(5)最後のお願い SIDE:チカ
私は何度か深呼吸を繰り返し、伏せていた顔をゆっくりと上げた。
“お話はよく分かりました”
もう1度深呼吸をして、まっすぐに伯母様を見つめ返す。
“彼と別れるのは身を切られるくらいつらいですが、私のワガママでそちらの会社を振り回すわけにはいきません。アキ君とはもう会いませんから”
震える指先で伯母様に告げる。
話すことの出来ない私が巨大グループの跡取りであるアキ君と一緒にいるなんて、きっと許されないことだったのだ。
―――もっと早くに身を引けば、アキ君は苦しまなくて済んだのに……。
そう思うと、鈍感な自分に腹が立つ。
泣き出したいのをグッと堪えて、私は手話を続ける。
“アキ君はこの件でずっと悩んでいたはず。でも、これでそんな日々もおしまいです。彼を解放してあげられると思えば、私も救われます”
こわばった顔で笑顔を作った。
私の隣にアキ君がいなくなることよりも、私の存在がアキ君を苦しめていることのほうが、何倍もつらい。
下ろした手をひざの上でキュッと握った。
伯母様は詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
「ごめんなさい……。謝ってすむことではないけれど、晃君も会社も失うわけにはいかないの。本当にごめんなさい」
伯母様はテーブルにおでこがつくくらい、頭を下げた。
私のような年若い人間に対して、伯母様が頭を下げている。もしかしたら、今の伯母様は屈辱を感じているのかもしれない。
大グループの社長婦人という立場の彼女。
その日常で頭を下げられることはあっても、自分から頭を下げることはないはず。
だけど、そのプライドよりも、アキ君が跡を継ぐことが大事なのだ。
自分の気持ちよりも、会社のため。
何よりアキ君のため。
私は手を伸ばして、頭を下げ続ける伯母様の肩にそっと触れる。
“もう謝らないでください。こんな私にアキ君のような素敵な人が彼氏だなんて、最初から夢物語だったんですよ。その夢が覚めるだけですから”
「チカちゃん……」
顔を上げた伯母様のほうが泣きそうだった。
もらい泣きしてしまいそうなところを、必死で我慢する。
“実は、アキ君が出張から帰ってきたら彼に話そうと思っていたんですけれど。 私、留学しようかと考えています”
「留学?」
“はい。イギリスで本格的に絵本の勉強をしようと考えていたんです。迷っていましたけれど、これで心が決まりました”
アキ君に話して、彼がいい顔をしなかったら留学はやめてもいいと思っていた。
でも、その迷いはなくなった。
日本を離れることは、私にとって、アキ君と別れるいいきっかけになる。
“少なくても2、3年は勉強してくる予定です。帰国する頃には、彼は私のことを忘れているでしょうね”
忘れられてしまうのは寂しいけど、アキ君が思い出を引きずっていたら、新しい彼女や奥さんになる人に悪い。
だから、彼が私のことなんて忘れてしまってもいいように、嫌いになってしまうように、ひどい別れ方をしよう。
何も言わずに姿を消そう。
いくらアキ君が優しい人でも、こんな別れ方をする私のことなんて許してくれるはずないもの。
じっと私の手話を見ていた伯母様が、バッグの中から手帳のようなものを取り出す。
「その費用はこちらが払うわ」
それは手切れ金というのか。せめてもの償いというのか。
伯母様は小切手を取り出し、サラサラとけっこうな金額を書き込む。
「このくらいあれば足りるかしら?遠慮なく言って」
提示された数字には、ゼロがいくつも並んでいた。よほど無駄使いしなければ、5年は十分に過ごせる金額。
でも、私は首を横に振った。
“いえ、けっこうです。2人で過ごした日々が私の宝物なんです。彼からたくさんの愛情をもらったので、それだけでもう十分”
アキ君からはじめてもらった指輪は、今も変わらず左の薬指にはめられている。
私は指輪にそっと触れた。
彼との思い出も、彼からもらった愛情も、私の心の中にしっかりと刻まれているから大丈夫。
「それなら」
伯母様は名刺を取り出す。
「何か困ったことがあったらここに連絡して。メールでも手紙でもいいわ」
私のほうへ滑らせてきたそれをじっと見つめる。
そしてやんわりと押し戻した。
“少しでもアキ君とつながっているものがあったら、私の心は揺らいでしまいます。彼とのつながりは何一つないほうがいいです”
きっぱりと言った。
私とアキ君の関係は、今、終わったんだ。
だから、伯父様とも、伯母様とも、もちろんアキ君とも連絡を取ることは、もう二度とないのだ。
「そう……」
一切譲ろうとしない私の言葉に、伯母様はためらいながらも名刺をしまった。
伯母様が言い出した通りに私は『別れる』と決めたのに、ぜんぜん嬉しそうではない。そこにあるのは、心底申し訳ないという表情。
そんな伯母様を見遣って、私はわずかにゆるりと目を細める。
“すぐに留学先へ発ちます。アキ君が帰ってくる前に日本を出たほうがいいと思うので。正直に説明をしても彼は納得しないでしょうし、だったら何も言わないほうがいいと思うんです”
―――彼と顔を合わせたら、決心が鈍るから。
私は心の中で本音を呟き、伯母様に軽く頭を下げて席を離れた。
「……恨んでもいいのよ」
2、3歩進んだところで後ろから声をかけられる。
ゆっくり振り向くと、まっすぐに私を見ている伯母様の視線とぶつかった。
「ひどいことをしてるのは分かってるわ。私のした事を許してもらおうなんて思っていない。あなたに一生恨まれても仕方がないと思ってる。でも、こうするしかなかったの……」
伯母様の唇が震えている。必死で気丈な振りをしているのだ。
私は小さく首を横に振った。
“そんな風に言われたら、恨む気になれませんよ。アキ君のことを誰よりも大切に思っているお2人の気持ちは、十分こちらに伝わってますから。私なら大丈夫です”
ゆるりと微笑みを浮かべる。
“では、もう行きますね”
歩き出そうとした私は、ふと足を止めた。
伯母様に向き直る。
“あの……。最後にお願いがあります”
私からの申し出に、伯母様が少し緊張するのが分かった。
「なにかしら?」
こちらをじっと見つめ、私の真意を見抜こうとしている伯母様の真剣な瞳。
その瞳を私も見つめ返し、手話で伝えた。
“アキ君とこれからも仲良くしてください”
「……え?」
私の気が変わって物かお金をせびられると思っていた伯母様は、この申し出にあっけに取られている。
私はそんな伯母様に微笑みかけた。
“『2人の子供になれてよかった』と、以前彼が言っていました。今のアキ君にとっては、伯母様たちが家族なんです。かけがえのない彼の居場所なんです。だから、ずっと仲良くしてください”
伯母様は何も言わずに、私をただ見ている。
“……それが、別れる条件です”
改めてお辞儀をして、私はその場を去る。
店を出る時にチラリと振り返ると、伯母様は私に向けて、深々と頭を下げていた。