未来ノート
俺は中古書店で一冊の小説を買った。
誰かの手垢が残る古びた本。
時間を潰すにはちょうどいい。
子どもの頃に読んだ懐かしい作品だ。
家に帰り、本を開くと、一冊の小さなノートがページの間から落ちた。
表紙には、こう書かれている。
『未来のノート』
「なんだこれ?」
拾い上げた、その時だった。
玄関の扉が開く音がする。
学生時代から付き合っている彼女が帰ってきた。
家に帰るなり、彼女はまた結婚の話を匂わせる。
自分が結婚して、子どもを育てる。
そんなのは想像もつかなかった。
どこかで覚悟を決めなければとは思っている。
けれど、その問題をずっと先延ばしにしていた。
「もっと俺が稼げれば、とっくに結婚してるよ」
お決まりの台詞を笑いながら言い放つ。
稼げないのは景気が悪いからだ。
そんな言い訳を並べ、今回も話を逸らした。
ある休日の朝。
彼女は不安そうな表情で俺の前に立ち、
「私には、もう時間がない」
と静かに言った。
また結婚の話か。
そう思った瞬間、うんざりして口論になった。
なぜ彼女は、こんなにも結婚を急ぐのか。
長い間付き合ってきた。
責任を取らずに逃げるつもりなんてない。
それなのに信用されていない。
そう思えば思うほど、未来の話に耳を塞いでしまう。
俺は話から逃げるように部屋へ入った。
狭い一室。
壁一面に並ぶ小説。
積み上げられた本の上には、この前の小さなノートが無造作に置かれていた。
何気なくページをめくる。
今日の日付。
そこにはニュースのトピックスのような短い文章が並んでいた。
次のページも。
その次のページも。
「なんだよこれ」
鼻で笑い、そのままゴミ箱へ放り投げる。
しかし、その日起きた出来事は俺に衝撃を与えた。
未来のノートに書かれていた内容が、そのままニュースで流れたのだ。
慌ててゴミ箱から未来のノートを拾い上げる。
その日を境に、俺の人生は変わった。
莫大な金を手にした。
金を手にすると行動範囲が広がった。
美女にも囲まれた。
自信もついた。
そして――口うるさかった彼女は去った。
別に構わない。
今の自分には、もっと釣り合う女が現れる。
そう思っていた。
それなのに。
贅沢な暮らしを送るほど、あの狭い部屋を思い出す。
目の前の美女が微笑むたび、不安そうな彼女の顔が脳裏をよぎる。
そして決まって、その後には学生時代から続いた他愛もない会話。
俺の話を楽しそうに聞く彼女。
腹の底から笑い合った日々が鮮明によみがえる。
気づけば俺は地元へ戻っていた。
懐かしい景色。
変わったもの。
変わらないもの。
昔の面影を残す街並み。
俺は何をしてるんだ。
何がしたかったんだ。
こんなに金があるなら、すぐにでも彼女と結婚できたじゃないか。
金がなくても。
あの時ちゃんと向き合って、話を聞いていれば...。
謝ろう。
彼女が許してくれるまで。
戻ってきてくれるなら、他には何もいらない。
『もう一度、話をしたい』
俺はメッセージを送った。
鳴らないスマホを何度も見返しながら帰宅し、溜め息を吐きながらテレビをつける。
未来のノートに書かれていた事故がニュースで流れていた。
今までのトピックスとは、明らかに毛色が違う。
だが、その時の俺には他人事だった。
「今日はこれだけか」
今朝、読み飛ばした未来の惨事。
画面には、八年前に東京へ来て初めて二人で訪れた場所が映る。
背伸びしてプレゼントしたネックレス。
あの時の彼女の笑顔が浮かぶ。
次の瞬間。
その事故に巻き込まれた人物の名前が読み上げられた。
画面から目を逸らす事ができない。
アナウンサーの声だけが、広く冷たい部屋に響いた。
表示された氏名、年齢。
なんで……彼女の名前が……。
八年前。
今日と同じように寒い日だった。
「11月22日は、私にとって最悪の日だと思ってたけど……」
「記念日になったよ。大切にするね」
そう言って笑いながらネックレスをつけた彼女。
遠い記憶。
あの時、その言葉が引っかかってたのを覚えている。
11月22日――。最悪な日。
スマホの待ち受け画面には11月22日と大きく表示されている。
そこへ新着の通知が表示される。
『もう、会えない。さようなら』
それは未来から届いた、最後のメッセージだった。
テーブルの上に置かれた『未来のノート』を、震える手でめくる。
11月22日、次のページは――
すべて真っ白だった。
「……なんでだよ」
次のページも。
その次のページも。
何度めくっても、一文字も書かれていない。
ノートの表紙の裏の小さな文字が目に入る。
『運命が変わりますように。未来』
今更思い出す。
それは学生時代、何度も見てきた。
彼女の字だった。
いつから、未来は自分の運命を知ってたんだ?
俺と結婚すれば運命は変えられたのか?
なのに俺は――。
ニュースの死亡者数が1人増える。
それと同時に、俺は未来を失った。




