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声に出来ない“アイシテル”  作者: 京 みやこ
第12章 想い出にさよなら
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(1)人は変われる

 私とお兄ちゃんはアキ君がいる病室に戻ってきた。

 ノックして扉を開けると、彼はさっきと同じように窓際に立っている。


「失礼します」

 お兄ちゃんが声をかけて中に入り、私も軽く頭を下げてから後に続く。

 ぼんやりと景色を見ていたアキ君がこっちに歩いてきた。

 聞いていた通り大きなケガはしていないみたいで、その足取りはしっかりしている。


「桜井さん、彼女が協力してくださるそうですよ」

 お兄ちゃんがそう言うと、アキ君は静かに息を吐く。

「突然変なお願いをして、申し訳ありませんでした」

 丁寧な口調で、丁寧に頭を下げるアキ君。


 こんな彼の態度を初めて見た私はちょっとびっくりした。


―――知らない人みたい。仕事中のアキ君はこんな感じなのかな?


「どうかした?」 

 呆けてしまった私は、お兄ちゃんの声で我に返る。


―――いけない、いけない。挨拶してくれたのに、返事をしないのは失礼だよね。


 私は急いで笑顔を作って、メモの上にペンを走らせた。


“気にしないでください”


 アキ君にメモを見せると、彼はじっと文字を見詰めたまま動かず、何も言ってくれない。


―――あれ?記憶喪失って、文字まで忘れちゃうの?


 変に思って首をかしげていると、お兄ちゃんがアキ君に声をかけた。

「桜井さん、どうしました?」

 呼ばれてハッとするアキ君。

「え?……あ、すいません」

 謝ったアキ君はお兄ちゃんと私を交互に見比べる。

 そして、言いづらそうに口を開いた。

「あの……、どうしてこの方は話されないのでしょうか?」

 いきなりメモを書き出した私の行動に、アキ君は戸惑っていたらしい。

 するとお兄ちゃんが私の頭をそっと撫でる。 

「ああ。彼女は子供の頃に声帯を取り除く手術をしたんですよ」

 お兄ちゃんの説明に、アキ君は一瞬息を飲んだ。

「そうでしたか……。これまでにいろいろとご苦労されてきたんでしょうね」

 アキ君は申し訳なさそうな顔で私を見る。


 私はちょっとだけ微笑んで、首を横に振った。


“筆談で不便かもしれませんが”


「とんでもない。こちらの無理な頼みを聞いていただけただけで、十分です」

 改めて深く頭を下げてから私に視線を向けた彼の瞳は、私の知らない人のものだった。



―――本当に私のこと、覚えてないんだなぁ。


 胸の奥に感じた寂しさを、笑顔でごまかす。


“ところで、私は何をすればいいんですか?”


「それが……。具体的にどうしたらいいのか、分からないんです。ただ、あなたにもう一度会いたいと」

 頭をかきながら、困ったように笑うアキ君。


 私の心臓がトクン、小さく跳ねる。


―――勘違いしたらダメ。『会いたい』と言われても、この人は私の知ってるアキ君とは違うんだから!


 こんなことでいちいち勘違いしていたら、身が持たない。

 思わず嬉しくなってしまった自分を厳しく戒めた。


“それでしたら、とりあえず何かお話でもしましょうか?”


「そうですね」


 私とアキ君は部屋の隅に置かれたイスへと移動した。

 お兄ちゃんは少し離れたところで腕を組み、特に何を言うでもなく、その様子を眺めている。

 しばらくして、お兄ちゃんが声をかけてきた。

「じゃあ、俺は大使館に行ってくるよ」

 

“うん、気をつけてね”


「分かってる」

 そう言って、近づいてきたお兄ちゃんが私の耳元に口を寄せる。

「チカちゃん。……本当に彼といていいの?つらくない?」

 アキ君には聞こえないようこっそりと囁かれた自分の名前と話の内容に、私は首を横に振った。


“平気。ここにいるアキ君は、私の彼だったアキ君じゃないもの。

 それに言ったでしょ。自分の気持ちにけじめをつけるんだって”


「そうだったね」

 お兄ちゃんは私の頭を軽くポンポンとたたいて、今度こそ部屋を出た。



―――さてと。


 アキ君に向き直ると、彼は閉じた扉を見ていた。

 しばらく待ってみたけれど、アキ君は扉から目を離さない。

 私はアキ君の目の前に手をヒラヒラとかざして、気を引いた。


「あっ、すいません、ボーッとしてしまって」


“いえ。あの、お兄ちゃんがどうかしましたか?”


