(6)恋愛のバランス
目を覚ますと、そこは明らかに自分の部屋とは違っていた。
二日酔いというわけではないが、ほんのり酒が残っていて頭がぼんやりしている。
普段はスウェットを着て眠るのに、今の俺は上半身が裸である。しかも下半身は下着一枚。
―――ここはどこだ?何で俺はこんな格好なんだ?
ゆっくりとベッドに身を起こすと、隣にいた人物が身じろぎした。
「ん……」
わずかにかすれた大人の女性の声。
「えっ?」
呆然としていると、その女性がこちらを向いた。
乱れた長い髪。
ゆるく崩れたバスローブ。
香取さんだった。
「……おはようございます」
恥ずかしそうに目を伏せて、挨拶をしてくる。
「あ?え?!」
彼女の顔を見たとたん、俺の意識がバッと戻ってきた。
昨日の夜、バーで香取さんと飲んでいて。
不意に彼女に告白されて。
ホテルに入って。
それから、もつれ合うようにベッドに倒れこんで……。
―――それで、どうなったんだ!?
その後のことはぜんぜん覚えてない。
たが、この格好を見れば『何があったのか』なんて一目瞭然。
冷や汗が額に浮かぶ。
―――とりあえず、謝らないと。
「そ、その、ごめん!」
俺はベッドの上で姿勢を正し、彼女に土下座をした。
「あの、何で謝るんですか?」
香取さんもベッドの上に起き上がる。
「まぁ、その……」
いくら誘われたからといって、いきなり体の関係を持つのは相手に失礼だ。
まして酔っぱらった勢いだなんて、大人として、男として最低すぎるだろう。
謝る俺に対して、香取さんは首を横に振る。
「いいんですよ」
終わってしまったことを詫びても、もう遅いというのだろうか?
「いや、でも!やっぱりよくないよ。本当に申し訳ないことをした」
また頭を深く下げ、ベッドに額をこすりつける。
すると、土下座を続ける俺に向かって、彼女が大きく叫んだ。
「ああ、もう!ですから、いいんですってば!」
「……香取さん?」
恐る恐る頭を起こすと、彼女は少し困った顔をしていた。
「桜井さんは……、その……、誤解しています」
「誤解?」
首を傾げると、彼女は大きく頷く。
そして、ぽつりと言った。
「だって……。私たち、何もなかったんですから」
「……は?」
―――この状況で、何もなかった?
彼女の言葉がいまいち信じられず、パチパチと瞬きを繰り返す。
あっけにとられている俺を見て、香取さんがクスッと笑った。
「何もなかったと言うのは、少し違いますね。抱きしめられて、髪や頬をなでられて。それから……」
俺にとってみれば、抱きしめたこと自体が結構なことだ。
更に続こうとする彼女の言葉に、少し怖くなる。
―――『それから』って、まだ何かしたのか、俺!
ゴクリ、と息を飲む。
やや怯えたような表情をする俺を見て、香取さんの目が不意に優しくなった。
「それから……、私のことを“チカ”と呼びました」
「……えっ」
―――チカ?
さっきよりも更にあっけにとられた。
香取さんは俺にかまわず、話を続ける。
「何度も、何度も“チカ”と呼びました。それは、彼女さんのお名前ですよね?」
「あ……、まぁ、そうだけど。でも、実は今、俺たちうまくいってなくて……」
チカとの連絡をすっかり絶ってしまった俺。
この1ヵ月の間に2人の休みが同じ日もあったが、何かと理由をつけて会わなかった。
もしかしたら、このまま自然消滅かもしれない。
だが、それでいいのかも知れない。
心のどこかで、投げやりにそう感じ始めていた。
そんな俺を諭すように、年下の香取さんが真剣な目で俺を見据える。
「そう思い込んでいるのは、桜井さんだけではないでしょうか」
「どうして、そう思うんだ?」
「だって、私の髪をなでる手はすごく優しくて。“チカ”と囁く声はとても甘くて。完全に意識がないのに、すごく幸せそうな顔してましたよ、桜井さん」
―――意識がないのにそんなことをする俺って、結構危ない人かも?!
