(17)後日談 3 SIDE:シャル
注意!!】ほんの少しですが、幼い頃に受けた虐待によって傷を負ったリタの描写があります。この手のお話に少しでも嫌悪感を抱く方は、この17話を絶対に読まないでください。
トオルと付き合い始めた翌日、出勤してきた私を見て、研究所内が騒然となった。
それもそうだろう。今まで仕事一筋で甘い噂の一つもなかったこの私が、左薬指にダイヤの付いた指輪をしてきたのだから。
「……おはよう、シャル」
さすがの所長もいつもとは少しばかり違って、その笑顔ぎこちない。
「おはようございます。少々お話したいことがあるので、お時間を作っていただけますか?」
この指輪を職場につけてきたということは、私自身にトオルとの未来を考える気持ちがあるということだ。
具体的な将来の話はトオルと二人で改めて所長に話すことにしていたが、私の個人的な思いは自分の口で伝えたかった。いつだって温かく見守ってくれているこの上司には、そのくらいの筋は通さなくては。
指輪と私の顔を交互に見遣っていた所長は大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出していつもの穏やかな表情となる。
「今日の午後でいいか?」
そう言って、所長は私の肩をポンと叩く。
「とりあえず、よかったな。シャルは娘のようなものだから、すごく嬉しいよ」
僅かに潤む所長の目を見て、私は申し訳ない気持ちで一杯になった。
誰も必要としない。
誰の思いもいらない。
私はこれまでも一人だったし、これからも一人だ。
上司の優しさは分かっていたが、今までそう突っぱねてきた私をこれほどまで優しく支えてくれていたことは、実のところしっかりと理解していなかった。
こんなにも穏やかに、こんなにも深く。まるで、実の娘と同等に。
所長の思いが伝わって私も泣きそうになってしまったが、慌てて深呼吸をしてやり過ごしたのだった。
そして、こんな私を優しく見守ってくれた人はもう一人いた。それがリタだ。その彼女にも、これまでの感謝を伝えたい。
その日、思い切ってリタを誘った。私の自宅で夕飯を食べ、そして泊まらないかと。
私の提案に長いまつげに囲まれた大きな瞳が驚きに見開かれたが、次の瞬間にはやわらかく細められる。
「もちろんよ。喜んで」
この世界で生きていくようになってから、初めて誰かを誘った。各国の研究者が集まる学会でのステージに立つ時だって、こんなには緊張しない。
了解をもらえるかどうか不安で息を詰めていた私は、彼女の返事に緊張が解けて顔がふにゃりと緩む。
そんな私を見て、
「いい顔をするようになったわね」
と、リタは私の頭をクシャリと撫でて小さく笑った。
女性二人でキッチンに並んで、あれこれ言いながら料理を作って、それぞれの手料理の感想を言い合って、とても楽しい夕食となった。
その後は各自でシャワーを浴びて、今は私のベッドに二人で並んで寝ている。
夕飯時の延長でトオルのことを根掘り葉掘り訊かれたけれど、その会話の途中で私はずっと気になっていたことを切り出した。
「ねぇ、リタ。どうして私に話しかけ続けたの?あの頃の私って、自分でも嫌な人だったでしょ」
私の右隣で横になっているリタにチラリと視線を向けると、彼女もこちらをチラリと見遣ってきた。
「うん、嫌な人だったわね。こっちが何を言っても笑いもしないし、怒りもしない。まるで、動く人形みたいだった」
包み隠しのない言い様だが、事実なのだから仕方がない。私は苦笑しながら口を開く。
「それなら、どうして?嫌な人間にわざわざ構うことなかったのに」
そう言い返せば、リタは一瞬泣きそうに瞳を揺らした。
「……だって、あなたを放っておけなかったから」
ポツリと答えたリタは、起き上がって私に背中を向ける。
「リタ?」
「女同士だから、別にいいよわね」
リタはおもむろにパジャマの上着を脱ぎだした。
「えっ?」
突然の彼女の行動に驚き、私も起き上がった。そして、パジャマの下から現れたリタの背中を見て更に驚いた。
切り傷、刺し傷、引っかき傷。