 アキ君はパチパチッと瞬きをして、びっくりしている。

「お兄さんなんですか?あまり似てないようですが」


 私はクスクスと笑いながら、ペンを動かす。


“幼馴染なんです。だから、血はつながってないですよ。

 小さい頃からずっと面倒を見てくれていたので、自然とお兄ちゃんと呼ぶようになりまして。

 そのクセがいまだに抜けないんです”


「なるほど」

 アキ君が頷く。

「山下さんは見ず知らずの僕にも、とても優しくしてくれます。きっと昔から、やさしくて温かい人なんでしょうね。……自分とは違う」

 そう言ったアキ君の顔が見る見る曇ってゆく。


“桜井さん、どうしました?”


「今の僕には、子供の頃の記憶がかすかにあるんです。中学生くらいのことだと思います」

 アキ君は視線を窓の外へと移した。

「理由は分かりませんが、誰のことも信用していなかったようです。……そのせいで、たくさんの人を傷つけたことでしょうね」


 両親を自殺で亡くして。

 人を、言葉を、信じることが出来なくなったと以前彼から聞いた。


―――どうせなら、幸せだった頃のことを覚えていたらよかったのに。


 人生って皮肉だと思った。

 唯一覚えているのが、一番つらい時期の記憶だなんて。


 だけど、彼に対して私は何も言えない。ただ黙って彼の話に耳を傾けている。


「今現在の自分がどういう人間なのか、まったく分かりません。あの頃と変わらず、人を傷つけて生きているのか……。

 こんな自分は人を愛することが出来るのか。こんな自分を愛してくれる人がいるのか。何一つ分からないんです」

 私と目を合わせないまま、ため息をつくアキ君。


 自分のことなのに、分からない。

 知っているはずなのに、思い出せない。


 今の彼は不安でたまらないのだ。


 アキ君のつらそうな顔を見て、私の胸が苦しくなる。

 この人はもう私の彼氏ではないけれど、やっぱり放っておけない。


―――私は知ってるよ。


 彼がどれほど素敵な人であったのかを。

 私の体が、心が、それを覚えている。


 自分の正体は明かせないけれど、励ますくらいは出来る。


 私は腕を伸ばし、向かいに座っている彼の肩にそっと触れた。

 アキ君はゆっくりと視線を戻し、私を見る。

 しっかりと目が合ったのを確認し、私はニコッと微笑みかけた。


“大丈夫です、人は変われるんですよ。あなたはきっと人を愛し、人から愛される男性に成長したはずです”


 私と会うまでのアキ君は、彼が話したとおりの人生を歩んでいたのだろう。

 だけど、私といるときのアキ君はそうではなかった。


 私を精一杯愛してくれた。

 私も彼を精一杯愛した。

 とても素敵で、魅力的で、愛しい男性だった。


 私はもう一度書く。今度は少し大きめの字で。


“大丈夫です”


 メモ用紙を彼に差し出すと、受け取ったアキ君の表情が和らぐ。

「あなたにそう言われると、本当にそう思えます。不思議な方だ」

 アキ君は今日初めて、穏やかに微笑んだ。

「ああ、そうでした」

 彼が突然声を上げる。

「まだ、あなたのお名前を伺っていませんでしたね」


 それを聞いて私はちょっと迷った後、苗字だけを書いた。

 お兄ちゃんの話からすると、“チカ”と教えたところで彼が過去を思い出すことはないだろう。

 その点は心配してない。

 私としては変に親しくなって別れを惜しむようになってしまっては、アキ君のところに戻ってきた意味がない。

 そのほうが怖かった。


 それに、もうすぐ顔を合わせなくなるのだ。

 仲良く友達付き合いする必要はない。だから『大野』で十分。


 アキ君は苗字しか書かれてないメモを見ても、特に何も感じていないみたい。

「大野さんですね。では、改めてよろしくお願いします」

 そう言って頭を下げてくる。

 私も彼に合わせてお辞儀をした。



 少し間を置いて、同じタイミングで顔を上げた私たち。

 なんとなくお互い笑顔になる。


 だけど突然、アキ君の表情が一変した。

「つかぬ事をお訊きしますが」

 真剣なまなざし。


―――どうしたのかな?


 彼の様子が変わった理由が分からず、首をかしげる私。

 するとアキ君は私の方にちょっと身を乗り出した。

「大野さん。あなたは僕のことを知っているのではないですか?」


―――え?


 思わず、アキ君を凝視してしまった。


―――そんな素振りをしたっけ?!


 ざっと自分の行動を思い返したけど、見当がつかない。


―――私のこと、試してるだけ?


 まさか、とは思いつつもドキドキと心臓が早打つ。


 彼が深い意味もなくそう言ったのであれば、何も問題ない。だけど、もし、何か理由があって尋ねてきたのなら……。

 自分が彼にとって特別な存在であったと、知られたら困るのだ。

 私は必死で冷静さを取り戻そうとする。

 何度もゆっくりと息を吸い、メモにペンを走らせた。


“どうして、そう思ったのですか?”


