短編
星に願いをかけたことがある?
そう訊かれたら、たぶん私は「ある」と答える。
ただし、今まで本気でやったことはなかった。
流れ星を見つけたら三回願い事を言う。
そんな話は知っている。
けれど、流れ星なんてそう簡単に見つかるものじゃない。
だから今夜、私は初めて本気で星にお願いをしてみようと思った。
夏の夜だった。
昼間の暑さがまだ少しだけ残っていて、ベランダに出るとむっとした空気が肌にまとわりつく。
私はパジャマの上に薄いカーディガンを羽織って、ベランダに置いてある小さな椅子に座った。
時計を見る。
午後十一時四十八分。
「……よし」
私は空を見上げた。
星は思っていたより少なかった。
街の明かりが明るすぎるのだ。
それでもいくつかの星が見えている。
その中でひときわ目立つ星を探した。
お願いをするなら、できるだけ明るくて大きな星のほうがいい。
なんとなく、そう思った。
「……流れ星、出ないかな」
私は空を見上げたまま呟いた。
もちろん、返事はない。
しばらく待ってみる。
三分。
五分。
十分。
何も起こらない。
「……出ないなあ」
首が痛くなってきた。
上を向きっぱなしだから当然だ。
しかも、耳元で、
ぶーん……
「!」
慌てて手で払う。
「もう!」
蚊だった。
こんな大事な夜に、どうして蚊まで私の邪魔をするのだろう。
私は腕をぱちんと叩いた。
「……かゆい」
でも、部屋に戻るわけにはいかなかった。
今日だけは、どうしてもお願いしなければならない。
私はもう一度、空を見上げた。
わし座のアルタイル。
こと座のベガ。
はくちょう座のデネブ。
学校の授業で習った。
ベガとアルタイルは七夕の織姫と彦星。
その二つを結ぶように、天の川が流れている。
そして、そこから大きな三角形を作る三つの星。
夏の大三角。
「……あった」
私は小さく呟いた。
アルタイル。
ベガ。
デネブ。
見つけた。
私は椅子から立ち上がった。
なぜだか、それだけで少し嬉しくなった。
「お願いします」
私は空に向かって手を合わせた。
「アルタイル様」
次に、
「ベガ様」
そして、
「デネブ様」
三つの星を順番に見上げる。
「どうか……」
そこで、言葉が止まった。
お願いしたいことは、ずっと決まっていたはずなのに。
いざ口にしようとすると、恥ずかしくなった。
誰かに聞かれているわけでもない。
星しか見ていない。
それでも、なかなか言えない。
「……どうか、私のことを……」
そこまで言って、私は黙った。
頬が熱くなる。
「……好きになってくれますように」
言った。
小さな声だった。
夜の空気に溶けてしまうくらい、小さな声。
けれど、自分の耳にはちゃんと届いた。
「……言っちゃった」
急に恥ずかしくなって、私は空から目を逸らした。
誰もいないベランダなのに、周囲を見回してしまう。
もちろん誰もいない。
家の中からも物音ひとつしない。
私は少しだけ笑った。
「星にお願いしたって意味ないかな……」
そう呟いた、そのときだった。
「……こんばんは」
「きゃっ!」
突然、垣根の向こうから声がした。
隣の家との境にある路地に知らないおじさんが立っていた。
「……だ、誰?」
「いや、怪しい者じゃないよ」
おじさんは笑った。
その言葉が、逆に怪しかった。
私は一歩、後ずさる。
「星、見てるの?」
「……」
「流れ星?」
「違います」
「願い事?」
「……」
私は答えなかった。
おじさんはしばらく空を見上げて、
「今日はあまり見えないねえ」
などと言っている。
私はそっとベランダの窓に近づいた。
いつでも家の中に逃げ込めるように。
「じゃあね」
おじさんが手を振った。
そして路地の向こうへ消えていった。
私はすぐに中に入って窓を閉め、鍵をかけた。
「……もう」
ため息が出た。
蚊には刺される。
首は痛い。
流れ星は出ない。
おまけに変なおじさんまで来る。
散々な夜だ。
私はもう一度だけ、部屋の中から空を見上げた。
雲が少しずつ広がっている。
せっかく見えていた星も、だんだん隠れていく。
「……もう寝ようかな」
そう思った。
でも、その前に。
私は空の少し低いところを見た。
「あれ?」
見覚えのある星があった。
夏の大三角よりも、ずっと明るい。
もちろん、季節によって見える位置は違う。
それでも、私はその星を知っていた。
「……シリウス」
思わず笑ってしまった。
夏の夜空で、必死になってアルタイルだのベガだのデネブだのを探していたけれど。
一番明るい星といえば、やっぱりシリウスだ。
「……こっちのほうが、お願い聞いてくれそう」
私は空に向かって、もう一度手を合わせた。
「シリウス様」
自分で言っておいて少し笑う。
「お願いします」
今度は、さっきよりもはっきりと言った。
「どうか、明日……」
そこで私は少しだけ迷ってから、
「ちゃんと、話せますように」
と願った。
好きになってほしい。
付き合いたい。
もちろんそうなんだけど。
まずは明日、ちゃんと顔を見て話したい。
それだけだった。
空の星たちは、何も答えてくれない。
流れ星も現れない。
雲も少しずつ増えている。
それでも私は、なぜだか少し安心した。
「……よし」
そして、カーテンを閉める直前、もう一度だけ空を見上げた。
「おやすみなさい」
誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
翌朝。
学校へ向かう道で、私は昨日の夜のことを思い出していた。
星にお願いした。
アルタイルにも。
ベガにも。
デネブにも。
最後には、シリウスにまで。
こんなことをして、何になるのだろう。
そう思っていた。
けれど――。
「おはよう」
教室の前で、彼が声をかけてきた。
「……お、おはよう」
時が止まった。
私は一度だけ深呼吸をした。
そして、ちゃんと彼の目を見た。
「ねえ」
「ん?」
「今日、帰り……ちょっと話したいことがあるんだけど」
彼が少し驚いた顔をした。
それから、
「いいよ」
と笑った。
私は小さく頷いた。
窓の外は、昨日と同じ夏の空だった。
昼間だから、星は一つも見えない。
それでも私は、なんとなく空を見上げた。
「……ありがとう」
誰に向かって言ったのか。
私にもよく分からない。
ただ。
今夜も晴れていたら、もう一度空を見上げてみようと思った。
終