繰り返された殴打による皮膚の壊死。
大小様々な火傷。
普段は服の下に隠れている場所に、おびただしい数の傷跡があった。
「それって……」
目の前の光景に、私の全身が小刻みに震えだした。
医者だから分かる。それらがあまりに“不自然な怪我”であることに。
「シャルならこの傷たちがどういうものか、一目で分かるでしょ?」
リタはこちらに向き直り、裸の胸を晒す。彼女は指先で鎖骨から左胸にかけて出来ている大きな火傷痕をゆっくりと辿った。大人の掌ほどの引き連れた皮膚は、周囲とは色が違って目にも痛々しい。
「ぎゃ、く……たい……?」
引きつる喉を動かしてそう呟けば、リタは静かに頷いた。
「そうよ。血の繋がった祖父母、両親、兄、姉から毎日のようにね。物心ついた時には、もう虐待されていたわ」
「ど……、して……?」
リタはIQ160の私ほどではないにしてもその頭脳は優秀だし、気配りもできて明るく優しい女性。どうしてそんなリタが、幼い頃に虐待されなければならなかったのか。
呆然と目を見開く私に、彼女は小首を傾げた。
「さぁ?あの人たちの心の中は、私には分からないもの。どんな理由があって私に虐待したのか、いまだにさっぱり分からないわ」
フフッと笑ったリタは、静かにパジャマを纏い始める。
「だけどね、シャルが家族に傷つけられたんだって事は、会った瞬間に分かったわ。そうでなければ、あんなに何もかも諦めきった悲しい目はしてないもの」
上着のボタンを最後までしっかり嵌めたリタが、右腕で私の肩を抱き寄せる。
「肉体的にしろ精神的にしろ、身内から傷つけられれば、どんなに気丈な人でも“心”が死ぬのよ。あの時のシャル、助け出される前の私と同じ顔していた。だから、放っておけなかった」
リタはグッと強く私を抱き寄せ、コツンと頭を寄せてくる。
「必死に勉強して、必死に働いて、あなたが今の自分に欠けているものを愛情以外のもので埋めようとしていたのがよく分かった。でもね、失った愛情を埋めるには、やっぱり愛情しかないのよ。知識や、名声や、お金なんかじゃ、絶対に埋められないの」
母親が子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした優しい声で話すリタ。そんな彼女の声に自然と涙が溢れてくるのを感じながら、じっとリタの話を聞いている。
「そんなあなたをどうしても放っておけなくて……。シャルにとってみれば、私のことなんて余計なお世話だったかもしれないけど。ごめんなさいね」
私は何度も首を横に振った。
「謝らないで。私、そんなリタに救われていたの。今なら分かるわ」
あんなに素っ気無くて無愛想の私に、懲りもせずに話しかけてきてくれていた。何気なく接してくれる彼女が自分の身近にいたことで、私の心はどんなに助けられていたことだろう。
「リタ、ありがとう。こんな私だけど、友達になってくれる?」
涙でグシャグシャになった頬を手の甲で強引に拭いながら尋ねれば、思いっきり呆れた顔をされた。
「シャル、あなた頭がいいくせに何も分かってないのね」
「え?」
ぱちくりと瞬きをを繰り返せば、今度は盛大にため息を吐かれる。ひどく呆れながら首を振る仕草に、キョトンとなる私。
そんな私をチラッと見て、リタがふいにクスッと笑った。
「私たち、もうとっくに友達よ」
「そうなの?!」
「違うって言って欲しい?」
意地悪そうにリタの口角が上がる。
「やだ、言わないでよっ」
慌ててガバッとリタに抱きついた。
今の自分は彼女にとって“年下の上司”ではなく、“年下の友達”なのだ。そのことを実感できて、嬉し涙でまた頬が濡れる。
「よかった、リタに会う事が出来て。それだけでも、医者になった甲斐があるわ」
照れながらもそう言えば、
「あら?会えてよかったのは“私に”じゃなくて、“トオルに”でしょ?」
と、すぐさまからかう口調が返ってくる。
「な、なに言ってるのよ!」
私は元々つり目がちな目を更につり上げて、ギッとリタを睨んだ。しかし、彼女はクスクスとおかしそうに笑うだけ。
そんなリタを見て、私も笑い出した。