俺が何を考えたのか勘付いた香取さんが、苦笑を漏らす。
「ふふっ。本当は彼女のこと、すごく愛しているんだなって分かりました。こんなに愛されているチカさんの代わりなら、抱かれるのもいいかって思ったんですけど」
クスクスと笑いを漏らしながら、少し意地悪い視線を俺に向ける。
「桜井さん、寝ちゃうんですもの。だから、私たちの間には何もなかったんです」
「そうだったんだ……」
俺はホッと安堵のため息をついて表情を緩めるが、香取さんは打って変わって、厳しい顔つきになった。
「それにしても、こんなにもチカさんを愛しているのに、どうして“うまくいってない”と言うんですか?」
「それは……」
その先を続けるべきか悩んだが、話せば少しはこのモヤモヤした感情が晴れるのかも知れないと思い、ゆっくりと口を開いた。
「実は、俺の彼女は病気が原因で声帯を取り除いたんだ。それは充分承知で付き合ったんだけどね」
ふぅ、と息を吐きながら天井を見上げる。
「やっぱり声に出して“愛してる”って言って欲しくて。俺たち以外の恋人同士なら、そんなこと当たり前に出来ているだろ?そう考えたら、彼女の傍にいることがつらくて、距離を置きたくなったんだ」
はぁぁ……。
と、大きなため息をついたのは、俺ではなく香取さんだった。
「何、甘ったれたことを言ってんですか?」
もう1度ため息をついた彼女が、真正面から睨んでくる。
どうして自分が睨まれるのか、意味が分からない。
「あ、その……。香取さん?」
「何で形に囚われているんですか?“愛してる”っていちいち言葉にしてもらわないと、自分が愛されていないとでも?」
淡々と告げる口調だけど、怒っているのが分かった。
「えと、そんなつもりでは……」
すっかり勢いに飲まれて、俺はしどろもどろだ。
「じゃぁ、どんなつもりなんです?自分の気持ちを言葉にしてくれれば、相手は誰でもいいって言うんですか?」
「そうじゃなくて、あの……」
「なら訊きますけど、チカさんに“愛してる”と言って欲しいとの事ですが、その分、桜井さんは全力で彼女を愛せていますか?
すねて連絡を絶っているくせに自分の要求は通そうだなんて、そんなの自分勝手だと思いませんか?!」
香取さんは起き抜けだというのに、はっきりとした口調でガンガン俺に説教をぶつけてくる。
「恋愛ってバランスが大事なんですよ!自分が全力で愛せていないのに、彼女からは全力の愛をもらおうだなんて、そんなの勝手すぎます!」
バンッ、と両手をベッドに叩きつける彼女。
あまりの勢いに、俺は口が挟めない。
「それから!無意識で名前を呼ぶくせに。あんなに愛しそうに髪に触れてくるくせに。それでもチカさんを忘れられるんですか?!この先、他の女性を愛することが出来るんですか?!」
下からねめつけるように睨まれて、俺は少し後ずさりする。
引きつった顔で香取さんを見る俺。
そんな俺を目にしても、彼女の主張は止まらない。
「チカさんとの仲が本当にうまくいってないのであれば、割り込んでしまおうって思っていましたけど。でもこの件は、単に桜井さんの子供じみたわがままが原因です!」
ビシッと指差されて、俺はコクコクと無言でうなずくことしか出来なかった。
ここまで言い切って、香取さんはやっと落ち着いたようだ。
ふっ、と短く息を吐いた後、ハッと顔色を変えて我に返る。
「す、すいません。先輩に対して生意気なことを……」
とっさに正座をして、ペコペコと頭を下げてくる。
ここまで言われて怒るどころか、かえってすっきりした。
「いや。そのとおりだよ」
俺がニコッと笑ったのを見て、彼女は安心したように正座を崩した。
「……あの、生意気ついでにもう少し言ってもいいでしょうか?」
シュンと肩をすくめながら、おずおずと口を開く香取さん。
「こうなったら、もう何を言われても驚かないよ。どうぞ」
俺が促すと、彼女はさっきとは違って穏やかに話し出した。
「自分自身以外の存在とお付き合いするわけですから、自分の思うようにいかないことは山ほどあると思います。それを他人と比べてあれこれ言っても、キリがないです。
チカさんは話が出来ないだけで、他に障害はないんでしょう?」
「ああ、声以外はまったく問題ない。体も健康だし」
「だったら、それで十分じゃないですか。元気に生きていてくれれば……」
言葉を区切った香取さんが、少し寂しそうに笑う。
「最後に付き合った私の彼、交通事故で亡くなったんです。だから、会いたいと思っても会えないんです……。
私に比べたら、桜井さんは恵まれてますよ。いつだって彼女に会えるんですからね」
香取さんはスルリとベッドから降りて、大きく背伸びをする。
「あ~あ。桜井さんの事、結構本気で狙ってたのになぁ。でも実は彼女のことが心底大好きで。なのに、すねて、わがままで、甘ったれで。まったくもう!……あっ」
口元を押さえた香取さんが、“しまった”という顔をして俺を見てくる。
「すいません。また言い過ぎました……」
「ははっ。図星過ぎて、何も言い返せないや」
俺は笑って頭をかいた。
「香取さんの言ったとおりだ。俺、甘えていたんだよ。自分ばかりが不幸だと思ってさ。昔は彼女が隣で笑ってくれればそれで満足だったのに、いつの間にか欲張りになっていたんだな」
「よかったじゃないですか、チカさんとの別れを切り出す前に、そこに気が付いたんですから。
さてと。私、シャワーを浴びたら帰りますね」
「あっ、香取さん」
バスルームへと向かう彼女を呼び止める。
「はい?」
「いろいろごめん。それと、はっきり言ってくれてありがと」
すると香取さんがニコッと綺麗に笑う。
「悪いと思っているのでしたら、また飲みに行きましょう。桜井さんがべた惚れのチカさんと一緒に3人で。絶対に会わせてくださいね」
「分かったよ」
俺は苦笑しながらその申し出を了承した。