(4)新たなる地へ
「行っちゃったね」
横に立つお兄ちゃんがポツリと言うのを聞きながら、私は振っていた手をゆっくりと下ろした。
「チカちゃん、これで本当によかったの?」
心配そうな瞳のお兄ちゃんが、じっと私を見ている。
“どういうこと?”
「桜井さんに自分のこと、ぜんぜん話さなくてよかったの?」
私は大きく頷いた。
“教えたところでどうにもならないし、どうにかなって欲しいとも思ってない。
だから、これでよかったんだよ。
アキ君とのことは、今日でみ~んなおしまい”
アキ君を見送って、2年間引きずっていた想いがようやく整理できた。
まだ完全にすっきりとまではいかないけれど、もう少し時間が経てば、胸の痛みは小さくなるはず。
アキ君はもう、過去の人。
思い出の中でしか、存在しない人。
『桜井 晃』という人物は、この先の私の人生に一切登場しない。
―――これでよかったんだよ……。
お兄ちゃんを見上げて、ニコッと笑えば、ポン、ポンとお兄ちゃんが優しく私の頭をなでる。
「そうか。じゃぁ、帰ろうか」
“そうだね”
2人で空港出口へと向った。
“お兄ちゃんはいつアメリカに帰るの?”
並んで歩きながら、話しかけた。
「明日の午後の便だよ。こっちでの仕事はもう終わったからね」
“そうなの……。あのね、お願いがあるんだ”
「お願い?」
“私もアメリカに行っていい?”
「えっ」
びっくりしたお兄ちゃんは立ち止まってしまった。
「……それはどういうこと?観光旅行ってことかな?」
私は首を横に振る。
“私はもう、イギリスにいられない。記憶を取り戻したアキ君が、またやってくるかもしれないから”
彼が何の意味もなくイギリスに来たとは思えなかった。
会社の意向か、個人的な事情か分からないが、アキ君がこの先何度となくイギリスに訪れることがあれば、何かの偶然で顔を合わせてしまうかもしれない。
この地を離れることは、アキ君にサヨナラすると決めた時から考えていた。
今度こそ、彼と顔を合わせるわけにはいかない。
“私一人でやっていけるから、余計な面倒はかけないよ。
あ、でも、住むところが見つかるまでは、お邪魔するかもしれないけど”
「そんなことは気にしなくていいって。分かった、一緒に行こう」
お兄ちゃんが深く追求することもなく、優しく笑う。
“わがまま言ってごめんね”
「チカちゃんの我侭は可愛いもんさ。ああ、家の心配はしなくていいよ。俺が住んでるアパートは結構広くってさ、1人増えるくらいは問題ないし」
“それでも、ずっとそこにいるわけにはいかないよ。お兄ちゃんの彼女、部屋に呼べないでしょ?”
私は冗談交じりに言ったのに、お兄ちゃんの顔は笑ってなかった。
「ずっと、彼女はいないんだ」
まっすぐに私を見るお兄ちゃんの目。
―――ん、何?
尋ねようとしたとたんにお兄ちゃんは歩き出してしまったから、訊くことができなかった。
家に帰るなり突然アメリカに行くと言い出した私に、優子さんは泣きながら怒っていた。
「大人しそうな顔をして行動力はあるんだから、チカちゃんは!急にいなくなったら寂しいじゃないのよ!!」
ボロボロと涙をこぼし、顔を真っ赤にしている優子さんに私は謝るしかなかった。
もう、決めてしまったことだから。
“ごめんなさい”
私が頭を下げると、私のほっぺをムギュッと思いっ切りつまむことで許してくれた。
「向こうに着いたら必ず連絡しなさいね、絶対よ!連絡してこなかったら、アメリカまでほっぺをつねりに行くからね!!」
“こんなに痛い思いをするのはもう嫌だから、必ず手紙出します”
苦笑いをしている私に、優子さんが抱きついてきた。
「チカちゃんは話さなかったけど、イギリスに来たのは絵本の勉強だけが目的じゃなかったんでしょ?」
言われてビクリと肩がすくむ。
「日本で何かつらいことがあったんだなってことは分かってた。だって、チカちゃんの笑顔って、どこか寂しそうだったから」
きちんと笑っているつもりでも、笑えてなかった。
自分でも、なんとなく分かっていた。
だけど、心配かけたくないから平気な顔して過ごしてきた。
―――気の回る優子さんは、そんな私に気がついていたんだ。
なのに、尋ねたりしないで、そっと見守ってくれていた。
その優しさに、目が潤む。
「でも、少しずつ本気の笑顔になってきてさ。私、嬉しかったんだ」
ぐすん、と鼻をすすった優子さんがエヘヘと笑う。
「もう二度と、悲しそうに笑うチカちゃんになって欲しくないの。アメリカで幸せになるのよ」
最後にギュッと抱きしめてから、優子さんは私から離れた。
“ありがとうございます。私、優子さんに会えてよかった”
そう言ったら、また泣き出してしまった。
「やだ、もう、笑ってお別れしたいのに。……よぉし、今夜は目一杯食べて、飲むわよ~」
私たちは眠りにつく直前まで、たくさん話をした。
そして翌日。
私はお兄ちゃんと一緒にアメリカへと出発した。