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声に出来ない“アイシテル”  作者: 京 みやこ
第9章 愛すること 愛されること
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(5)浮気



 それからの俺は、チカを避けるようになった。


 はじめは本当に仕事が忙しくて、会う時間が取れなくて。

 メールだけは交換していたが、そのうち俺からの返信は減っていった。


 それでもチカからのメールは止むことはない。


『お疲れ様。きちんとご飯食べてる?』


『頑張りすぎないで。アキ君はすぐ無理しちゃうんだから』


『今日から天気が崩れるみたい。体調には気をつけてね』


 どのメールも俺を気遣う内容で、チカの優しさが伝わってくる。

 だけど、チカからのメールが届けば届くほど、俺の心はどんどん冷たくなっていった。


 これまで2日に1度は返していたメールも3日に1度、5日に1度となり。

 とうとう1週間を過ぎても、返信することはなくなった。


 言葉なんて必要ないと言った俺のほうが、いつの間にか言葉を求めていたのだ。


―――なんで『愛してる』って言ってくれないんだ!


 無意味な八つ当たりを自分の枕にぶつける。

 眠れなくて、流し込むように酒を飲む。

 行き場のない怒りとむなしさに襲われて、どうにもならない気持ちは酒で紛らわせるしかなかった。



 こんな毎日でも、仕事だけはきっちりこなしている。

 いや、こなしていると言うよりも、仕事をして気を紛わせているといったほうが正しいかもしれない。


 余計なことを考えたくなくて、予約帳に目を通して今後のスケジュールを確認したり、備品を点検したりと、手を休める暇を与えない。

 そんな感じでフロントカウンターに立っていると、マネージャーが1人の女性を連れてきた。


「桜井君、新人の香取さんだ。彼女の指導係を頼むよ」

 その女性が俺の正面に立つ。

「香取 洋子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 俺の2つ下だという香取さんは、ハキハキと挨拶をしてくれた。

「桜井 晃です。こちらこそよろしく」

 手を差し出して、軽く握手を交わす。

 愛想笑い程度に微笑みかけると、彼女の顔が少し赤くなった。

「かっこいいですねぇ。思わず見とれちゃいましたよ」

 香取さんが恥ずかしそうに、でも、俺の耳に届く程度にははっきりと言う。


「え?あ、どうも……」

 俺が戸惑っていると、マネージャーが苦笑交じりに教えてくれた。

「彼女は思ったことを口にしないと気が済まない性格らしいぞ」

「だって、言いたいことはちきんと言葉にしないと、相手に伝わりませんから」

 ちょっとすねたように言う彼女の仕草は、幼い少女のようで微笑ましい。

「ははっ、確かにそうだが、あんまりうるさいと嫌われるぞ。じゃ、あとは任せる」


 マネージャーは俺の肩をポンと叩いて、事務所へと戻っていった。


 香取さんはマネージャーが言ったとおり、素直にあれこれと言葉にする。

 さすがに悪口を言うことはないが、それ以外のことは止まるところを知らない。



「桜井さんって、本当に素敵ですねぇ」

 特に俺に対しては、顔を合わせるごとに言ってくる。

「正面きって言われると困るなぁ」

 人差し指で鼻の頭を軽くひっかく。

「ご迷惑ですか?」

「なんて言うか、照れてしまって、どうしたらいいか分からなくなる」

 正直に答えると、彼女は楽しそうに笑った。 

「ふふっ。照れる姿もかっこよくて好きですよ」


 こんな調子で香取さんは『素敵』や、『かっこいい』、『好き』を連発する。

“少しうるさいかな?”とも思うが、素直に言葉にしてもらうのは嬉しい。


 俺の彼女は言葉にしてくれないから……。





 ある日、仕事を終えた俺と香取さんは休憩室でコーヒーを飲んでいた。


 そこに携帯電話が鳴って、メールの着信を知らせる。

 差出人はチカだった。

 俺はざっと目を通し、返事を打つことなくそのまま閉じる。


 メールを返さなくなって、もう10日。それでもチカは俺を責めることはない。


『忙しいのは分かってるから、無理に返事はしなくていいよ。私が勝手にメールしてるだけだもん』


 俺に気を遣わせない内容を時折送ってくる。

 良心が痛むものの、やはりメールは返さないでいた。

 日にちが開きすぎて、今更返事をするのが妙に気まずくて……。



 携帯電話を握り締めて、ため息をつく。


「桜井さん。顔が暗いですよ?」

 心配そうな瞳で香取さんが言う。

「そう?なんでもないから気にしないで」

 立ち上がった俺の腕を、香取さんがパッとつかんだ。

「こういう時はお酒でも飲みませんか?私、素敵なバーを見つけたんです」

「あ……」

 彼女の誘いに、一瞬ためらった。

 チカがいるのに他の女性と出かけるなんてマズイかな、と思ったからだ。


―――でも、飲みに行くだけなら。気晴らしも必要なことさ。


「……いいよ。行こうか」

 香取さんに小さく笑いかけた。


―――やましい気持ちなんて、ぜんぜん持ってない。職場の後輩と、軽く飲むだけだ。


 俺は何度も心の中で呟いていた。



 連れてこられたのはひっそりとした店構えのバー。

 知らなければ通り過ぎてしまいそうだ。


 中に入ると壁や床が明るい木目で出来ていて、一目見ただけですごくいい店だと分かった。


「へぇ。こんなにいいお店があったんだ」

 カウンターに香取さんと横並びに座る。

「でしょ?偶然見つけたんですけど、すっかり気にってしまって」


 50歳くらいの男の人が静かに微笑んで、頼んだ酒を出してくれた。

 ここのマスターだろう。後ろに流しているロマンスグレーの髪が渋くて、かっこいい。


「俺も気に入ったよ。店はおしゃれで、酒もうまくて。マスターも素敵な人だし」

「……桜井さんのほうが、何倍も素敵です」

 俺にだけ聞こえるように、香取さんが囁いた。いつもの明るい口調とは違う、やけに艶っぽい声で。


「え?」

 聞きなれない声音に驚いて彼女を見ると、真剣な瞳で俺を見ている。

「本気でそう思っています」

「あの……、香取さん?」

 卓上に置かれたキャンドルの炎が映った揺れる瞳で、俺をじっと見つめている香取さん。

「さっきのメール、彼女からですか?」

「あ、まぁね」

「……私だったら、桜井さんにあんなつらそうな顔はさせません」

 柔らかく静かな声。

 だが、はっきりとした意思が伝わってきた。



「私じゃダメですか……?」

 ユラユラと明かりが揺れる彼女の瞳。

 それにシンクロして、揺れる俺の心。


 言葉もなく香取さんを見つめ返していると、カウンターに載せていた俺の手を彼女がつかんできた。


「あなたが好きなんです」


 俺の瞳を射抜くような視線と共に、彼女の想いがぶつかってくる。

「香取さん……」

 それ以上何も言えず、何も言わず、2人とも黙って互いを見つめ続ける。


 手にしたグラスの中で解けかけた氷が崩れ、カラン、と小さく音を立てた。





 どれだけの間見つめ合っていたのだろう。

 俺はフッと短く息を吐き、グラスに残っていた酒を飲み干す。間髪いれずにウイスキーのストレートを注文し、それを一気にあおった。


 そして彼女の手を取って店を出る。




 俺たちはホテル街へと姿を消した。


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