やっぱりチカはマリア様だ。
その清らかな微笑を独り占めしたくてたまらない。
今も昔も変わらないチカをずっと自分のそばに留めておきたくて、俺はある提案を持ち出すことにする。
「何言ってんだよ、この程度で満足なんて甘いぞ。日本に帰ったら、すぐに結婚だからな」
ニヤリと笑う俺。
「え?ええっ!?」
大きく魅力的な瞳をまん丸にして驚くチカ。
「け、け、結婚?!アキ君、今、結婚って言ったの?」
「うん、言ったよ」
「そんなのムリ!急すぎるよっ」
「急じゃないだろ、前に約束したじゃないか」
『この指を、ダイヤの付いたリングで飾るから』
クリスマスの日。
初めて俺の家に訪れたチカに、そう言った。
俺は鈍く光るシルバーリングを包む様に、彼女の手を握る。
「時間はかかったけど、チカを支えられるくらい大人になれたんだ。もうチカと離れていたくない。それとも、俺と結婚するのはイヤ?」
「そうじゃない。けど……」
困ったように眉を寄せ、言葉を濁すチカ。
「けど?」
「アキ君と結婚したら、私はいつか社長夫人になるんでしょ?そんな大役、果たせそうにないよ。だって、私は普通の家庭の子だし」
俺の家に来た時、その大きさと豪華な調度品に驚いていたチカ。
自分の住む世界とあまりに違いすぎる様子に、彼女は戸惑っていた。
付き合っていただけの頃はまだよかったのだろう。だが、結婚となると自分の周りが、日常が、そういう世界になる。
その事に戸惑う気持ちは、分からなくもない。
かといって、みすみすチカを手放す気持ちは欠片もないのだ。
「平気だよ、チカは前向きに頑張れる人だから」
「そんな簡単に言えることじゃないもん。ホテルグループ全体のことなんだよ?」
大グループの社長婦人になれることで浮かれる女性は多いだろうが、チカは違う。
理解できないながらも、会社経営が難しいものだと察している。
だから、簡単に喜べないでいるのだ。
でも、俺からすれば、こうやって会社の事を考えられることができるというのは、社長婦人としての素質があることだと思う。
「大丈夫。俺が必ずそばにいるから」
握る手にそっと力を込める。
「絶対に守るから」
チカの瞳をまっすぐに見つめた。
少し間があって、チカがふっと微笑んだ。
「……分かった。頑張ってみるよ」
「心配する事なんかないって。チカの笑顔を見たら、みんなが味方になってくれるよ。なんたって、ひねくれまくっていたこの俺を惚れさせた笑顔なんだからな」
ボン、とチカの顔が赤くなる。
「そ、そんな、惚れさせたとか、言われると照れるよっ」
「だって、俺がチカを好きになったのは事実だし。オマケに惚れ直したし」
「ああ、もう!さっき、私のこと“相変わらず泣き虫”って言ったけど、アキ君だって相変らず“好き”とか言いすぎ!」
耳まで真っ赤になったチカは右手でこぶしを作り、俺の胸をトン、と叩く。唇だけで“バカ”と囁きながら。
「よし、どうせなら俺がどれだけチカのことが好きなのかを、みんなに知らせてやろう。と言うわけで、結婚式は早めに挙げるぞ」
「しょうがないなぁ。アキ君は昔から、言い出したら止まらないんだもんね」
チカがクスクスと笑う。
「幸せになろうな」
抱き寄せたチカの耳元でそう囁くと、チカは『幸せになろうね』と返してくれた。