(3)お兄ちゃんの想い SIDE:チカ
翌日になると、薬のおかげですっかり熱が下がっていた。
ベッドの上に起き上がっても息苦しくない。
―――ノド、乾いたな。
何か飲み物を取りに行こうとしてベッドから下りようとすると、静かに扉をノックする音が聞こえた。
「チカちゃん、入るよ」
少し間があってから扉が開き、サンドイッチとりんご、オレンジジュースを載せたお盆を手にしたお兄ちゃんが入ってきた。
「おはよう。具合はどう?」
“もう平気……。”
昨日、あんな話を聞いてしまったため、なんとなくぎこちない顔になってしまう。
「本当にもう大丈夫?」
ベッド脇の小さなテーブルにお盆を載せたお兄ちゃんが、私のおでこにそっと手を当てる。
「うん、これなら大丈夫だ。朝ごはん食べてね」
お兄ちゃんはにっこりと笑った。
今までと変わらない態度に、私はホッとする。
だけど、やっぱり昨日の話は夢や冗談ではなく、
「……それから、話をしよう」
と、お兄ちゃんが言った。
私を見るお兄ちゃんの目は優しいけれど、そこに浮かぶのは強い光。
避けたり、逃げ出すことを拒む光。
―――聞かなかったことには出来ないよね。
“分かった”
私は頷く。
「俺はリビングでレポートをまとめてるよ。ゆっくり食べていいからね」
“うん”
私がサンドイッチを口にしたのを見て、お兄ちゃんが安心したように目を細める。
「食べられるだけでいいから、無理しないで」
そう言い残して、お兄ちゃんは部屋を出て行った。
昨日は夕食も摂らずに眠り続けてしまったから、用意された食事はあっという間に終わってしまった。
お兄ちゃんとは話しづらいけれど、食べ終わった以上、いつまでもここにいる訳にはいかない。
私はパジャマから部屋着に替えて、リビングに向った。
「おっ。全部食べられたんだ」
本から視線を上げたお兄ちゃんが、私が持つ空になったお盆を見て嬉しそうに言う。
「それだけ食欲があれば安心だよ」
私はちょっとだけ微笑んで、お盆を置きに台所へ。
戻ってきた時には、お兄ちゃんの顔が真剣なものになっていた。
それは『お兄ちゃん』ではなく、『男の人』の顔だった。
「座って」
私はお兄ちゃんの正面のイスに腰を下ろす。
「なんだか“信じられない”って顔をしてるね」
そう言われて、私は正直に頷いた。
あれだけはっきり言われたのに、今でも信じられないでいるのだ。
するとお兄ちゃんは苦笑い。
「もうずっと、チカちゃんのことが好きだったんだよ」
“そんなの……一度も、私に言ったこと……なかったじゃない”
お兄ちゃんからそんな話は聞いた事もなかったし、私のことを好きだっていう明らかな素振りも見せなかった。
ぎこちない動きの私の手話。
戸惑いで、いつものように滑らかに手が動いてくれない。
それでもお兄ちゃんは、言葉を読み取ってくれる。
それだけ、私のことをよく見てくれているという証拠。
お兄ちゃんはじっと私を見つめながら、苦笑いを深くする。
「タイミングが合わなかったんだよ。俺がチカちゃんを好きだと思った時、君はまだ小学校4年生だったからね」
“え?そんな前から?!”
そんな幼い自分を好きになったと聞いて、ひどく驚いてしまった。
するとお兄ちゃんは、困ったように眉を寄せる。
「あの時のチカちゃんにこんな話をしても、きっと気持ち悪がるか、冗談だと思うだろ?」
気持ち悪いとは思わないかもしれないけれど、多分信じなかっただろう。
7歳も年上のお兄ちゃんはすごく大人に見えていたし、お兄ちゃんは“お兄ちゃん”だったから。
「最初は妹みたいに思っていたんだけどね。いつだったか、チカちゃんの笑顔を見た時に“俺がこの笑顔を守ってあげたい”って」
ここで、お兄ちゃんがふっと顔を伏せた。
「でも、それから少ししてノドの手術をしただろ。みんなの前では明るく振舞っていたけど、人目を避けて時々寂しそうにするチカちゃんを見てさ。それで、医者になろうって決めたんだ」
テーブルの上に置かれたお兄ちゃんの手がグッと握られる。
「今までのように明るく笑って欲しくて、俺の知っている元気なチカちゃんに戻って欲しくて。
どうしたらチカちゃんの笑顔を取り戻せるのか色々調べていたら、形成外科にたどり着いたってわけ」
“そんな大事なこと、どうしてもっと早くに教えてくれなかったの?”
『将来はコックになりたい』って、お兄ちゃんは言っていたのに。
まさか、私のことがあって医者になっただなんて。
自分の病気が,お兄ちゃんの人生を、将来の夢を変えてしまったなんて。
考えたこともなかった。
想像すらしなかった。
私が尋ねると、お兄ちゃんは静かに答える。
「本当に医者になれるかどうかは、やってみないと分からなかったし。それに……」
“それに?”
「いざ医者になって留学先から日本に戻ってきた時には、チカちゃんに素敵な彼氏がいたからね。言えるわけないよ」
私から視線をすっと逸らし、寂しそうにお兄ちゃんが微笑んだ。
「桜井さんの隣に立つチカちゃんは本当に幸せそうだったから、そこから奪い去ることは出来なかった。
それでも、チカちゃんのことが忘れられなくってさ。この年まで悲しい独身だよ」
ハハッと笑うお兄ちゃん。
私には笑う余裕がなかった。
驚きと、お兄ちゃんに対する申し訳ない気持ちとで、目の前がグラグラする。
黙っている私にかまわず、お兄ちゃんは話を続ける。
「イギリスでチカちゃんと偶然再会して、やっぱり好きだなぁって思った」
今度は私の目をしっかり見て、優しく微笑んできた。
「自分の気持ちは一生伝えないつもりでいたんだけど、桜井さんと別れたのなら、言ってもいいんじゃないかなって。それで、思い切って告白したんだよ」
10年以上、誰にも言わずに抱え込んでいた気持ちをようやく口に出来たお兄ちゃん。
その顔は清々しく見えた。
そんな笑顔でもって正面から見つめられ、私は困ってしまう。
“あ、あの……。お兄ちゃんのことは大好きだし、その気持ちも嬉しいんだけど。
だけど、その……”
私は頭が混乱してしまって、うまく自分の感情がまとまらない。
そんな私を見て、お兄ちゃんが小さく笑う。
「返事は急がなくていいんだ。突然のことで心の整理が出来ないだろうし、それにまだ、桜井さんの事は完全に吹っ切れてないでしょ?」
“え……、あ……”
ギクリ、とする私。
アキ君のことは気にしないようにしているけれど、やっぱり、まだ心のどこかで引きずっている。
「今はただ、俺の気持ちを知って欲しかっただけなんだ。そして、出来ることなら前向きに考えて」
“……時間をちょうだい”
混乱が大きすぎて、一言、そう伝えるのがやっとだった。
「そうだよね。分かった、チカちゃんが答えを出すまで待ってるから。よく考えて、正直な気持ちを聞かせて」
“うん……”
「さてと、俺はレポートの続きをするかな。チカちゃんは念のために、今日もおとなしくしてるんだよ」
お兄ちゃんは腕を伸ばして、私の頭をそっとなでる。
すっかりいつもの顔に戻ったお兄ちゃんを残して、私は自分の部屋に戻った。




