(2)物言わぬ少女
放課後の廊下は帰宅する生徒や、部活に向かう生徒で溢れている。
俺が廊下を数歩進んだだけで、そこかしこから女子の囁きが始まった。
「はぁ……」
まとわりつく視線と囁きに再びため息が出る。
「どうした?辛気臭い顔しちゃって」
背後から声をかけてきたのは、この学校での友人第一号、小山だった。
「相変わらず雑音だらけだなぁと思って」
一応は周囲に気を遣って、小山にしか聞こえないように小さく言う。
「ひっどいなぁ。“カッコいい”って言われたら、たいていの男は大喜びするのに」
優しいと評判のこいつは、俺が冷たい言葉を口にするたびに女子の味方をする。
だが、歩いているだけでジロジロ見られるのは結構苦痛なのだ。
「興味本位で言われ続ける俺の身になってみろ。ただの迷惑だ」
「ははっ。桜井って、ほんとにひどい奴。……いけね、課題のノート忘れたっ」
小山はバタバタと教室へ逆戻り。
「ったく。いちいちうるさいんだよなぁ、あいつは」
そんな小山の背中を見送り余所見をしていたら、廊下の角から出てきた人に気がつかなかった。
ドン、と体がぶつかった鈍い音。
そのすぐ後に俺のバッグがドサリと落ちる。
「いってぇ」
前を見ると、俺の胸ほどにしか身長がない小柄な少女がいた。
大きな瞳を目いっぱい開いて、驚いた表情でこちらを見ている。
―――これって、余所見してた俺が悪いよなぁ。
「ごめん。ケガはない?」
女子に無愛想な俺でも、自分が悪い時には謝るくらいはする。
声をかけると少女は無言で首を横に振り、そして俺のバッグを拾ってホコリを掃い始めた。
校庭に面しているこの廊下は、風が少し吹き込んだだけでうっすらとホコリが溜まる。
先程落とした俺の黒いスポーツバッグには、所々についた白い汚れが目立っていた。
少女は小さな手で一生懸命掃い続ける。
丁寧にはたいて、すっかり綺麗になったカバンを差し出してきた―――やはり無言で。
「ありがと」
俺が受け取っても、ただうなずくだけ。
―――怒ってんのか?確かに前を見ていなかった俺が悪いんだけど。
ずっと無言の少女の態度に、俺の不機嫌さがぶり返す。
―――でも、謝ったじゃねぇか。お礼も言ったしよ。
さっきの雑音の事もあり、ついイライラとした強い口調で少女に言う。
「あんた、何で全然しゃべんないの?黙っていられると、すっげぇ気分悪いんだけど」
その言葉を聞いた少女は目を見開き、次の瞬間、泣きそうな顔になった。
―――やべっ。さすがに今のはきつい言い方だよな。
言い過ぎたかと反省するも、一度発した言葉は戻る事はない。
内心ヒヤリとしたが、少女は泣き出すこともなく、頭をペコリと下げて足早に立ち去っていった。
「……何なんだよ、あいつ」
ボソリと呟いたのを、教室まで忘れ物を取りに行って帰ってきたばかりの小山に聞かれる。
「あいつって?」
俺は既に15メートルほど先の少女の背中を指差した。
「ああ、チカちゃんか」
小山が親しげに名前を口にする。
「チカちゃん?」
「そ、1年の大野 チカちゃん。俺のイトコなんだ。まぁ、転入2日目の桜井は知らないか。サラサラのショートカットに、ぱっちりの瞳。色が白くてちっちゃくて、かわいいよな。けっこう人気があるんだぜ」
やけに嬉しそうに話す小山。きっと、あの少女とは仲がいいのだろう。
「ふうん」
興味のない俺はいい加減な相槌を打った。
そんな俺を気にすることもなく、話を続ける。
「性格も素直で、すっごくいい子だよ。でも……」
今まで明るかった小山の声が、急に暗くなった。
「チカちゃん、声が出せないんだ」
「え!?」
驚いて隣りの小山をまじまじと見る。
小山は『あんまり人に言うことじゃないんだけど』と前置きしてから、小さい声で話し始めた。
「12歳までは話せていたんだ。でも、検査で声帯に異常が見つかってね。命に関わる事だから、手術して声帯を取り除いたんだよ。だからそれ以来、話すことはできない」
まるで自分のことのように、つらそうな表情をしている小山。
俺は愕然とした。
『黙っていられると、すっげぇ気分悪いだけど』
病気で声を失った少女に向かって、何てひどいセリフだろう。
とたんに申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。
小山以上に、自分の顔がつらそうになっているのが分かった。
「声が出ない以外は何の問題もないからね。だから養護学校じゃなくって、こうやって普通の高校に通ってる」
小山がふと話を止めて、俺を覗き込む。
「どうした?そんな暗い顔して」
今はもうとっくに姿がないのに、彼女が歩いていった方向をじっと見つめて呟いた。
「俺、あの子にひどい事言った……」
去っていった背中が、見た目以上に小さく見えたのは気のせいだろうか?
彼女はあの後、泣いたのだろうか?
もし、泣いていたとしたら。
俺の言葉のせいで泣いていたら……。
そう考えるだけで、胸が更に締め付けられて苦しくなる。
「さっきの女子たちにも雑音とか迷惑とか言ってたじゃないか。それだってひどい事だぞ」
苦笑しながら、それでもたしなめるように小山が言う。
「違う。……それとは違うんだ」
俺は力なく首を振った。
「言ってはいけないことを言って、傷つけた」
俺のあのセリフはものすごく攻撃的だった。事情を知らなかったからと言って、許されるものじゃない。
この時の俺はすごく動揺していて、いつもふてくされるか、だるそうな俺しか見ていない小山は少し驚いていた。
―――謝らなきゃ、謝らなきゃ。
どうしてそんなに必死に思ったのかは分からない。
ただ、今にも泣き出してしまうかのような、あの悲しい顔が忘れられないのだ。
俺は小山の腕をグッと掴む。
「いてっ。痛いって、桜井。どうしたんだよ、急に?」
「謝らないといけないんだ!あの子が行きそうな所に心当たりはないか?」
俺の勢いに飲まれて、目を白黒させている小山。
何回かまばたきをした後、教えてくれた。
「向かった先はたぶん図書室だよ。図書委員だって言ってたから、放課後はだいたい図書室にいるはずだけど」
「図書室だな?サンキュッ」
俺はカバンを肩に担いで、廊下を走り出した。
幸い、先生がいない。俺は全速力で図書室を目指す。
相変わらず女子たちは囁いていたけれど、そんな事も気にならないほど急いでいた。