(3)公衆電話:SIDE チカ<1>
「おしょう油が足りなくなっちゃったの。買ってきてくれる?」
リビングでテレビを見ていると、台所からお母さんが来てそう言った。
私はうなずいて、テレビを消す。
「お願いね」
お母さんからお金を受け取って、コートとマフラー、携帯電話を持って家を出た。
歩いて5分くらいの距離にある近所のスーパーでおしょう油を買って、家へと急ぐ。
―――今夜のおかずは何かなぁ。
小走りで角を曲がると、その先に大きな野良犬がいることに気がついた。
私は幼稚園の頃に近所の犬に噛み付かれて以来、犬がすごく苦手なのだ。
本当に小さな仔犬であれば、ちょっとだけ触ることが出来る。
だけど、大きな犬はたとえ良く慣らされた飼い犬でも、怖くて怖くて近づけない。
それが、大きな野良犬となれば、私にはどうすることも出来なかった。
道をふさぐ形で、野良犬は私を睨んでいる。
あいにく私の前にも後ろにも誰一人いなくて、助けてもらえない。
―――どうしよう。
犬はお腹が空いているのか、おしょう油の入った袋をじっと見ている。
そして低いうなり声を出して、少しずつ私の方に近づいてきた。
―――どうしよう、どうしようっ。
泣きたくなって、おしょう油をぎゅっと抱きしめる。
すると、野良犬がこちらに向かって走り出した。
―――い、いやぁ!!
私はくるりと向きを変え、来た道を駆け出す。
―――やだっ、来ないで!
必死で逃げるほど、野良犬も追いかけてくる。
私は転ばないようにするのが精一杯で、どこをどう走ったのか分からない。
気がつけば公園に来ていた。
学校帰り、アキ君とよく立ち寄る公園だ。
―――確か、電話ボックスがあったよね。あそこに逃げ込めば大丈夫かもっ。
薄暗い公園を走って、目指す電話ボックスにたどり着く。
中に入って、急いで扉を閉めた。
下に隙間はあるけれど、さすがにそこからは入れない。
野良犬は悔しそうに低いうなり声を上げ、ボックスの周りをぐるぐる歩いていた。
―――はぁ、怖かったぁ。
ホッと息をつく。
―――しばらくすれば、あきらめてここからいなくなるかな?それまでおとなしく待ってよっと。
ところが、私の予想に反して野良犬はちっとも向こうに行ってくれない。
―――困ったなぁ。お母さん、心配してるよね。
迎えに来てもらおうと思って、私はコートのポケットから携帯電話を取り出す。
2つ折の携帯を開くが、画面は暗いまま。
―――あ、そうだ。さっき充電しようとして、忘れちゃったんだ。これじゃ、お母さんにメールできないよ。
すぐ目の前に公衆電話があるが、私には意味がない。
―――どうしよう……。
野良犬はまだそこにいる。
時間はどんどん過ぎていって、辺りはだいぶ暗くなってきた。
迷った挙句、私はお財布から小銭を取り出す。
―――お母さんなら分かってくれるかもしれない。
かすかな期待を胸に、私は家に電話をかけた。
数回のコール音の後、つながる電話。
『はい、大野です』
―――お母さん!
私は受話器を握り締め、出せない声で大きく叫ぶ。
『もしもし?どちら様でしょうか?』
なかなか私だとは分かってもらえない。
―――お母さん、お母さん!
心の中で何度も叫ぶ。
ところがプツッと音がして、切れてしまった。
―――分かってもらえなかった……。
私はがっくりと肩を落とす。
―――ずっとこのままなのかなぁ。
ジワッと涙が浮かぶ。
怖いし、寒いし、お腹空いたし、どうしたらいいのか分からない。
―――誰か助けて。誰か、誰か……。
ここでアキ君の顔が浮かんだ。
―――彼なら分かってくれるかも!
覚えていた彼の携帯電話の番号を押す。
でも、途中で手を止めた。
時間は7時少し前で、もしかしたら勉強している最中かもしれない。
―――受験勉強の邪魔は出来ないよ。
静かに受話器をフックに戻し、思い直して、もう一度家に電話をかける。
結果は、さっきと同じだった。
ボックスの外では私に向かって野良犬がけたたましく吠えていて、心細さが増してゆく。
―――困ったよぉ。
鼻の奥がツンと痛くなって、涙がジワッと浮かんだ。