 私がメモを差し出すと、アキ君は私の口元をじっと見つめた。

「あなたが初めてこの病室に入った時、僕のことを“アキ君”と呼びました。それは僕がアキラだからですよね。

 面識がなければ僕の名前は分からないと思うのですが、違いますか?」


―――あっ。


 私は自分の唇を手で押さえる。

 彼の姿を見て、ついそう呼んだ。

 呼んだ、と言うよりは無意識に口が動いてしまった。


―――どうしよう。


 私は動揺を悟られないように、何気ない振りを装って視線を伏せる。


―――大丈夫、落ち着いて。完全に私の正体が分かってしまったわけじゃないんだから。

 

 自分に言い聞かせ、再びペンを動かした。


“はい。桜井さんの事、知ってますよ“


「本当ですか?!」

 アキ君は驚きと喜びが混じった顔で、大きくグッと身を乗り出してくる。

 その彼に、書き足したメモを差し出した。


“だって、あなたは有名な人ですから”


「え?」

 嬉しそうだったアキ君の顔がメモを見たとたんに曇った。


“桜井さんは日本の大きなホテルグループの跡取りなんです。これまでに何度もテレビや雑誌の取材を受けられてますよ。

 だから、そういった意味で私は桜井さんの事を知っています”


「そういうことですか」

 乾いた笑みを浮かべ、視線を床に落としたアキ君。

 だけど、すぐに顔を上げる。

「でも、“アキ君”と言うのは、かなり親しげな呼び方に思えますが?それはまるで仲の良い友人同士や……、もしくは恋人同士のようです」


“それは”


 私は動揺で視線が泳いでしまわないように、ペン先の一点を見つめる。


―――なんてことのない細かいところに気がつくんだよね、アキ君て。昔から変わってないなぁ。


 なんて、今は懐かしんでいる場合ではない。

 必死で言い訳を考える。


“実はですね、あなたは芸能人並みに人気があって、若い女性たちはみんな『アキ君』と呼んでます。

 日本ではちょっとしたアイドルのような存在なんですよ”


 そんな話は聞いたことない。

 でも、イギリスにいる間ならその話が本当かどうか、アキ君は確かめようもない。

 バレるはずないと、私はそれらしい言い訳を作り上げた。

 仕上げにニコッと笑いかけると、アキ君は私の話を信用したらしい。

「実感はありませんが、あなたがおっしゃるのですから、そうなんでしょうね」 

 困ったように照れ笑いする彼。


―――とりあえず、これで大丈夫かな?


 何とか切り抜けられて、心の中でほっと一息。

 ところが、アキ君はまた尋ねてくる。

「それにしても、どうして僕は初めてあったはずのあなたの唇の動きを読み取ることが出来たのでしょうか?やはり、以前に会ったことがあるのではないですか?」


 一難去って、また一難。

 アキ君はまたしてもこちらが焦るような質問をしてくる。


―――困ったなぁ。


 ここで適当にはぐらかしたら、逆に怪しまれそうだ。

 私は必死で、頭を巡らせる。


―――確か、『どんなお客様でも対応できるように、いろいろ心がけている』って、伯父様、そんなことを言ってたよね。


 初めてアキ君の家に行ったクリスマスの日。

 サービス業に携わる伯父様たちと、手話で難なく会話できた。

 それを思い出した私は、もっともらしいことをメモに書き付ける。


“桜井さんは一流のホテルマンですから。言葉に不自由なお客様に失礼のないようにと、手話や読唇術をマスターしたようです。テレビでそう言ってましたよ。

 だから、私の口の動きが分かったんでしょうね”


 アキ君は差し出されたメモと私を交互に見比べている。

 そして、深いため息をついた。

「そうですか……。本当に僕たちは面識がないんですね」

 あからさまにがっかりと肩を落とす。

「大野さんがもし、僕のことを知っているのであれば、僕がイギリスに来た理由に心当たりがあるのかもと期待していたのですが。どうやら違うようですね」

 アキ君は力なく、イスの背にもたれかかった。



―――そっかぁ。アキ君はそれを確かめたくて、私にもう一度会いたかったんだ。 

   

 ウソをつくのは心苦しいけど、正直には話せない。

 私は彼に謝った。


“個人的には桜井さんの事を知りません。お役に立てなくて、ごめんなさい”


 ペコリ、と頭を下げた。

「いえ、そんなっ、謝らないでください。こちらの勝手な思い込みだったんですから」

 アキ君は心底申し訳ない顔で、私の頭を上げさせる。

「直接僕のことを知らなくても、大野さんに会えて助かりました。何しろ自分で自分のことが分からないのですから。

 あなたが僕の顔を見知っていたおかげで、身元が分かったんです。十分感謝しています」


 清々しく笑う彼のことを、私は嬉しさと切なさが混じった思いで見つめた。


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