(1)イギリスへ
それからの俺は死に物狂いで仕事をこなし、専務でありながらも社長同等の権限が振るえるほどに地位を高めていった。
もちろん、どんなに仕事に没頭してもチカへの想いは消えることはない。
消えるどころか、会えない時間が余計に彼女の存在を浮き彫りにし、そばにいた時よりも更に深くチカを強く想う。
それでも、今はまだ時期ではない。
彼女の居場所も分かっていない。
じっとしていられないという焦る気持ちを抑えて、あの計画を進める。
伯父さんや伯母さんに悟られないように、慎重に。
更に半年が経ったある日、本社一階の廊下で今井さんに会った。
彼女は2週間ほどイギリス支社へ出張だったと聞いている。
「視察、ご苦労様」
俺が声をかけると、今井さんは視線を廻らせてサッと周りの様子を伺った。
そして誰もこちらの様子を気にかけていないことが分かると、手にしていたバッグから手帳を取り出した。
「あの……。この写真、見ていただけます?」
小声でひそひそと話し、手帳にはさんでいた一枚の写真を差し出してきた。
「写真?」
俺は不思議に思いながらも差し出された写真に目を落とし、一呼吸置いてから大きく息を飲んだ。
「これは……!?」
写っていたのはチカだった。
俺の記憶にある髪形とはだいぶ違うけれど、確かにチカだ。
その写真の中のチカは遠くを見ている。
こちらに焦点が合ってないということは、隠し撮りなのだろう。
「この方は専務の彼女さんですか?」
更に声を潜めて、今井さんが言った。
以前、今井さんは俺やチカと一緒に飲みに行ったことがあった。もう3年近く前のことだが、職業柄、今井さんは人の顔をすぐに覚え、なおかつ忘れない。
俺の表情を見てほぼ答えは分かっているものの、『この女性はチカさんですよね?』と、今井さんは改めて確認してくる。
この写真がチカ本人であれば、相当に重要な意味を示す。
だからこそ、今井さんは俺に尋ねるのだ。
しばらく写真に目を奪われていた俺は、ゆっくりと息を吐き、無言のまま深い頷きを返した。
「やっぱり」
俺の様子を見て、ホッとしたように胸をなでおろす今井さん。
「前にチラッと言っていましたよね。“彼女が行き先も告げずに突然姿を消した”って。もしこの女性がチカさんだったら……と思って、撮ってきたんです」
「ありがとう。本当にありがとう」
今井さんの機転に、俺は素直に例を述べる。
ずっとチカに関して具体的な手がかりがなかったのだ。いくら感謝しても足りない。
「それでこの場所は?チカはどこにいたんだ?」
写真を見ただけでは、さすがに分からない。
逸る気持ちのままに、矢継ぎ早に尋ねる。
「イギリス支社の近くです。●●街の7番地あたりですね」
彼女が教えてくれた住所は、チカが職場の人が紹介してくれたといった場所からかなり離れたところだった。
「滞在中に何度も見かけました。おそらくこのあたりに住んでいるはずです。専務、早くチカさんを迎えに行ってあげてください」
「そうだな」
俺は思わずグッと右手を握り締める。
―――やっと見つけた。これでチカを迎えに行けるんだ。
嬉しさに体が震えた。
そんな俺を見て、今井さんも嬉しそうに顔を緩める。
「彼女さんと無事に帰国なさったら、また飲みに行きましょう。いい報告をお待ちしています」
今井さんがにっこりと微笑んで、励ましてくれた。
今井さんを見送ったあと、携帯を取り出す。
「もしもし、俺だ。第3小会議室に来てくれ」
電話の相手は直属の秘書である横山。俺の極秘計画の協力者だ。
会議室の扉を開けると、すでに横山がいた。
「いよいよですか?」
「ああ」
短い会話でお互い通じ合う。
横山も今井さんと同じく、俺とチカの味方。
向かい合わせでイスに座った。
俺は書類ケースから数枚のメモリーカードを取り出す。
「新しいプログラムはすでに完成済みで、この中にすべて入っている。これなら、今までの何倍も作業効率があがるはずだ。それと……」
