(8)晃、帰国
「はぁ、一週間ぶりの日本だぁ」
十時間近く機内で過ごした俺は、ゲートを出て思いっきり背伸びをした。
「早くチカに会いたいな」
連日の視察や会議、長時間のフライトで体は疲れていたが、チカの顔が見られると思えば足取りも軽い。
空港からまず本社に向う。
出張の報告をしなければならないのだ。
重く丈夫な木の扉をノックして中に入った。
「失礼します。ただいま戻りました」
「晃か。出張、ご苦労だったな」
社長の机で書類に目を通していた伯父さんが顔を上げる。
「早速、報告書を見せてもらおうか」
「はい」
俺はまとめておいた書類を数枚手渡した。
書類に目を通し終えた伯父さんが社長印を押し、そして俺を見る。
「お前の今日の業務はこれで終わりだ。理沙子が“ご馳走を作る”と言って早退したから、早速顔を出したらどうだ?」
「いや。伯母さんには悪いけど、チカと会う約束をしているんだ。食事は彼女と摂るから」
とたんに伯父さんは眉をひそめるが、特に何も言ってこない。
これまでは『彼女に会うな。すぐに別れろ』とばかり怒鳴っていたのに。
―――出張で疲れている俺に気を遣ったのか?
まぁ、下手に言い出して彼女との仲を裂かれても困るから、感じた疑問は胸中に留めた。
「そうか。なら、晃からそのことを家に連絡しておけ」
伯父さんは俺から視線を外し、再び書類に目を落とす。
そんな伯父さんを見て、なんとなくすっきりしない気分のまま社長室を出た。
伯母さんに謝りの電話をして、チカのアパートに車を走らせた。
助手席には彼女のために買ったお土産のチョコレートがドン、と置かれている。
両手で抱えるほど買ってきた。
「喜ぶだろうなぁ。それより、“こんなにあるの!?”と驚くかな」
どちらの顔も俺にとっては楽しみだ。
アパートの前に車を停め、チョコが入った袋を手に部屋へと向かう。
数日振りに会う彼女にワクワクしながら、チャイムを押した。
しかし、いつもならすぐに開くはずが、いつまで経っても扉は閉じたまま。
「あれ?」
―――今日、会う約束してたのに。
もう1度チャイムを押してみるが、やはり誰も出てこない。
「買い物に行ってるのか?」
仕方ないので、しばらくここで待ってみることにする。
しばらくすると、隣の住民が帰ってきた。
扉の前に立つ俺を見て、首をかしげている。
「あら。もしかして203号室の大野さんに御用ですか?」
何度か顔を合わせたことがあるその女子大生は、俺に話しかけてきた。
「はい、そうですけど」
それを聞いたお隣さんは、ほんの少し気の毒そうな顔になった。
「もういませんよ。引っ越しされたので」
「え?引っ越し?」
大きく驚く俺を見て、更に話を続ける。
「はい、荷物を運び出してましたから。突然のことで私もびっくりしたんですけど、アパートを出る時、大野さんからご挨拶もいただいてますし」
これまでにお隣さんと話をしたことなどなかったが、嘘を付くような人ではなさそうだ。
「そうですか……」
俺はその人に頭を下げて車に戻った。
―――引越しするなんて聞いてないぞ。
チカに何かあったのだろうか。急に体調でも崩して、一人暮らしが無理になってしまったとか。
だが、そんな連絡は来ていない。
とりあえず、チカの実家に向うことにした。
彼女の家のチャイムを押して、出てきたのはお母さんだった。
「こんにちは」
「あら、桜井君。どうしたの?」
「チカに会いに来ました。アパートにいないということは、こちらにいるんですよね」
俺の話を聞いて、お母さんの顔色が曇る。
「……ここにはいないわ」
「え?もしかして、入院でもしてるんですか?」
お母さんがものすごく驚いた顔になった。
「あなた、知らないの?!」
「何をでしょうか?」
俺は首をかしげながら訊きかえすと、返ってきた言葉に耳を疑った。
「あの子、留学してるのよ」
「は?」
―――チカが留学?
一言もそんなことを聞いていなかった俺は、お母さん以上に驚く。
「外国で暮らしたほうが感性が鋭くなるからって。あなたには話してあるって、あの子は言ってたのよ?」
「俺は、何も聞いていません……」
力なく首を横に振る。
そんな俺を見て、お母さんは震えだした。
「そんなっ?!じゃあ、あの子は今どこにいるの?!」
倒れそうなほど青ざめているお母さんが、俺の腕をギュッとつかむ。
「ねえ、桜井君。本当に知らないの?!」
「知りません!彼女が留学しているなんて、今、初めて聞いたんですっ」
突然知らされた事実に俺もパニック寸前になるが、気になることがあって、どうにか正気を保つ。
さっきお母さんが口にした『じゃあ、あの子は今どこにいるの?!』というセリフ。
その意味は一体?
「あ、あのっ。チカの留学先は?」
「イギリスって言ってたわ」
今にも倒れそうなお母さんが必死に俺へとすがり付く。
「だけど、それ以上は分からないの。メモに書かれた連絡先はデタラメだったから」
「デタラメ?彼女の仕事先の人は、何も聞かされてないんですか?!」
「あの子の話だと宿泊先は先輩に紹介してもらったって。なのに、職場の人に内緒でキャンセルしたらしいのよ……」
「そんなっ?!」
―――それじゃ、手がかりがないじゃないか!!
俺は言葉を失う。
「だから、桜井君ならあの子の行き先を知っていると思ってたのに。そのあなたが何も知らないだなんて……」
お母さんはとうとうその場にへたりこんでしまった。
急いでお母さんをリビングのソファーへ運ぶ。
「これからチカの職場に出向いて、もう一度詳しく話を聞いてみます」
お母さんは声もなく頷くだけ。
「大丈夫ですよ。チカは何も言わずにどこかへ行ってしまうような子じゃないです。何か行き違いがあっただけですよ」
お母さんに、そして自分に言い聞かせて、彼女の家をあとにした。
―――大丈夫。大丈夫だ。
自分を落ち着かせるために、何度も『大丈夫』繰り返しつぶやく。
―――これまでに一度だって、チカは俺に隠し事なんてしたことなかったじゃないか。
車を急がせる。
飛び出すように降りて、チカの職場に駆け入った。
だが。
そこで聞かされたのは、お母さんが言っていたことと何一つ変わらない事実だった。
やっとの思いで車に乗り込むが、とても運転できる状態ではない。
シートに力なく腰掛けたまま視線を彷徨わせると、目に入ってきたのは、彼女に渡すはずだったたくさんのチョコレート。
ロールキャベツを作って待っていると言ったのに。
どこにも行かないって言ったのに。
―――チカ、どこに行ったんだよ……。
ハンドルを抱えるようにもたれ、俺はしばらく動けなかった。