(7)リングと彼への想い SIDE:チカ
それからは留学の準備と引越しのための片付け。
もともと荷物はそんなに多いほうではないけれど、それでも、いつの間にか増えた服や本は思っていたよりも多そうだ。
私は黙々と作業をする。
少しでも手を止めたら、決心が鈍ってしまいそうだから。
捨てる物と実家に送る物とを分けていくうちに、どちらにも当てはまらないものがいくつか出てきた。
アキ君がこの部屋で使っていたマグカップやお箸。パジャマ代わりのスウェットや簡単な着替えもある。
―――捨てちゃおうかな……。取っておいても、どうにもならないし。
マグカップをゴミ袋に入れようと手に取る。
でも、やめた。
―――まだ使えるのに、捨てるのはもったいないよね。
私は彼の荷物を小さめの箱に詰めてゆく。
そして荷物の一番上に短いメッセージを記した桜色の葉書を載せて、箱を閉じた。
翌日の日曜。
片づけを終えると、荷物を宅配業者に任せて実家に向う。
リビングでお茶を飲んでいたお父さんとお母さん。
私が来たことに喜んでくれたけれど、留学のことを話したらすごく驚かれた。
「そんな急に?」
お父さんが目を丸くしている。
“急ってこともないでしょ。前に話していおいたはずだよ”
私の職場の先輩には留学の経験者が何人かいて、自分の発想や感性を広げるのに留学は役立った、と話してくれた。
だから、『自分も機会があればいつか留学してみたい』と以前から親に言っていた。
「その時は“するかもしれない”ってだけだったじゃない。それを明日出発だなんて……」
お母さんも戸惑いを隠せない。
“びっくりさせてごめん。……でも、もう決めたから”
私がはっきり言うと、お父さんもお母さんも黙ってしまった。
しばらくしてお母さんが口を開く。
「何かあったの?」
やっぱり女同士だから、何か勘付くものがあったのかもしれない。
だけど、本当のことは口が裂けても言えない。
“たいしたことじゃないよ。まぁ、心境の変化ってとこ”
私はそれらしいことを言う。
本当のことは、まだ言えないから。
“詳しい理由は後日改めて話すから、今は聞かないで”
唇を噛み締めてそっと俯く。
お父さんもお母さんも、それ以上は訊いてこなかった。
翌朝。
玄関で靴を履いていたら、お母さんが後ろに立った。
「チカ。桜井さんは知ってるの?」
ビクッと、私の肩が小さくはねる。
―――やっぱり、お母さんは気付かれちゃったかな?
だけど、ここで真実を知られる訳にはいかない。
靴を履くことにまごつく振りをして、私は時間を稼ぐ。その間に深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせた。
かなり時間をかけて靴紐を結び終え、ゆっくりと振り向く。
“もちろん、知ってるよ。彼は私の夢を誰よりも応援してくれてるんだから”
にっこりと笑うと、お母さんも一応は納得したみたい。
「それならいいけど。留学中はどこに泊まるの?」
“先輩に紹介されたところ。住所と電話番号はこれね”
私は手帳に挟んでいたメモをお母さんに手渡す。
“……そろそろ空港に行かないと”
大きなスーツケースに手をかけて、私は立ち上がった。
「週に一度は手紙を出しなさいよ」
“分かってるって。向こうに着いたら、すぐに手紙書くから”
「気をつけるのよ」
“うん、じゃあね”
お母さんに手を振って玄関を出た。
駅までの道を歩きながら、心の中で呟く。
―――お母さん、ウソ付いてごめんね。
職場の人に宿泊先を紹介してもらったと言ったのは、ウソだった。
確かに紹介はしてもらったけど、あとからこっそりとキャンセルをした。
そしてインターネットを使って、自分で住む場所を探した。
さっき渡したメモの住所に、私が行くことはない。
少しでも私の行き先が分からないようにするために、ウソを付いた。そうしないと、アキ君が調べ上げて私を見つけてしまうかもしれないから。
私がどこに行くかは、私しか知らない。
それから、アキ君がこの留学を知っているのもウソ。
私を応援してくれているのは間違いないけど、このことは彼にはまだ話してなかったから。
この留学を機にアキ君と別れるつもりだなんて、彼はまったく知らない。
―――私がいなくなったことを知ったら、アキ君は怒るかな?それともあきれる?……どっちにしても関係ないか。もう、会わないんだし。
ふう、と息を吐いた。
私の視界が揺れている。いつの間にか泣いていたようだ。
人に見られないうちに、急いで涙をぬぐう。
その時、左手の薬指にはめているリングが目に入った。
プレゼントされてからよほどのことがない限りずっと身に着けていたから、すっかり体の一部となっていて、外すのを忘れていた。
―――もう、必要ないよね。
私が立ち止まっていたのは、大きな川が下に流れる橋の中央。
リングをそっと抜き取り、手すりの外へと握った手を伸ばす。
このリングをくれた時、『ずっと一緒だよ』と言ってくれたアキ君。
言葉どおりに、これまでずっとそばにいてくれた。
彼といた時間は、きっと、何があっても忘れることはできない。
だから、捨ててしまおうと思った。
彼との思い出の品も。
彼の想いを。
そして、彼への想いを。
想い出にすがって生きるみじめな自分は見たくないから。
握った指を1本ずつ開く。
親指。
人差し指。
あと1本も開けば、手の中のリングは川へと落ちるだろう。
私の視線の先で中指が震えながら、ゆっくりと伸びてゆく。
握られていたリングが支えを失い、重力のままに落ちた。
―――ああっ、やっぱりダメ!!
落ちかけたリングをとっさにつかむ。
―――無理だよ。捨てられない……。
その場にへたり込んで、両手でリングを包み込む。
リングだけじゃない。
彼に関する何もかもが、まだしっかりと私の中にあって、捨てることなんて出来そうもなかった。
『彼とはもう二度と会わない』
伯母様に伝えたこの言葉を覆すことはしない。
―――だから、せめてこのリングだけは持っていてもいいよね……?
往生際の悪い自分に苦笑いしながら、私は元の位置にリングをはめた。