(8)賭け
―――どうして、チカが山下さんと!?
彼にはようやく射止めた彼女がいるはずなのに。『ずっと好きだった』と言う彼女が……。
―――『ずっと好きだった』?!
イヤな予感がする。
俺の額には、いつの間にか冷や汗が浮かんでいた。
エアコンにより快適な室温に設定されているはずなのに、汗がジワジワと滲む。
―――山下さんが好きだった人って……。まさか、まさかっ!!
ゴクリ、と息を飲んで正面に座っている人物を見つめる。
彼は大きなため息をつき、そして言いづらそうにゆっくりと口を開いた。
「あなたが思っているとおりですよ。俺が好きだった人と言うのは、チカちゃんです」
「そ……んな……!?」
俺の口から乾いた声が漏れる。
同時に、数日前の夢が脳裏で閃光と共に蘇った。
結婚式場となった教会。
真っ白なウェディングドレスに身を包んだチカ。
その彼女の隣にいたのは、この人ではなかったか?
チカの口から出た名前は『トオル』ではなかったか?
―――あれは正夢!?
あまりのショックに体がガタガタと震える。
う、そ……だ。
嘘だ、嘘だ。そんなの、嘘だ!!
あれは夢だ。たちの悪い夢だ。
実際にあんなこと、起こるはずがない。起こっていいはずがない。
―――だって、チカは俺と結婚するのだ!
「桜井さん、桜井さんっ!」
驚いた山下さんが腕を伸ばし、俺の肩を何度も強く揺さぶった。
「あ……」
ガクガクと揺れる刺激を受け、ようやく俺の瞳に光が戻ってくる。
「す、すいません」
どうにか正気には戻ったが、動揺は収まらない。
そんな俺を見て、山下さんは申し訳なさそうな表情だ。
「やっぱり、驚きますよね?」
「はい……。気を失いそうでした」
ため息と共に力なく答えた。
俺がそう言うと、山下さんは大きく眉を寄せる。
「それは悪いことをしてしまいましたね。ですが、チカちゃんに対して真剣なあなたに隠しておくのは卑怯だと思ったんです。
そんなに驚かれるとは思わなくて、こちらもびっくりしましたが」
「いえ、動揺しすぎました」
お互い苦笑し、落ち着くために冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
ふぅ、と一息吐いて、俺が先に口を開く。
「あの、チカと一緒に暮らしているんですよね?それは……」
そこで俺は口ごもる。
続きは怖くて言えなかった。
ところが、返ってきた言葉は俺が考えていたものとは違った。
「住む所がない彼女に部屋を提供しているだけですよ。現在のところ、同棲と言えるほど親密な関係とは言えないと思います」
「そうですか……」
思わず安堵のため息。
しかし、ここで山下さんはまたしても衝撃的なことを口にする。
「ですが、将来的にチカちゃんとの結婚を考えています」
しっかりとした意思を持つ山下さんの言葉に、再び目の前がくらむ。
「そのことについて、チカはどう考えているんですか……?」
搾り出すような弱々しい俺の声。
チカは心変わりしてしまったのだろうか。
“声が出ない”という理由で切り離したあの2人を両親に持つ俺よりも、ずっと見つめて、ずっと見守ってきた山下さんを選んだのだろうか。
俺がこれまでに費やした2年間は無駄だったのだろうか。
これまで必死で保っていた心が、音を立てて崩れ落ちそうだ。
そんな俺に、追い討ちをかけるような山下さん。
「先日想いを告げたところ、チカちゃんは俺と付き合っていくことを決めてくれましてね」
―――そんなっ。
俺はがっくりと肩を落とした。
ところが、本来ならば勝者のはずである山下さんも肩を落とす。
「ただ……、今でも彼女の心の中には桜井さんがいるんですよ」
淡々と告げる口調。
それは俺に対する悔しさをどうにか隠そうとしているのがよく分かる。
山下さんの言葉を聞いて、俺の目にうっすらと涙が浮かんだ。
―――良かった、俺は完全に捨てられたわけじゃないんだ。
だけど、それが分かったところで状況は自分の思うようにはならない。
チカは心がまだ不安定な状態とは言え、山下さんと付き合う意志を示している。
ならば、俺はどうしたらいいのだろう。
途方にくれていると、先に山下さんが口を開いた。
「だから、賭けに出ようと思います」
「賭け?」
「はい。彼女の退院日、俺は正式にプロポーズをします。この先どうしたいのか、チカちゃん自身に決めてもらいましょう」
「プロポーズ……ですか?」
「はい。自分が選ばれる可能性は100%ではないので不安はあります。でも、こちらとしてもはっきりして欲しいんです」
俺が選ばれるのか。
それとも、山下さんが選ばれるのか。
それは、ここにいる俺達には分からない。
―――確かに賭けだな。
自分が望まぬ結果が出た時のことを一瞬想像して、背筋が冷たくなった。
嫌な考えを振り切ろうと、、俺は話題を変える。
「ところで、チカはどうして入院していたんですか?……あ、もしかして」
途中で気付いた俺に、山下さんが大きく頷く。
「人工声帯の手術をしたんですよ。リハビリも順調で、火曜日には退院です」
「そうだったんですか」
チカが上田さんに言った『事情があって連絡が出来ない』というのは、このことだったのだ。
出来ることならその手術に立ち会いたかったが、今更無理な話。
無事に手術を終え、経過が順調ならそれで良しとしよう。
「火曜というと、5日後ですね」
その日に俺の運命が決まる。
無意識のうちに体が緊張した。
「桜井さん、落ち着いてください。今から緊張していたら身が持ちませんよ。まぁ、お気持ちはよく分かりますが」
山下さんがやんわりと目を細める。
が、すぐに真剣なまなざしに戻った。
「桜井さんにお願いがあります」
「なんですか?」
「チカちゃんの気持ちを惑わせないためにも、退院する日まで彼女に会わないでください。
もちろん、俺も用がない限りは会いませんし、余計なことは言いません」
「分かりました」
俺が了承すると、安心したようにまたやわらかく目を細める。
「それと、どちらが選ばれても恨むのはナシにしましょうね」
山下さんは卑怯な手を使ったわけでもない。それどころか『フェアにいこう』と、チカの居場所を教えてくれた。
彼を恨むのはおかしな話だ。
そして、たとえ彼女が俺を選ばなかったとしても、チカを恨む権利はない。
山下さんの提案に首を大きく縦に振った。
「……でも、俺が選ばれなかった時は山下さんを1発殴らせてください。そのまま引き下がるのは、あまりに悔しいので」
俺が本音を漏らすと、彼は目を細めて笑う。
「ははっ、いいですよ。……何発殴られてもいいから、彼女を手に入れたいですね」
天井を仰ぎ見ながら漏らした彼のセリフは、一切偽りのない本心だろう。
「そうですね」
俺も、同じように思う。
過去、チカの彼氏として付き合った俺。
今、チカのそばにいる山下さん。
チカはどちらを選ぶのだろうか。
それからは山下さんに人工声帯の説明をしてもらった。
詳しく聞けば聞くほど、その技術のすばらしさに驚く。
そして彼も俺と同じように、いや、俺以上にチカのために時間と苦労を重ねてきたのだ。
とはいえ、チカのことは絶対に譲れない。
5日後。
俺を待ち受けるものはチカと一緒に歩む未来か、それとも……。