(5)与えられた再会 SIDE:チカ
10分位して、お兄ちゃんが出てきた。
「少し話をしようか」
この病院の中庭に向けて歩き出したお兄ちゃんに、私はおとなしく後をついてゆく。
木陰にあるベンチに並んで座ると、お兄ちゃんは黙ったまま、しばらくの間景色を見ていた。
「あのさ……」
視線を景色から私に移して、お兄ちゃんが言う。
“何?”
「本当に、桜井さんと別れたの?」
確かめるように、じっと私を見ている。
“本当だよ”
短く一言で返す。
「そう……。だけど、嫌いになって別れたって感じじゃなさそうだね?」
その言葉に、私はあいまいに微笑んだ。
それだけで、お兄ちゃんには分かってしまったかもしれない。とても勘がいい人だから。
「桜井さんってさ、あのホテルグループの関係者でしょ。テレビで顔を見たことあるよ」
“うん、現社長の息子。養子だけど”
それを聞いて、お兄ちゃんはベンチの背もたれに身を投げ出した。
「はぁ、大きな組織の一員って大変なんだな。自分の恋愛も思うようにならないなんてさ。たとえ金がなくても、好きな人とは一緒にいたいのが人情だよなぁ」
独り言のようなセリフ。
でも、私の耳にしっかりと届く。
―――やっぱり、お兄ちゃんは別れた理由に気付いていたんだ。
“そうだね……”
私は苦笑いを浮かべ、空に視線を向けた。
沈黙の後、お兄ちゃんが歯切れ悪く話を始める。
「こんなこと、今のチカちゃんにお願いするのは酷だと思うんだけど……」
“どうかしたの?”
「桜井さんに言われたんだ、“さっきの女性に会わせて欲しい”って。“どうにか連れてきてくれ”と頼まれた」
“え……?”
―――どういうこと?私と会う理由なんて、今の彼にはないはずなのに。
戸惑いが私を襲う。
お兄ちゃんは鼻の頭を指でかきながら、困ったように話を続けた。
「桜井さんは重度の記憶障害でね、自分の名前すら思い出せない状態なんだ。だけど、イギリスに何かを見つけに来たことだけは覚えてるんだって」
―――何かって、何?
私はひざの上で、手をギュッと握る。
―――アキ君は、何を見つけようとしていたの?もしかして、それは……私?
嬉しくて飛び上がってしまいそうになった。
が、同時に、頭の奥で『期待するな』と言う声がする。
彼の信頼と愛情を無情にも裏切った私なのだ。
―――そうだよ。そんな都合のいい話、あるはずないもの。
なのに、お兄ちゃんから聞かされた内容は、私の心を簡単に舞い上がらせる。
「それが物なのか、場所なのか、人なのか、はっきりとは分からないらしい。でも、“あの女性が関係していることは間違いないから”って」
1度言葉を区切ったお兄ちゃんが、私の目を見て言った。
「“今の自分にあの女性が必要だから”って。土下座までして、必死で俺に頼んできたんだ」
私は両手で顔を覆う。
―――ああ、ダメ。勘違いしてしまいそう。
彼が私を捜しに来てくれたのだと。
アキ君の心の片隅にはまだ、私が存在していたのだと。
お兄ちゃんの話は、そうとも受け取れる。
嬉しい。
だけど、危険だ。
「彼が出国するまでの数日間だけでも無理かな?」
不安そうな口調で、私に尋ねる。
“それは……”
私は簡単には頷けないでいた。
―――もし、私と接しているうちに、アキ君の記憶が戻ってしまったら?!
伯母様には、彼と二度と会わないと約束した。
不本意な約束とはいえ、破るわけにはいかない。桜井グループに関わるたくさんの人の生活を脅かすことなんて、絶対にしたくない。
そんな私の心中を察したのか、お兄ちゃんが優しく微笑む。
「チカちゃんは心配してるみたいだけど、気憶喪失はきっかけがあったからといって、簡単に回復するわけではないんだよ。そんなの、ドラマや映画の中でしか起こらない奇跡だ」
“え、そうなの?”
「桜井さんの場合はそうなんだ。記憶と記憶をつなぐ組織が壊死をして、完全に機能していない。代わりの組織を移植すればすぐに記憶は戻るよ。けど、移植しなければあのままだって事」
“本当に?”
私は思わずお兄ちゃんへと身を乗り出す。
「うん。自然治癒で記憶が戻ったという前例は、これまでに聞いたことがないな」
難しい顔でお兄ちゃんが言った。
―――移植手術をしなければ、アキ君は記憶喪失のまま……。
私のことを“大野 チカ”だと認識できない彼となら、一緒にいても問題ないかもしれないけれど。
どうしたらいいのだろう。
「その手術はここでは出来なくってね、専用設備のある日本の◇◇病院でしか行えない。……チカちゃん、どうする?」
私は考え込む。
―――今のアキ君は、言ってみればまったくの別人なんだよね……。
それなら、伯母様との約束を破ったことにならないというのは、甘い考えだろうか。
アキ君が日本に戻るまで、一緒にいることが許されるだろうか。
「おせっかいなのかもしれないけど、チカちゃんの顔を見ていたら、本当は桜井さんのそばにいたかったんだろうなって思えてさ。だから、ひと時でも彼と一緒の時間を過ごさせてあげたいなって」
“お兄ちゃん……”
「まぁ、そうは言っても、覚悟を決めて日本を離れたチカちゃんに、これ以上桜井さんと会わせるのは悪い気もするし……」
お兄ちゃんは“医者として患者の望みをかなえてあげたい”という思いと、“幼馴染の私を苦しめたくない”という思いに挟まれてはっきりと言えないでいる。
「やっぱり、選択はチカちゃんに任せる。桜井さんに会うことになっても会わないことになっても、ここでは誰も君を恨まないよ」
“うん……”
私は迷っていた。
本音はアキ君のそばにいたい。
だけど、抑え込んできた2年間の想いが爆発してしまうのがとてつもなく怖いのだ。
ようやく彼のことは想い出に出来そうだったのに……。
地面に視線を落とし、じっと考える。
迷って、悩んで、私は心を決めた。
大きく息を吸い込んで、顔を上げる。
“アキ君に会ってもいいよ”
もう一度彼に会って、自分の気持ちを整理しよう。
そして今度こそ、自分の口からアキ君にお別れを言おう。
今のアキ君は私の彼だった人物ではないけれど、それでも、さよならを告げることができたら自分の気持ちにケリがつく。
そうすれば、彼への想いは素敵な想い出になるはず。
「それでいいの?」
なんとも言えない表情のお兄ちゃん。
“もう!自分から話を切り出しておいて、今更迷わないでよ!”
私はお兄ちゃんの肩をポン、とたたく。
“大丈夫とは言い切れないけど、けじめをつけるチャンスだと思うの”
いまだに彼を吹っ切れない私の為に、きっと神様がアキ君に会わせてくれたのだ。
きちんとお別れできなかった私に与えられた、さよならの為の再会。
「そうか……」
お兄ちゃんが私の頭をそっとなでる。
「くれぐれも無理しないで。何かあったら、すぐ俺に言うんだよ」
“うん”
私は小さく笑った。