(2)月
ノドの渇きを感じて、ふと目が覚めた。
「私、いつの間にか寝ちゃったんだ……」
モソモソと布団から這い出ると、部屋の電気は消されていた。
ベッド横に置いてある時計を見ると、もうすぐ日付けが変わるところ。
同室の人たちを起さないように、そっと病室を出た。
―――少し先にある給湯室で、お水でも飲んでこよう。
非常灯だけの薄暗い廊下を注意深く進んでゆく。
中に入って置かれていたコップを一つ借り、水を飲む。
コクンと飲み込むと、ノドの奥の“何か”に水が触れた。
―――これが“腫瘍”なんだ……。これがあるから、私は悲しい思いをしなくちゃいけないんだ……。
もう枯れたと思っていた涙がジワジワとにじんでくる。
夢が打ち砕かれた未来に、なんの楽しみも感じない。
悲しみと絶望で塗り固められた真っ暗な未来。
そんな世界で生きていく意味などあるのだろうか。
私は空になったコップを見つめながら、小さくため息をつく。
手術をしなければ私の命が危ないって、あの先生は言っていた。
夢も希望も見いだせない未来に立ち向かう勇気など、ちっぽけな私にはない。
「このまま何の治療もしないで、死んじゃったほうがいいのかなぁ……」
ポツリと呟いた時、窓の外が急に明るくなる。
風に吹かれた雲が流されて、夜空に満月が現れた。
まん丸で、優しい光を放っている。暖かさは感じないのに、温もりを感じる月の光。
「きれい……」
にじんだ涙を拭くのも忘れて、思わず見とれた。
時折月に雲がかかっては月光が翳り、そしてまた雲が流れて満月が現れる。
その様子をただじっと、長い間見つめていた。
―――これから先も、こんな綺麗な月が見られたらいいのに。
心の中で呟いて、それをすぐさま否定する。
―――ううん、そうじゃない。“見られたら”じゃない。
「……絶対に見たい」
そう口に出して言ったら、なんだか気持ちがすごく楽になった。
さっきまで胸の中にあった重く黒い塊が、なんとなく小さくなったような気がする。
窓から差し込む月の光を浴びていると、ほんの少しだけ勇気が湧いてきた。
声は出なくなるけれど、病気は治る。
話せなくなる事で出来なくなることもあるけれど、出来る事だってあるはず。
ゼロじゃない。
「絵本作家とか小説家なら、声は必要ないよね。話せなくても、仕事は出来るよね」
ちょっと前まであんなに泣いていたのに、今の私は少しだけ笑顔を取り戻した。
ゆっくりと息を吐く。
でもそれは、さっきとは違って、諦めのため息じゃない。
「気持ちを切り替えるきっかけって、こんな近くにあったんだ……」
ぜんぜん悲しくないって言ったらウソになる。
でも、悲しいだけじゃなくなった。
ほんのちょっとだけど、未来に期待している自分がいる。
―――きっと、なんとかなるよね。生きていれば……。
給湯室を出る前にもう一度月を見て、“頑張ろう”って呟いた。
次の日は日曜日で、朝からお父さん、お母さん、そして、イトコの圭ちゃんがお見舞いに来てくれた。
「おはよっ」
私から3人に元気よくあいさつする。その様子を見て、お父さんとお母さんがびっくりした。
―――そうだよね。昨日、あんなに泣いてたんだもん。今の私の元気の良さを見たら、驚くよね。
いつもは物静かなお父さんが目大きく見開いている様子を見て、ちょっと笑っちゃった。
「チカ。どこか痛い所はない?」
お母さんが心配そうに私の頭をなでる。
私は首を横に振り、そして大きく息を吸ってから、お母さんを見た。
「手術、受けるから」
「チカ?」
はっきりと力強く言った私に、お父さんとお母さんがまた驚く。
「昨日はいきなり“声が出なくなる”って言われて怖くなっちゃったんだけど。……決めたんだ。私、生きたい」
3人にニコッと笑いかけた。
「手術さえすれば生きられるんでしょ?声が出なくたって生きていけるもん。話せなくなるのはつらいし、悲しいけど、世の中には耳が聞こえなくても目が見えなくても、元気に生きてる人がいるんだもん。私だって、同じように元気に生きていけるよ」
ゆっくりまばたきをして、改めてお母さんを見た。
「先生に“手術してください”って、お願いしてね」
お母さんはもちろん、普段は泣いたことのないお父さんまで涙を浮かべている。
圭ちゃんは……、お母さんよりもボロボロ泣いていた。
「チカちゃん。退院したら、前に行きたいって言ってたケーキ屋さんに連れて行ってあげるからね。元気になるの、待ってるから」
圭ちゃんが涙を拭きながら小指を出してくる。
「絶対だよ。約束だからね」
私も小指を出して、指切り。
その日、面会時間が終るまで4人でたくさん話した。
帰るときに圭ちゃんが、
「声が出なくたって、チカちゃんはチカちゃんのままだよ」
と言って、頭をなでてくれた。
「うん」
その言葉が嬉しくて泣きそうだったけれど、私は精一杯の笑顔を返した。