冊子になった書類を横山に手渡す。
「問題が起きた時のための対応マニュアルだ。特に金銭面でのトラブル項はよく目を通してくれ」
「分かりました」
横山が深く頷いて、書類を受け取る。
「直接的な資金については××銀行の頭取に連絡するように。俺の名前を出せばすぐに動いてくれるだろう」
それを聞いて、常に冷静沈着な横山が目を大きくする。
「あの気難しい頭取と、よくそこまでの仲になれましたね?専務の義父である現社長ですら、頭取とは顔を合わせることもなかなかできないというのに」
驚きと感嘆の表情で、横山はまじまじと俺を見た。
金融界のトップである××銀行の頭取。
彼の後ろ盾が得られれば、何も怖いことはない。
金銭面で一大事を迎えた時、まとまった資金を即座に援助してくれる存在があるかないかで、会社の存続が決まる。
少しばかりあっけに取られている横山を見て、俺はそっと目を細めた。
「正直、かなりの苦労はしたよ。そりゃもう、あの手この手を駆使してね。……でも、チカを迎えに行くためには彼とのつながりが必要だったからな」
俺が苦笑を浮かべると、横山は穏やかに微笑んだ。
「これだけの準備が整っていれば、専務が抜けても業務に支障はないでしょう」
「当然だろ。そのためにこれまで頑張ってきたんだ」
「そうでしたね。でしたら、出発はいつになさいますか?」
横山は持ち歩いているノートパソコンを開き、飛行機の空席状況をネットで調べている。
「出立の準備は出来ているから、出来るだけ早くがいい」
俺がそう言うと、『分かってます』とばかりに横山が微笑んだ。
「そうしますと……。明日の午前10時の便に空きがありますね」
ポン、と決定ボタンを押しチケットを予約する。
「後ほどチケット番号をプリントアウトしますので、空港の受付カウンターに提示しなさってください」
「分かった」
俺達はイスから立ち上がる。
「専務とチカさんが無事に再会できることを祈っております。それでは、失礼いたします」
横山は俺と握手を交わし、会議室を出て行った。
ひとり残された部屋で、俺は隠し撮りされたチカの写真に向って呟く。
「今、行くからな」
―――何があっても、必ず連れ戻す。
強く、強く、自分に言い聞かせた。
翌日。
伯父さんたちに内緒で、俺は空港に向かった。
途中、乗り継ぎの空港で横山に連絡を入れたところ、俺の急な不在で社内が少し浮き足立っているが、業務に支障はないとの事。
この分であれば、俺がいなくても作り上げたマニュアルとシステムで会社は成り立つはず。
伯父さんと伯母さんには悪いとは思いつつも、それでも、俺にはチカが大切だった。
イギリスについてすぐ、●●街行きのバスに乗った。
―――あと少しでチカに会えるんだ。……会ったら最初に何を言おう。それとも、いきなり抱きしめようか?
一番後ろの席に座り、まもなく実現する再会に胸を弾ませる。
いよいよバスが出るといったところで、一人の女性が乗り込んできた。
少し浅黒い肌とエキゾチックな顔立ち。中東あたりの出身なのだろう。
彼女は布に包まれた荷物を大事そうに抱えている。
―――なんだろ?赤ちゃんかな?
そう思った俺の予想は、直後に大きく外れたことを悟る。
仁王立ちした女性がその布をバッと取り去ると、そこに現れたのは束ねられたダイナマイトだった。
―――えっ!?
乗客の誰もがその光景に驚き、声も出ない。
女性は何かを大声で叫ぶと、導火線に火をつけた。
バスの昇降口を塞ぐようにその女性が立っているので、乗客たちの逃げ道がない。
誰もがどうすることも出来ず、青い顔で息を飲む。
再びその女性が大声で叫ぶと、次の瞬間、はじけるような炎が車内を襲った。
瞬く間に目の前まで炎の波が押し寄せ、爆風で体が吹き飛ばされる。
―――チカッ!!
俺の意識はここで途絶えた。