(5)浮気
それからの俺は、チカを避けるようになった。
はじめは本当に仕事が忙しくて、会う時間が取れなくて。
メールだけは交換していたが、そのうち俺からの返信は減っていった。
それでもチカからのメールは止むことはない。
『お疲れ様。きちんとご飯食べてる?』
『頑張りすぎないで。アキ君はすぐ無理しちゃうんだから』
『今日から天気が崩れるみたい。体調には気をつけてね』
どのメールも俺を気遣う内容で、チカの優しさが伝わってくる。
だけど、チカからのメールが届けば届くほど、俺の心はどんどん冷たくなっていった。
これまで2日に1度は返していたメールも3日に1度、5日に1度となり。
とうとう1週間を過ぎても、返信することはなくなった。
言葉なんて必要ないと言った俺のほうが、いつの間にか言葉を求めていたのだ。
―――なんで『愛してる』って言ってくれないんだ!
無意味な八つ当たりを自分の枕にぶつける。
眠れなくて、流し込むように酒を飲む。
行き場のない怒りとむなしさに襲われて、どうにもならない気持ちは酒で紛らわせるしかなかった。
こんな毎日でも、仕事だけはきっちりこなしている。
いや、こなしていると言うよりも、仕事をして気を紛わせているといったほうが正しいかもしれない。
余計なことを考えたくなくて、予約帳に目を通して今後のスケジュールを確認したり、備品を点検したりと、手を休める暇を与えない。
そんな感じでフロントカウンターに立っていると、マネージャーが1人の女性を連れてきた。
「桜井君、新人の香取さんだ。彼女の指導係を頼むよ」
その女性が俺の正面に立つ。
「香取 洋子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
俺の2つ下だという香取さんは、ハキハキと挨拶をしてくれた。
「桜井 晃です。こちらこそよろしく」
手を差し出して、軽く握手を交わす。
愛想笑い程度に微笑みかけると、彼女の顔が少し赤くなった。
「かっこいいですねぇ。思わず見とれちゃいましたよ」
香取さんが恥ずかしそうに、でも、俺の耳に届く程度にははっきりと言う。
「え?あ、どうも……」
俺が戸惑っていると、マネージャーが苦笑交じりに教えてくれた。
「彼女は思ったことを口にしないと気が済まない性格らしいぞ」
「だって、言いたいことはちきんと言葉にしないと、相手に伝わりませんから」
ちょっとすねたように言う彼女の仕草は、幼い少女のようで微笑ましい。
「ははっ、確かにそうだが、あんまりうるさいと嫌われるぞ。じゃ、あとは任せる」
マネージャーは俺の肩をポンと叩いて、事務所へと戻っていった。
香取さんはマネージャーが言ったとおり、素直にあれこれと言葉にする。
さすがに悪口を言うことはないが、それ以外のことは止まるところを知らない。
「桜井さんって、本当に素敵ですねぇ」
特に俺に対しては、顔を合わせるごとに言ってくる。
「正面きって言われると困るなぁ」
人差し指で鼻の頭を軽くひっかく。
「ご迷惑ですか?」
「なんて言うか、照れてしまって、どうしたらいいか分からなくなる」
正直に答えると、彼女は楽しそうに笑った。
「ふふっ。照れる姿もかっこよくて好きですよ」
こんな調子で香取さんは『素敵』や、『かっこいい』、『好き』を連発する。
“少しうるさいかな?”とも思うが、素直に言葉にしてもらうのは嬉しい。
俺の彼女は言葉にしてくれないから……。
ある日、仕事を終えた俺と香取さんは休憩室でコーヒーを飲んでいた。
そこに携帯電話が鳴って、メールの着信を知らせる。
差出人はチカだった。
俺はざっと目を通し、返事を打つことなくそのまま閉じる。
メールを返さなくなって、もう10日。それでもチカは俺を責めることはない。
『忙しいのは分かってるから、無理に返事はしなくていいよ。私が勝手にメールしてるだけだもん』
俺に気を遣わせない内容を時折送ってくる。
良心が痛むものの、やはりメールは返さないでいた。
日にちが開きすぎて、今更返事をするのが妙に気まずくて……。
携帯電話を握り締めて、ため息をつく。
「桜井さん。顔が暗いですよ?」
心配そうな瞳で香取さんが言う。
「そう?なんでもないから気にしないで」
立ち上がった俺の腕を、香取さんがパッとつかんだ。
「こういう時はお酒でも飲みませんか?私、素敵なバーを見つけたんです」
「あ……」
彼女の誘いに、一瞬ためらった。
チカがいるのに他の女性と出かけるなんてマズイかな、と思ったからだ。
―――でも、飲みに行くだけなら。気晴らしも必要なことさ。
「……いいよ。行こうか」
香取さんに小さく笑いかけた。
―――やましい気持ちなんて、ぜんぜん持ってない。職場の後輩と、軽く飲むだけだ。
俺は何度も心の中で呟いていた。
連れてこられたのはひっそりとした店構えのバー。
知らなければ通り過ぎてしまいそうだ。
中に入ると壁や床が明るい木目で出来ていて、一目見ただけですごくいい店だと分かった。
「へぇ。こんなにいいお店があったんだ」
カウンターに香取さんと横並びに座る。
「でしょ?偶然見つけたんですけど、すっかり気にってしまって」
50歳くらいの男の人が静かに微笑んで、頼んだ酒を出してくれた。
ここのマスターだろう。後ろに流しているロマンスグレーの髪が渋くて、かっこいい。
「俺も気に入ったよ。店はおしゃれで、酒もうまくて。マスターも素敵な人だし」
「……桜井さんのほうが、何倍も素敵です」
俺にだけ聞こえるように、香取さんが囁いた。いつもの明るい口調とは違う、やけに艶っぽい声で。
「え?」
聞きなれない声音に驚いて彼女を見ると、真剣な瞳で俺を見ている。
「本気でそう思っています」
「あの……、香取さん?」
卓上に置かれたキャンドルの炎が映った揺れる瞳で、俺をじっと見つめている香取さん。
「さっきのメール、彼女からですか?」
「あ、まぁね」
「……私だったら、桜井さんにあんなつらそうな顔はさせません」
柔らかく静かな声。
だが、はっきりとした意思が伝わってきた。
「私じゃダメですか……?」
ユラユラと明かりが揺れる彼女の瞳。
それにシンクロして、揺れる俺の心。
言葉もなく香取さんを見つめ返していると、カウンターに載せていた俺の手を彼女がつかんできた。
「あなたが好きなんです」
俺の瞳を射抜くような視線と共に、彼女の想いがぶつかってくる。
「香取さん……」
それ以上何も言えず、何も言わず、2人とも黙って互いを見つめ続ける。
手にしたグラスの中で解けかけた氷が崩れ、カラン、と小さく音を立てた。
どれだけの間見つめ合っていたのだろう。
俺はフッと短く息を吐き、グラスに残っていた酒を飲み干す。間髪いれずにウイスキーのストレートを注文し、それを一気にあおった。
そして彼女の手を取って店を出る。
俺たちはホテル街へと姿を消した。