(2)心の温度
俺が社会人になってから、チカは前よりもメールを送ってくるようになった。
そして、会った時にはこれまで以上に気持ちを伝えてくる。
大学生の時より色々な人と接する機会が多くなった俺を見て、心配になったのだという。
“好きって言いたいのに、大好きって伝えたいのに、私には声がないから。
アキ君、他の人のところに行っちゃうかもしれない……”
そんな時は優しくチカを抱きしめる。
「言葉なんて必要ない。チカの気持ちはしっかり伝わってるよ」
そう言いながらも、最近胸の奥のほうがチクチクと痛い。
病気ではなく精神的なものだとは思うが、痛みの原因は分からない。
俺とチカはいつでも仲がいいし、いつだってお互いが深い信頼関係で結ばれている。
―――気のせいか。
俺は大して気にも留めず、毎日を過ごしていた。
昼休みに入って真っ先にすること。それはメールのチェック。
チカからいつも何かしらのメッセージが送られてきているのだ。
「今日はなんて書いてあるかなぁ」
ウキウキと携帯を開く。
『新しい靴を買ったよ。今度、この靴でデートしたいな』
写真付きのメールが届いていた。
早速返信。
【チカに似合いそうだね。休みの日は水族館でも行こうか?】
「送信っと」
そこに携帯で話をしながら、先輩が休憩室に入ってきた。
「仕事が終わったら電話する。ん、じゃぁな」
嬉しそうな声。
「お疲れ様です。ずいぶん楽しそうでしたが、電話のお相手は彼女さんですか?」
「ああ、まぁな。そういうお前だって毎日ニコニコしてメール送ってるじゃないか」
「え、あ、はい」
自分はそんなに顔に出ているだろうか。ちょっと照れくさくなる。
この日はこんな軽いやり取りで、先輩との話を終えた。
今週はこの先輩と昼食の時間が重なるらしく、休憩室でよく顔を合わせる。
先輩は12時30分になると携帯を見つめて、落ち着きがない。
どうやら彼女さんから掛かってくる時間が決まっているようだ。
今日も嬉しそうに話を終えた先輩。『お疲れ様です』、と改めて声をかけると、こちらにやってきた。
「電話が掛かってくるのをソワソワ待つなんて、先輩は見かけによらず可愛いところありますね」
大学ではラグビー部の主将だったという猛々しい経歴を持つ3つ年上の先輩に、俺はクスクスと笑いながら話しかける。
すると先輩はうっすらと顔を赤らめながらも、堂々と胸を張った。
「うるさい、何とでも言え。恋人の声が耳元で聞けるんだ。こんな幸せな事は他にそうそうないぞ」
満面の笑みを浮かべる先輩。
「……え?」
反対にこわばる俺。
これまで他の恋人たちをうらやましいと感じたことはなかった。
俺とチカには、俺たちなりの付き合い方があると思っていたから。
今も、昔もチカに不満なんてない。
俺の彼女がチカでよかったと思ってる。
ただ。
その先輩がものすごく嬉しそうに、幸せそうに笑うから。
彼女さんのやり取りがうらやましいと思ってしまった。
胸の奥のチクッという痛みが、大きくズクンとうずく。
それ以来、どことなくぎこちない空気が俺を包んだ。
2人の休みの日、約束どおり水族館へ出かけた。
新しい靴ではしゃぐチカ。
いつもなら彼女と同じくらいはしゃぐ俺なのに、なんだか気分が乗らない。
“アキ君。どうかした?”
心配そうな瞳で、チカが下から俺をのぞき込んでいる。
「ん?なんでもないけど」
俺は彼女に微笑みかける。
“それならいいんだけどね”
俺はチカの唇を見つめる。
これまでも、これからも、声をつむがない彼女。
そんなことは分かっている。
分かってはいる。
だけど……。
自分でも気が付かないうちに、心の温度が少し下がった。